◆01 野に咲く荊冠
灰色の雲がどこまでも広がる空。太陽の姿など久しく見たことがない。湿り気を含んだ冷たい風が大地を撫でるたび、草木はひそやかに揺れるが、そこには生命の活力とは違う、不吉なものが漂っているように思えた。
カインは村外れの小さな畑で、使い古した鎌を振り下ろしていた。畝間に生い茂る雑草を刈り取る音だけが、周囲の沈黙を切り裂く。かつては賑やかだったこの畑も、今では彼ひとりの労働場だった。村人たちは怯えきり、外に出ることすら避けるようになっていた。
「どこもかしこも荒れちまったな……」
カインの声は空気に消え、誰の耳にも届かない。ただ、彼自身を慰めるために発した独り言だった。略奪者が現れ始めてから、村の空気は変わった。誰もが他人を信じることを恐れ、家に籠り、残された食料を死守するだけの日々。
ふとカインの目が村の中央にある祠に向いた。それは村の守護神を祀るものだったが、今や崩れかけた瓦礫の山に過ぎなかった。かつてこの地を治めていた王の像も、首が欠けて久しい。その跡地には、草が茂り、奇妙に尖った棘が絡みついていた。
祠はいつも彼に不思議な感覚を抱かせた。何かが自分を呼んでいるような――そんな得体の知れない引力を感じるのだ。今日もまた、彼の足は無意識にその方向へ向いていた。
祠に近づくと、空気が急に変わったような気がした。肌を撫でる風が冷たく、湿っぽい。鳥の鳴き声さえ途絶え、耳には自分の呼吸音だけが響く。カインは一瞬立ち止まり、周囲を見回したが、特に異変はない。ただ、心臓が早鐘を打つ音が異様に大きく感じられた。
足元に視線を落とすと、黒い何かが草むらの間に見えた。カインは膝をついてそれを掘り起こす。濡れた土の匂いが鼻をつく中、彼の手が触れたのは、奇妙な金属の冷たさだった。
「これは……なんだ?」
泥に塗れたそれを引き上げると、それは王冠だった。黒光りする鉄でできたその造形は、どこか人間的でない形をしていた。鋭い棘や絡み合うような模様が、異様な美しさを持っていた。
「王様の……ものなのか?」
誰に聞くでもなく呟いたその声が、不思議と場の静けさに吸い込まれていくようだった。王冠は微かに輝いて見え、カインを惹きつけて離さなかった。彼の心に、不安と興味、そして抑えきれない好奇心が渦巻き始める。
カインは王冠を手に取ると、その冷たさに驚いた。金属の冷えた感触が手のひらにじんわりと染み込むようだった。けれども、それは単なる冷たさではなかった。王冠には、脈打つような奇妙なエネルギーが感じられた。まるで、生きている何かの一部を握っているかのような感覚だった。
「なんだ、この感じは……」
彼は言葉を呑み込む。心の奥に何かがざわめいた。畑での疲労や周囲の冷たさが一瞬で消え去り、全身を奇妙な興奮が駆け抜ける。王冠は異様に重い――いや、それだけではない。視線を奪われるような、この得体の知れない魅力。
しかし同時に、背筋が冷たくなるような不安も感じた。普通のものではない。これは……触れてはならないものなのではないか――。
「……いや、持って帰るだけだ」
カインは自分に言い聞かせるようにそう呟いた。捨ててしまえばいい。しかし、この荒れ果てた祠に放置しておくのも危険だ。略奪者が手にしたら、もっと危険になるかもしれない。そんな考えが彼を正当化し、結局、王冠を手にしたまま村へ戻ることにした。
歩き始めると、王冠は微かに熱を帯び始めたように感じられた。それは心地よい温もりというよりも、じわじわと侵入してくるような、不可思議な感覚だった。
周囲は相変わらず静まり返っている。草木のざわめきすら止まり、耳に届くのは自分の靴が地面を踏む音だけだった。その静寂が、カインの心の奥に不安を刻み込む。
村が近づくにつれ、彼の中で奇妙な確信が生まれ始めた。
「これは……運命だ」
それがどんな運命なのかはわからない。ただ、この王冠に出会ったことには意味がある。そんな不可解な信念が、次第に彼の心を覆い始めた。
村の門が見えるころには、カインの頭はまるで王冠に支配されているかのように、それ以外の考えを押しのけていた。王冠は再び冷たくなり、存在を主張するように彼の手に吸い付いていた。まるで自分の意志で、彼の帰る場所を確かめるように。
「どうして俺がこんなものを拾ったんだ……」
呟きながらも、カインは王冠をしっかりと抱え、村の中に入っていった。
村の中に足を踏み入れた瞬間、カインはいつもとは違う空気を感じた。遠くから、怒号や甲高い悲鳴が断続的に聞こえてくる。何かが起きている――ただならぬ緊張が肌を刺した。
