時計の針:名もなき友
彼女がどんな人だったのか、私はよく知らない。
いつも笑ってた。
いつも人が集まってる輪の中にいた。
週に何度か、具合が悪いからと言って保健室で寝るか、早退していた。
ときどき一人になると空を見上げて歌ってた。
小さな声なのに、心の底から叫んでるみたいだった。
仲がよかったわけじゃない。
でも嫌われてるわけでもない。
微妙な距離。集団生活の中ではよくある距離。
それが私と彼女の関係。
あるとき、彼女に話しかけてみたことがある。
「最近、彼氏できたの?」
「えぇ?どうしてわかったの?」
ただ世間話を始めるきっかけにすぎないその台詞に彼女は過剰なほどの反応を示した。
一瞬で耳を赤く染めて、声を嬉しそうに弾ませて、正直に。
「……何か、雰囲気変わったよね。」
私はその話の続きを聞くために愛想よくそんな言葉を投げかける。
興味はないけど最近付き合い始めたばかりの彼氏の話なら、女の子は誰でもいいから聞いてほしいだろうから。
でも彼女は違った。
「そうかな?でも内緒にしたいの。だから、誰にも言わないで。」
そう言って彼女は唇に人差し指を当ててしぃーっと音を立てた。
そして結局、何も話してはくれなかった。
どんな人なんだろう?
何で秘密にしておく必要があるのかな。
あ、もしかして同じ学校の……まさかとは思うけどクラスの男子なのかな?
聞きたいことが膨らんでいく。
知らない男の話で勝手に盛り上がられるとうんざりするくせに、何も話してもらえないと質問責めにしたくなる。
わがままもいいとこだと自分でも思う。
「ねぇ?誰なの?私の知ってる人?」
彼女は私の質問に優しく笑って
「残念でした。知らない人だよ。」
と言った。
本当?と聞く前に休み時間が終わって、話はそれまでになった。
ねぇねぇ、さっきの話なんだけど……なんてまた話しかけられるほど私たちの関係は親しくない。
それからも彼女は相変わらずの様子で笑っていたし、他愛ない恋の話にも素知らぬ顔で加わっていた。
彼氏がいることなんて微塵も見せないで。
でも授業中にときどき、とても深刻な顔で黒板を睨みつけているのを見かけた。
何か悩みごとでもあるのかな。
と、友達面して勝手に心配していると、意外とあっさり答えが出た。
頬杖をついて、真剣な顔をしていた彼女の瞼がゆっくりと閉じていく。
そして、頭がかくんっと掌の上から滑り落ちた。
ただ眠いだけだったらしい。
せっかく心配してあげたのに損した。
などと、また勝手なことを思った自分に笑いが漏れた。
彼女は一度だって心配させるような様子を見せたことはない。
不思議に思わせたのはあのときだけだ。
親のことで、みんなが文句を言い合ったとき。
みんなは言われたことや、勝手に部屋を掃除されたとか、携帯を取り上げられたことについて文句を言っていた。
先生への不満や、クラスの誰かを槍玉に挙げるのと同じ。
誰も大して本気じゃない。
だけど、彼女だけは違った。
「親なんか、子供を思い通りに動かすことしか考えてないんだよ。きっと子供が一人の人間だなんて考えたこともないんじゃない?」
今まで彼女の口からは聞いたこともないくらい冷たいその声の響きに、私と他の何人かは言葉を失った。
話に熱中しすぎてそれに気付かなかった数人が大きく頷きながら同意すると、彼女はまたいつもの笑顔に戻って
「でも今更って感じだし、適当にあしらうしかないよね?」
そう言いながら微笑んだ。
笑顔がちょっと悲しそうというか、つらいのを隠すために笑っているように見えるのは私の思い込み?
それとも今初めて気付いただけでいつも無理して笑っているんだろうか。
いつしか私は彼女のことばかりを考えていた。
本当はずっと彼女と仲良くなりたかったんだろう。
特別な友達になって、二人だけの打ち明け話をして、二人で笑い合ったり、泣いたりしたかったんだ。
もっとたくさん聞けばよかったね、あなたの気持ち。
どうしてあんな叫ぶように歌うのか、その笑顔の下に何を隠しているのか。
遠慮しないで聞いていればよかったと思い返す度に後悔してる。
あの日のことも、そう。
彼女はあの日、いつもより遅れて登校してきた。
生気のない笑顔。
上辺だけ心配して声をかけてくるクラスメイトの中で、彼女はひたすら「大丈夫」を繰り返していた。
寝不足なだけだから、具合が悪いわけじゃないから、大丈夫だと。
確かに目の下のクマがひどくて、彼女の笑顔をげっそりと暗く見せていた。
表情が暗く見えたのは決してクマのせいだけじゃないと思った。
それに寝不足だという割には授業中、いつもの眠そうな仕草をしない。
その代わり、ぼんやりと焦点の定まらない目で時計を眺めていた。
ノートも書かず、休み時間は誰の話にも加わらず、時計をじっと見ていた。
時計の針が進むのを確かめているみたいに目線が動かなかった。
授業が終わると彼女は黙って教室を後にした。
何かから逃げていくような後ろ姿に不安を感じながら私はその背中を見つめた。
また明日ね。
祈るような気持ちで呟いた。
届かない祈りだとは、そのときはまだ知らずにいた。
だけど追いかけてでも言えばよかった。
「また明日、会おうね。」
それだけで何かが変わったとは思えないけど、もしかしたら悲劇の結末を少しでも変えることができたかもしれない。
例えばそれが彼女の死をたった一日引き延ばせるだけだったとしても。
私にだって何かできたはずだ。
彼女の最期に一つくらいの何かを。
ねぇ?そちらの世界はどうですか?
今も歌ってる?
あなたが苦しんでばかりいたこの世界よりそちらの世界が少しでも楽しいといいな。
涙を殺して苦しそうに笑っていないことを心から祈っています。
勇気がないあまり、あなたの友人になり損ねたクラスメイトAより。
愛をこめて。