時計の針:彼
初めて会ったとき、彼女はまだ子供だった。
少なくとも僕はそう思い込んでいて、その悩みや家に帰りたくないと言う言葉を反抗期だからと軽く受け止めていた。
ありきたりな台詞で彼女を宥めて、車で家の近くまで送る。
「ありがとう。」
その言葉とは裏腹に恨むような目が僕を睨みつける。
そんなに睨むなよ。
いつか親に感謝するときが来るからさ。
心の中でそんな偉そうなことを言って、笑ってた。
なんて軽薄で馬鹿な男だったんだろう!
今、彼女の前にそんな奴が現れたら殴り飛ばしてやるのに。
異変に気付いたのは……嫌でも気付かされたのだけれど、それから数ヶ月後のことだった。
その日も彼女は学校を早退して来ていて、いつものように暗い顔で家に帰りたくないと話していた。
母親と性格が合わないということも言っていた。
話の途中で突然立ち上がった彼女が一番近くのゴミ箱に頭を突っ込んだ。
いきなりおかしな行動をする奴だと首を傾げていると、彼女はゆっくり顔を上げた。
唇が赤い。顔は蒼白で、目も少し虚ろだ。ゴミ箱の中はまさに血の海だった。
これには驚き、絶句した。
覚えがある。僕が今の仕事を始めてしばらくした頃のことだ。
胃が痛い、目眩がする、そして波のように襲い掛かる吐き気。
早く仕事を覚えなければならないプレッシャーと、やっと就職できた会社への気持ちから仕事を休むことができず、病院にも行けないでいた。
吐き気がして会社のトイレに駆け込んだ。
便器に頭を突っ込み、喉の奥から這い出てくるものを吐き出した。
真っ白だったはずの視界が一気に赤く染まり、口の中は鉄の錆みたいな味がした。
ストレス性の胃炎。
医者からそういう説明を受けたとき、胃に穴を開けるのは意外と簡単だったんだと頭の片隅が呟いた。
気付くと僕は彼女を両腕に抱え、車に向かって歩いていた。
目が虚ろで、ぐったりしている彼女の体は軽くて細かった。まだ子供だ。だけど、子供だって大人と同じように悩んだり、追い詰められたりするんだ。
何故それを侮ったりしたんだろう?
こんな愚かな大人がいるから子供がこんな痛みに苦しまなければならない。
そんなこともわからないのか、僕は!
「どこ、行くの?」
掠れた声で彼女が聞いた。
僕は涙が出そうなのを隠し、鼻からゆっくり息を吸い込んだ。
「病院だ。医者に診てもらえよ。」
そう言った瞬間、彼女が暴れ出した。
「嫌!病院なんて行きたくない!」
軽いとはいえ、暴れられては落とさずに抱える自信がない。
ゆっくりと地面に足を着けさせて下ろした。
「何で行きたくないんだ?放っておいて治るものじゃないぞ。」
逃げようとする彼女の肩をがっちり掴んで、僕は聞いた。
彼女を知りたい。今まで真面目に聞いていなかった話の本当の意味を聞かせてほしい。もっと本心に近いところで。
こんな気持ち、初めてだ。
彼女が僕を振り返り、試すような眼差しで僕の目を見つめた。その目を見つめ返した。
瞬きもしないで、僕という人間を信じてくれることを祈りながら。
「意味……ないから……」
小さな声でそう言ったのが聞こえた。
「どういうこと?」
僕が聞き返す。
「医者は、子供より親の言葉を信じる。親が自分の子供は大袈裟に騒いでいるだけだと言えば、検査もせずに効かない薬を処方して私を家に帰すの。」
「でも、そのままじゃ……」
「薬なんかより効くものがあるから私は大丈夫。」
彼女は笑った。僕に向けてくれた初めての笑顔だった。
でも無理してるのがよくわかる。何て言ったらいいのかわからず、僕は首をひねった。
そして少し先に停めてある車を指差した。
「どこか行きたいところはないか?」
彼女の目が輝いた。
「空が近くて広いところ!知ってる?」
「あぁ……一箇所だけ。」
その一箇所というのは山の展望台で、実はあんまりいい思い出がない。
昔、付き合ってた女と夜景を見に行ったんだけど、周りはカップルだらけ。
