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時計の針  作者: 春菜
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時計の針:母

まだ子供だと思っていた娘が、人を紹介すると言った翌日に男を連れて帰ってきた。

背の高い、物腰の柔らかい男。娘より随分年上で、娘より私の弟の方が年が近いくらい。

娘は言った。

「彼と付き合ってるの。」

本気なのかどうか、迷った。

何も言えなかった。言えないまま、男が帰るのを見送った。

娘は満足そうな顔をして呟いた。

「紹介できてよかった。」

その晴れやかな笑顔に私の心は曇った。

「認めたわけじゃないわよ。」

「え?」

「お母さんは、反対よ。年も離れ過ぎてるし……」

「でもいい人だったでしょう?」

「今はそう見えるだけよ。あなたは騙されてるわ。」

「……何でそう言えるのよ。何も知らないくせに!」

「親に向かってその口の利き方は何?!」

娘は一瞬何か言いかけて口を開いたけど、何も言わずに家の中に戻ってしまった。

わがままで、聞き分けの悪い娘。

昔はそんなことなかったのに。

小さい頃から歌うのが好きで、よく保育園や学校で歌っては先生に褒められていた。

それが余程嬉しかったらしい。

将来の夢はずっと変わらず「歌手になること」だった。

ある時、娘がオーディションを受けると言い出した。

テレビ番組の企画で子供をターゲットに歌のオーディションを行うらしい。

「出たいの!いいでしょう?」

「こんなことして、どうするつもり?」

「歌手になってテレビに出るのよ。」

世の中のことなんか何も知らない娘。

これは言うほど簡単なことでも、楽しいことでもない。

「歌手になったって一生それで生きていけるわけじゃないのよ?」

「でも!やってみたい…」

「ダメよ。行かせません。」

娘のためを思えば、そう言うのが当然だと思った。

でも親の心なんてやっぱりわかってもらえない。

「学校で音楽の先生に習ってきたのよ。」

そう言って娘は讃美歌を歌いだした。Amazing Grace。

「これをオーディションで歌えば合格は間違いなしだって言われたの。」

諦めてないと言わんばかりの眼差し。

どうして理解してくれないのか。こんなにもあなたのためを思っているのに。

「どうしてお母さんの言うことが聞けないの?もう私の前では歌わないで!いいわね。」

「お母さんは……私の歌が嫌いなの?」

夕食を作っていた私は何も言わずに手を動かし続けた。娘が泣いている気配を背中に感じながら。

それ以来、娘は家で歌わなくなった。歌手になりたいと言わなくなった。諦めたんだと胸を撫で下ろした。


あの男の話は娘から聞かされないまま、別れたんだと思っていた。許されない夢も許されない恋も諦めるしかないと割り切ったのだと思っていた。

もう寝たはずの娘の部屋の前を通りかかったとき、そうではなかったことを知った。

一人でいるはずなのに、話し声が聞こえてくる。

「何してるの?」

部屋のドアを開くと、ベッドの上に娘。手に携帯電話を持っている。

「勝手に入ってこないで!」

「何してるの?誰と電話してるの?」

「関係ないでしょ!出て行ってよ!」

娘の雰囲気からわかった。電話の相手は……あの男だ。

「まだあの男が自分のことを好きだなんて勘違いしてるのね?」

「勘違いじゃない!そんな言葉で彼を汚さないで!」

部屋を追い出されてからも私はドアの向こうから叫び続けた。

「あなたが騙されて傷つくところなんて見たくないのよ。ここを開けて!」

娘は返事をしなかった。鍵のないドアがひどく分厚く、重く感じられて開けなかった。

いつか、私が正しかったとわかる日が来る。それがあの子が大人になって、母親になったときでも遅くはない。

自分にそう言い聞かせたが、頭の隅で現実味のない話だと誰かが笑った気がした。

どうしてそんなことを思うのかしら。娘だっていつかは誰かと結婚して、母親になるのに。

私はあの男のことを気にしないように努めた。

騙されて傷ついても、それはきっとあの子のためになると考えることにした。


そして、あの日がやってきた。


夕飯の買い物から帰ってきた私を迎えたのは娘の部屋から聞こえる悲鳴だった。

強盗でも入ったのかと心臓が跳ね上がったが、途切れることのない叫び声がそうではないことを私に教えた。

鼓動を深呼吸で少し整えて、部屋のドアを開いた。

