大島渚監督「愛のコリーダ」
内容が内容なんで、ガッツリモザイクが入っていた。当たり前っちゃ当たり前だが、ネットフリックスでモザイクは初めて観たので思わず笑ってしまいました(;´∀`)
あと、思ったよりも皆、阿部定事件知ってるのね。事件内容も内容だし、アングラでマイナー扱いされてるかと。
タイトル・愛のコリーダ
監督・大島渚
公開日・1976年10月16日
あらすじ
時は昭和11年。東京の料亭「吉田屋」。そこで働く女中、定とそこの主人である吉蔵は出会う。
互いに惹かれ合う二人は、密会を繰り返した挙句に「吉田屋」を出奔。待合(貸座敷。芸者さんを呼んだり、宴会したりする場所)で昼夜問わず愛欲に溺れる日々を過ごす。そんな二人の想いは過激さを増し、とうとう一線を越える。
感想
がっつりエッチでした。それもただのエッチじゃねぇんだ、見るのに体力も気力も使うタイプのエッチなんだ。自分で言うのもナンだが、自分はかなり創作物のエッチに慣れている。何十本もエロゲをプレイしてきたし、官能小説も読んだし、ラッキースケベ盛りだくさんのラノベだって読んできた。けど、今作のエッチはそれらとベクトルがまるで違う。終始湿度が高くて、登場人物に心から感情移入も出来ず、スッキリとするストーリーでもないのだ。どちらかというと、金田一耕助作品や火曜サスペンス劇場に近い。
正直言って、エロ目的で視聴するのは止めておくべきだろう。下手すればトラウマものだ。無論、大島渚監督だってAVのつもりでこの映画を撮ったわけじゃないので当たり前かもしれないが、それにしてはあまりにも濡れ場が多く登場人物の性欲も旺盛だ。
あと上記のような感想を抱かせた原因の一つとして、定と吉蔵がどうにもお互いを想っているように観えなかったというのもある。
映画中盤、定は金の無心をしに面倒を見てくれていた市議会議員と学校の校長を勤める大宮(※)という老人の元に向かい、同じベッドで互いに全裸になって寝ている。挙句、彼に自分をぶてだの髪を引っ張れだの要求し行為に及ぶ。時を同じくして、吉蔵も定の帰りを待つ中で酒を運んできた中年の女中と乱暴に行為に及ぶ。
これだけなら性欲旺盛で済むが、吉蔵は定が男の元へ行くということでヤキモチ焼いて行為に及び、定は吉蔵が家に帰らないようにと恋しい思いから着物を持って出かけてるんで「お前等なんなの?」と言いたくなる。
男と女は簡単に割り切れないだの、自分の男女仲の捉え方が変ということもあるが、どうにもお互いに好き好き言ってる割には自分勝手な面が目立つのだ。この言い方は少々乱暴かもしれないが、自分にとって都合のいいオ〇ホとデ〇ルドとしか見ていないように自分には思えた。終盤になると定も開き直ってるし。
オチもある意味、自分勝手の極と言えよう。なにが、「殺しちまいたいくらい大好き」だ。
フォローするわけじゃないが、中盤以降暴走する定にドン引きしている吉蔵は気の毒に思えた。案外、彼にとっては火遊びだったのかもしれないが、最初に定へちょっかいを出したのは彼なので自業自得とも言えるが。
とまぁ、ストーリーはこの上ないくらい不満を抱いているが、これがほぼほぼ実際に起こったのだから現実というのは小説(映画)よりも奇なりなのだろう。物書きとしては、一度現実に勝ってみたいものだがここまでの狂気は自分の凡庸な頭では考え付かない。
まとめ
凡庸な物書きの言葉では書き表せないくらいの男女の狂気。
自分勝手が生んだ悲劇は、人の命を奪う。
人を想う気持ちとは一体何か。今一度、考えて想い人と向き合うきっかけになる作品。
(※)現実の阿部定も同姓かつ同じ職業の人に支援を受けていたらしい。Wikipedia調べなので、嘘か本当かは知らないけど