しかも、どいつもこいつも盛ってやがるから僕も調子に乗ってキスしようとしたらビンタを食らわされた。
その後、気まずい空気に耐え切れなくなり帰ろうとエンジンをかけたら、隣の空きスペースに停めようとバックしてきた車にぶつけられた。
彼女は更に不機嫌を増し、保険の話やら何やらの話をして疲れきった僕に帰り際、別れ話をして車を降りて行った。
疲れ過ぎて止める気力も、戻ってくれと言う気も起きなくて今に至る。
僕はあの女と別れてから、ずっと恋人がいないのだ。
道すがら、そんな話をしていた。
彼女は興味なさそうに相槌を打ち、外を眺めていた。
「着いたよ。」
展望駐車場に車を停めて外に出ると、彼女は足早に展望台に向かった。
僕の車の他は一台もない。今、ここには二人だけだ。
展望台の階段を上がり切ると、彼女はそこにいた。
青と白の空を見上げ、何かを求めるようにその手を伸ばした。
「…Amazing Grace…how sweet the sound…」
縋るような歌声。
空に見捨てられた天使がまた空へ羽ばたきたいと叫んでいるようだ。
そこに、翼はもう無いというのに。
やがて曲は明るく楽しいものに変わり、最近流行っているようなポップな曲を歌い出した。
僕は古ぼけたベンチに腰かけてずっとその後ろ姿を眺めていた。
声をかけることも、隣にいることもできなかった。相応しくないよ。僕なんか。
一時間ほどして彼女のワンマンライブは終わり、こちらを振り返った彼女は言った。
「ありがとう!」
いつものお礼とは違う。すっきりした笑顔を見せた彼女に胸がときめいた。
「どういたしまして。」
そう言ったものの、口の中がカラカラに渇いていた。
相手は子供だ。
冷静になれよ、自分。
と、思ったときにはもう遅かった。
「何かお礼しなくちゃ!」
そう言いながら近寄ってきた彼女に僕はこう言った。
「お礼なんかいいよ。僕と、付き合ってくれたら……恋人になってくれたら、それで。」
何を言ったんだろう!自分で自分の台詞に驚き、開いた口が塞がらなかった。
しかも、もっと驚いたことに彼女は真面目な顔をして
「いいよ。そんなことでいいのなら。」
そう言った。
顔を真っ赤にしている彼女に駆け寄り、抱きしめる。
大切にするから。君の心を。
自由にしてあげたい。その苦しみから。
僕が出せる全ての力で、君を救い出すよ。
毎日、電話した。
仕事が終わって、なるべく早く家に帰り、風呂から上がって電話を手にソファーに座る。
もう寝ているかも、という不安と、電話を待っているだろうな、という信頼が愛しくてたまらない。
ゆっくりと彼女のナンバーを出す。
通話ボタンを押して、1コールして、少し待つ。
彼女から折り返し1コール。
二人で決めた、起きてるよ、と、電話できるよ、のサイン。
また電話をかけ直すと彼女の静かな声が仕事で疲れた僕の耳に優しく響く。
もっと声が聞きたくて、僕は質問する。学校の話や、家族との話、行きたい場所なんかを。
休みの日には彼女が行きたい場所に連れて行く。
空が見える場所。広くて誰もいないような場所。
そして僕はいつも目を閉じて彼女が歌うのを聞いた。
涙を流せなくなった彼女が、誰にも本音を言うことができない彼女が、その言葉の代わりに吐き出す歌。
優しく美しい声で大空に向かって。
そのとき、彼女を縛るものは何もない。
母親の束縛も、理解を得られないばかりに傷つけられる恐怖もない。僕の気持ちさえ、彼女を縛れない。
そして彼女は笑う。屈託のない子供らしい笑顔で振り返り、僕の隣に座る。
彼女に一時の自由を与える代償としてこの笑顔に縛られてるのは僕。それも悪くない。
むしろ喜んで受け入れよう。
彼女の肩を抱く。髪を撫でると子猫のように頬を擦りよせてくる。
今、僕は幸せだ。彼女も同じように幸せを感じてくれているだろうか?