「略奪者か!」
カインは駆け出した。村の広場にたどり着くと、そこには荒らし回る略奪者たちの姿があった。彼らは農具や壊れた道具を振り回し、次々と家々に火を放っていた。怯える村人たちは物陰に隠れて震えているか、命がけで抵抗している。だが、戦闘の経験も武器もない村人たちに勝ち目などなかった。
「クソッ!」
カインの目に怒りがこみ上げる。彼は手近な物――転がっていた木槌を拾い上げると、震える手で握りしめた。だが、一歩踏み出そうとした瞬間、視界が一瞬にして揺らいだ。
手にしていた王冠が、今までとは異なる熱を帯び始めた。指先に伝わるその熱は、単なる温もりではなかった。王冠が彼に語りかけている――そう感じさせる、奇妙な感覚だった。
(力を……求めろ……)
その声はどこからともなく湧き上がり、彼の頭の中に響き渡った。ぞくりと背筋が冷たくなる。それと同時に、全身に奇妙な力が満ちていく感覚があった。
「お前……何なんだ……」
呟きながら、カインの指はゆっくりと王冠に触れた。引き寄せられるように、そのまま頭に載せる。瞬間、視界が爆発するように明瞭になった。周囲の音が異常に鮮明に響き、略奪者たちの動きがまるで鈍ったかのように見える。
身体の奥底から力が湧き上がる。筋肉が膨れ上がるような感覚――いや、それ以上だ。自分自身ではない「何か」が、身体を支配し始めた。
「おい!何者だ!」
略奪者の一人がこちらに気づき、錆びた刃を手にして突進してくる。その瞬間、カインの足が自然と動いた。木槌を振り下ろす。乾いた音と共に、男は地面に沈んだ。その感触――骨が砕け、肉が裂ける感覚を、カインは異常に鮮明に感じ取っていた。
「……嘘だろ……」
しかし、体は止まらない。次々と襲い来る略奪者たちに対し、木槌を振り、蹴りを入れ、打ち倒していく。怒りや恐怖といった感情はすでに消え失せ、代わりに冷徹な「支配者」としての自覚が心を満たしていった。
(いいぞ……その力を使え……全てを屈服させよ……)
王冠の声が彼を煽り立てる。血の匂いが鼻を刺し、地面には無残に倒れた略奪者たちが横たわっている。最後の一人を倒した時、静寂が訪れた。
カインは気づけば村の広場の中心に立っていた。自分の手を見下ろすと、木槌は血と泥にまみれ、自分の指先は不自然に黒く染まり始めていた。
広場は異様な静けさに包まれていた。略奪者たちは皆、地面に倒れ伏し、その周囲には赤黒い血溜まりが広がっている。焚き付けられた家々からはまだ煙が立ち上り、焦げた木材の臭いが漂っていた。
カインは木槌を握ったまま、震える手を見下ろした。その指先は、闘いの中で染まった泥や血だけでなく、どす黒い痕跡が広がっていた。まるで何かが彼の体の内側から滲み出ているかのように。
「……俺がやったのか?」
言葉は声にならないほど弱々しかった。村を救ったという達成感がある一方で、それ以上に胸に広がるのは恐怖だった。あの力はなんだ?あの冷たく支配的な声は?
「カイン……」
振り返ると、物陰に隠れていた村人たちが少しずつ顔を出し始めていた。その目には感謝と驚き、そして明らかな恐怖が宿っていた。
「本当に……お前がこれを?」と、一人の老人が震える声で問いかける。
カインは答えなかった。手にしていた木槌を静かに地面に置き、頭の上に載せたままだった王冠をそっと外した。すると、全身を駆け巡っていた力が引き潮のように引いていき、足元がぐらりと揺れるような虚脱感に襲われた。
「……助けたじゃないか。俺は……村を守ったんだ」
そう呟いたが、自分でもその言葉に確信が持てなかった。村人たちは誰も返事をせず、ただ彼を凝視している。その目は、かつて仲間としての信頼を向けていたものとは違った。
「怪物みたいだった……」誰かが呟くのが聞こえた。
その言葉が胸に突き刺さった。だが、カインは振り向きもしなかった。ただ王冠を握りしめ、その感触の奥底に潜む「何か」の存在を確かめるように目を閉じた。
王冠は再び冷たくなり、まるでただの物体に戻ったかのように静まり返っていた。それでも、カインの胸の内には確かな囁きが残っていた。
(お前は王になるべきだ……)
その言葉に抗う力は、もはや彼の中には残っていなかった。
カインは振り返らず、崩れかけた祠の方角を見やりながらゆっくりと歩き出した。村人たちは誰も彼を止めなかった。むしろ、彼から距離を取るように道を開けた。
頭上には灰色の雲が広がり、風は少しずつ冷たさを増していく。彼の歩く道には、人々の安堵と恐怖が入り混じった視線が突き刺さっていた。