月のうさぎ
雄太のじいちゃんはお月見の時になると、決まって月のうさぎの話をした。
「あるところにお腹を空かせた老人がいた。うさぎときつねとさるはその老人のために食べ物を集めてくる事にした。きつねは魚を、さるは木の実を集めてきたが、うさぎは何も持ってくる事ができなかった。そこでうさぎは『わたしを食べてください』と言って、火の中に飛び込んだ」
本当は神様だった老人はうさぎの行動に心を打たれ、月にその姿を映したのだと言う。
まだ小学校一年生だった雄太はその話が好きじゃなかった。雄太にはうさぎが理解できなかったからだ。
「そのうさぎはバカだよ。自分が死んだら、父ちゃんも母ちゃんも、じいちゃんもばあちゃんも悲しむじゃないか」
そう言うとじいちゃんは豪快に笑った。
「ハッハッハ、雄太は賢いなあ。ちゃあんと周りの人間の事を考えられるんだなあ」
じいちゃんは雄太の頭をぐりぐりと撫でる。
「それでいいんだ。それでもいいんだ。でもな、きっとうさぎは……」
その先に何を言っていたのか、雄太は忘れてしまった。
雄太は高校生になった。将来はゲームクリエイターかアニメーターになりたいなあなんて、ほわっとした事を考えながらも、結局明確な進路は決められずにとにかく大学受験に向けて勉強している。
「おーい、雄太ー。今日はお月見だぞー」
じいちゃんの声が聞こえてくる。
「お月見なんていいよ! おれは勉強するんだから!」
雄太がそう叫び返すと、じいちゃんは二階まで上ってきて雄太の部屋のドアを開ける。
「家族の集まり以上に大事なもんなんてないんだぞ。さあ来い!」
じいちゃんはじいちゃんなのにまだまだパワフルで元気だ。にこにこ笑いながら雄太を引っ張り出す。雄太はじいちゃんには敵わない。いや、本気で力をこめれば勝てるかもしれないが、でも万が一にもじいちゃんにケガさせたら大変だから、やっぱり敵わない。
この前、白内障の手術もしたくせにい、と関係ない事を思いながら、渋々縁側に顔を出す。
縁側にはもう父ちゃんも母ちゃんもばあちゃんも揃っていた。兄ちゃんの正志だけがいない。じいちゃんと父ちゃんは日本酒を酌み交わしながら、ばあちゃんと母ちゃんはお団子をつまみながら、兄ちゃんの話をする。
「正志はすごいわねえ。もうアフリカについたんでしょ?」
「ええ、電話が来てました」
「アフリカの人を一人でも多く救いたいって言ってたな。とてもおれなんかの息子とは思えないよ」
「トンビが鷹を産んだな、ハッハッハ」
兄ちゃんは医者だ。日本にいれば普通にいい給料がもらえて、普通に結婚したりできるだろうに、なぜかアフリカに行ってしまった。みんなその話題で盛り上がっている。
月の神様の依り代で、悪霊や災いから収穫物を守ってくれるというススキが、涼しくなってきた夜の風に揺られている。いつもならじいちゃんがそんなお月見の由来を語ってくれるのに、今日は後回しのようだ。
雄太は真ん丸の月を見上げる。そこではうさぎが餅をついている。
うさぎってのはバカだ。生きていれば楽しい事はたくさんあったろうに。自分を犠牲にしてできた事は、周りを悲しませる事だけじゃないか。
「ハハハ、そうかな?」
雄太がいつもうさぎに文句を言うと、じいちゃんは笑う。だから雄太はまた口を尖らせる。
「人間って幸せになるために生まれたんだろ」
じいちゃんは「うんうん」と頷く。じいちゃんは何か言いたそうに、でも言わないでにこにこ笑っている。
母ちゃんにはいつも幸せになれる事を、楽しいと思える事をしなさいと教えられてきた。だから雄太は思うのだ。
「なら自分の楽しい事を一番にすればいいんだ。ゲームしたり、漫画読んだり。友達と遊んだり、旅行に行ったり」
それを全部捨てて、アフリカに行ってしまった兄ちゃんの事なんか、雄太には全く理解できない。兄ちゃんだってゲームや漫画は好きだったはずなのに。
雄太は無事、大学生になった。
「今日はお月見かあ」
大学の帰り道、電車に揺られながら、窓の外の空を覗く。日が暮れるのが早くなってきた。月はもうあがってるかな。
月を探す前に、雄太の思考はぼーっと別の場所に行った。今夜の月見の話題はなんだろう? 兄ちゃんは変わらず元気だって、アフリカの人達と一緒に写った写真を送ってきた。なんかすごい笑顔だったな。
今日はたぶん従弟の実兄ちゃんの話だろう。
実兄ちゃんの開いている子供食堂の経営が厳しいのだと、ばあちゃんが言っていた。
(バカだよなあ)
雄太は思う。子供食堂の食事料金は基本無料だ。地域の人からの農作物の差し入れや寄付、そしてばあちゃんみたいなボランティアで食事を作ってくれる人のおかげで今までやってきたらしい。
それでも厳しい時は、実兄ちゃんは自分のお金を出して賄っているのだと。
(なんで自分の身を削ってまでそんな事するんだ? 食事を提供するならお金をもらって当然だろ。自分の稼ぎにもならない事をするなんて、意味がわからないよ)
実兄ちゃんに、「もうやめれば?」って言ったら、実兄ちゃんは困ったような顔で笑っていた。
「おれは人のためになる事をしたいんだ」
人のため? どうして? それって自分を犠牲にしてまでやる事? 雄太の質問攻めに実兄ちゃんはやっぱり笑った。
「それがおれの幸せなんだよ」
意味がわからない。幸せって自分が楽しいって事でしょ? なんでそんなに嬉しそうなの?
目的の駅に着いた。ぼーっとしていた雄太は慌てて立ち上がる。すると同じように焦りながら、ベビーカーを持って降りようとしているお母さんがいた。
片手に小さな子、片手にベビーカー。大変じゃない訳はない。雄太は思わずベビーカーに手を伸ばしていた。
「おれが持ちますよ」
電車から降りるたった一瞬の出来事。でもお母さんは本当に嬉しそうに、何度もありがとうと言っていた。
その時、雄太は子供の頃、じいちゃんに言われた事がわかった気がした。
たった一つの言葉のため、たった一つの笑顔のため、人は自分を捧げられる。
そこまで大きな事は雄太にはできないけど、でも小さな事だって、人を笑顔に、ううん、自分が笑顔になれるんだ。
「子供食堂、おれも手伝ってみようかな」
雄太は月を見上げながら微笑んだ。
完
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