「私、夜に電話してるときが一番好き。」
「どうして?」
「心が近くにいるのを感じるから。」
「へぇ……僕は歌ってるのを聞いてる方が好きだな。」
「何で?」
あの日、僕を一目惚れさせた君の歌声が好きだから。とは、言えなかった。
意気地無しの僕に「何で?何で?」と連呼しながら擦り寄ってくる彼女。
ニヤニヤ笑いを浮かべているところを見ると、多分お見通しなんだろう。
「いいだろ、別に。聞けるのが嬉しいんだよ。」
恥ずかしくなって視線を逸らすと、彼女は
「ちぇっ」
と、わざとらしい舌打ちをして笑った。
君が好きだ。
電話の向こうで静かに話す声も、笑った顔も、自分を解き放つ歌も好きだ。
でも、いや、だからこそあんなに苦しんでいる君は見たくない。
自由になってほしいんだ。
「また、君のお母さんに会いに行きたいな。」
そう言った瞬間、彼女の体が強張ったのを感じた。
彼女の母親とは前に一度、会ったことがある。
なかなか優しそうな母親で、とても彼女を苦しめる原因になりそうな気がしなかった。
上辺だけ取り繕うのが得意な人だから。そう彼女は言う。だから僕はそれを信じることにした。
一度、彼女と電話で話しているときに母親に見つかったことがある。そのときはすぐに電話が切れてしまったが、しばらくして彼女から短いメールが届いた。
『ごめん。』
何を謝られたのか、わからなかった。
翌日、彼女が僕の目の前に現れた。虚ろな目は僕に向けられているが、僕を見てはいなかった。
「お母さんが、あなたが私を好きなのは、勘違いだって……」
そのまま消えてしまいそうだった。今掴まなければ幽霊のように霞になって、もう二度と現れないような気がした。
「勘違いなんかじゃない。僕がお母さんと話すよ。大丈夫。」
腕の中で彼女が震えていた。全身が怯えと悲しみに震えていた。
そうして僕は母親と直に話すことができたのだが、結局あまり効果はなかったようだ。
その日から、僕たちは秘密のサインを決めて電話をすることにしたのだ。
「ホントに圏外だ……」
携帯電話の電波はピタリとも動かず、ずっと同じ文字を表示させている。
こんなことなら朝、少しでも多くメールしてくればよかった。
山奥で、海沿いで、道もほとんど整備されていないようなところだと聞いていたから予想はしていたけれど、どこかでちょっとでも反応するんじゃないかと淡い期待をしていたのだ。
早く仕事を終わらせてなるべく早く電波の入るところへ戻るしかない。
そうは思っていても、なかなか簡単なことではなかった。
「もうすぐ1時だな……」
時計は深夜の0時54分を示している。
いつもならシャワーを浴びて、ソファでくつろぎながら、彼女に電話をしようと電話を片手にするくらいの時間なのに……。
ようやく仕事を終わらせた僕は車を走らせ、帰路についた。
早く電波の入る場所に行って、時間的に電話はダメだとしてもメールくらいは送りたい。
「夜までには帰る」と言ったのに連絡がなくて彼女は不安に思っているだろうから。
しかし、慣れない場所での仕事に緊張していたからか、睡魔が容赦なく襲ってくる。
このまま運転するのは危険だと思った僕は閉店した小さなスーパーの駐車場の片隅に車を止め、外の空気を吸いに車を降りた。
携帯電話はもう通じるようになっていた。
意気揚々とメール画面を開き、彼女のメールアドレスを入力した。
次の瞬間、僕の体は宙を舞った。
ヘッドライトの壊れた車がスピードを落とさず、道路から駐車場へ入ろうとして僕を撥ねたのだ。
そのまま勢いよく店へ突っ込んで行くのを地面に伏したまま見ていた。
痛みはない。それどころか何の感覚もなかった。
携帯電話がカラカラと地面を転がっていった。
彼女の名前を呼びたくても、口から出るのは血ばかりだった。
僕は君を怯えさせていた恐怖から守りたかった。痛みから、救いたかった。
でも結局、僕の存在も君を苦しめることになってしまっていたんじゃないだろうか。
僕を失ったら、君は泣くかな。
君は心の中でしか泣けないから、僕がいないと誰も君の涙を拭いてあげられない。
だけど、もし僕がいなくなって君が涙を流せたら……きっとその涙を拭いてくれる誰かと幸せになれるんだろう。
君の幸せを僕が作るんだ。
そう考えたら、このまま死ぬのも悪い気はしない。
でも、一つだけ言いたかった。
この世界の誰よりも君を愛してる。