線を書いてください
男は就職面接の最中、差し出された紙とペンに目を向けなかった。
そして空中に人差し指を浮かべると、横に凪ぐ。
「描きました」
会場は、障がい者の就職支援として枠を提供している大手企業の面接会場だ。
ひとつ孤立した椅子に座らされ、堅いスーツで身を包んだふたりから荘重な趣で様子を伺われているひとりの男がいる。
彼は、目が虚ろな...
まるで生気の感じられない男だ。
実際男の目には光が宿っていない。
白い杖を椅子の横に携え、この面接に挑んでいるようだ。
「線を書いてください」
この質問は、男の空間把握能力を確かめる為のものだった。
されど、その意図を感じ取ることが出来なかったであろう男を前に、スーツを身体に纏う面接官はやがて首を捻るだろう。
そして1間息を吐くと、重々しい言葉を男に告げる。
「貴方は描いていません
貴方は宙に指を振っただけです」
訝しげな目で見られる男は、まるで面接官の真似をするように首を捻り返すと、そのまま続けた。
「次元的に考えてください
このペンで線を書いても、それは立体です
私たちが1次元と定義する線には、太さ、厚さがありません。」
男は置き去りにされていた紙をやっと手に取ると、面接官から水平に浮かべた。
「これは何次元ですか?」
面接官は、バカにでもしているのか?と言うような表情。
そして背もたれに背を預け、再び口を開く。
「3次元でしょうね」
しかし、相も変わることなく男の目は虚ろだ。
「ええ、そうですね
これには高さと奥行きがあります」
思考の読めぬ眼を見つめたまま、面接官は固まった。
「私たちは、他の次元を捉えられません
ではどうするか...」
男が口を紡ぐ。
しかし1瞬だ。
椅子から立ち上がり、パントマイムのように手のひらを垂直に浮かべる。
「私はこの世界に4次元を仮定しました」
面接官には目もくれず、男はただ虚空を見つめる。
「次元の定義は要素です
点は0
1次元は長さが生まれる
2次元は高さ
3次元は奥行き
では4次元は?」
「...」
面接官は、口を開こうとしなかった。
それは答えられないから、否、彼の見る世界に興味を持ったからかもしれない。
「私は、裏と仮定しました」
「裏...?ですか」
「ええ、裏です」
男は躊躇いなく肯定し、手のひらを裏返した。
「よく、4次元は3次元の全貌を認識できる形であると言いますよね?
一体どうやって?
私たちはさらに低い次元すら捉えられないのに...
でも答えは簡単です
3次元は裏が見えないから
つまり次元が足りないんですよ。」
面接官は、もう言葉を吐く気にはならなかった。
それは興味、或いは自分の捉えられぬ何かへの憧れからか。
それに男の眼が、見えていなかった光に満ちていたように見えたからかもしれない。
「もし、この世界に裏という次元を定義するとどうなるか...
それはあらゆる空間に境界点、境界線が生まれるという事です
私が指で描いたものは、その境界線です
屁理屈だと思うかもしれませんが、3次元で完全な線を描く方法は、これしかないと思いましたので...」
男が静かに着席する。
目は相変わらず虚ろだが、何故かその目先は、面接官に向いている。
声を辿れば簡単だ。
しかしそんなことですら、面接官には不思議に思えて仕方がなかった。
「なるほど...
独自の世界から導き出したひとつの答えという訳でしたか...
ありがとうございます
それでは次の質疑へと...」
面接官は我に返るが如く、面接の続きへと思い至る。
が、男はそこに言葉を重ねた。
「お言葉ですが、本件は辞退させて頂きます」
「...何故ですか?」
カツンカツンと白状を鳴らしながら去っていく男が、ただ佇むしか出来ない面接官へ、たったひと言だけ呟いた。
「杖掛けが、ありませんでしたので。」
「あなたがたも、人付き合いにはお気を付けくださいね?
何せ3次元では、裏が見えませんから」
男は境界線へと消えていった――
見えてなくても診えている。
分からなくても感じている。
どんな世界にも裏はある。
そんなお話でした。