指を血で染めた娘が宙に視線を泳がせながら喘ぐように叫び声をあげている。

今まで見たこともないくらい取り乱した娘の姿にうろたえながら、傍に歩み寄った。

足下に携帯電話が落ちていた。

「どうしたの?何をしているの?」

娘の指を一本一本腕から剥がし、静かに床に座らせた。

瞳は正面に座った私の方を向いたけどその目に私は映っていなかった。

「何があったの?」

なるべく落ち着いた声で尋ねると娘は乾いた唇を僅かに動かした。

「……彼が死んだ。」

裏切り、という言葉が咄嗟に脳裏を過ったものの、こんな結末は想定外だった。

子供を甘い言葉で弄び、最後には捨てる。そんな程度の裏切りだと思っていた。見返すことも、してほしくはないけれど復讐だってできるような簡単なものだと。

でもそれ以上に意外だったのは恋人の死を聞かされた娘が涙の一つも流さずにいることだった。

無表情。そこに映る悲しみから目を逸らしたくて私は足下に落ちていた携帯電話に視線を落とした。

通話中と表示された携帯電話の画面。この電話の向こうで娘が話すのを待っている誰かがいる。

「出なさい。」

携帯電話を血で汚れた手に持たせると、娘はぼんやりした顔のままそれを耳に当てた。

「はい……」

少し間があってまた返事をして、しばらく黙ってまた返事をして……。そうして電話は切れたようだった。

娘が俯き、生気のない目で一点を見つめている間、私は役に立たない言葉を言っただけだった。

「だから別れなさいって言ったのに」とか、そんなことを。

そして娘は言った。

「彼に会いたい……」

初めて私を映した瞳に、首を横に振った。

「見ない方がいいと思うわ。つらいだけだもの……」

今は頭が混乱しているだろう。一人にしてあげなきゃ。と、部屋から出た。

夕食は何か好きなものを作ってあげなきゃ。少しでも元気になって、早く立ち直ってもらいたい。

1時間、2時間経っても娘が部屋から出てこない。夕食はとっくにできている。

部屋のドアの前に立っても声をかけられずに、部屋に持って行こうと立ち上がった。

今は誰にも会いたくないのかもしれない。

ドアをノックした。返事はなかった。ゆっくりドアを開いた。娘は私が部屋を出て行ったときにいた場所でぐったりと寝ていた。

明かりもつけずに、涙も流さずに。

「明日は学校休みなさい。」

「どうして?」

薄い氷の上を滑るような細く弱い声で返事が聞こえた。

「そんな状態で行けるわけないじゃない。とにかく休みなさい。」

空気がふふっと揺れた。床の上に寝ている娘が俄かに笑ったのだ。

よく耳を澄ますと娘は小さく呟いた。

「お母さんは私を心配してるんじゃないよね。」

「何を言ってるの?」

「お母さんは私を監禁しておきたいだけなのよ……」

それからクスクスと笑い出した。

私はショックでしばらく呆然としていた。笑いの意味も、言葉の意味もわからなかった。

娘があんなことを言うなんて。

大切にしているからこそ、あんな男のことは忘れてほしい。

死んだなら尚更、死に顔を見に行って傷を深めることはない。

そう思ったから行くなと言ったのに、それは間違いだったの?

今日は誰にも会いたくないだろうから、死んだあの男のことしか考えられないだろうと思ったから学校を休んでと言ったのに。

わからない。娘の気持ちが。

夜遅くに帰って来た夫に娘のことを説明すると夫は冷たく言った。

「どうしてうちの娘が……お前は止めなかったのか?」

「だから……あんな人と付き合うなって言ったのよ。年も離れてるし……」

頭痛がしてきた。どこかから違う自分が呼びかけてる。

そんな考えは正しくない。改めろ、と。

「もっと強く反対していればこんなことにはならなかったわ……」

翌朝。一口どころか、私が部屋に運んだ状態のまま放置されていた食事。

ベッドの上で布団を被ったまま、動かなかった娘。

あの男が娘を変えてしまった……。

あの男がいたから、娘は休みの日に私と外出するのを嫌がるようになり、一人で外に出て行くようになった。

でも、あの男と付き合い始めてからは私に黙って学校を休まなくなったし、笑うことも多くなった。

顔色がよくなったことにも気付いていた。

本当は……恨み言の一つくらい言いに行かなければいけないわね。

どうして娘を置いて死んでしまったの、そんな風に娘を悲しませてどういうつもりなの、と。

そしてありがとうの一言くらい言ってやらなくちゃ。

私はゆっくりと立ち上がり、ずっと着ていなかった礼服を出した。

娘の礼服は長いこと買っていないからサイズが合わないけど、学校の制服がある。

服を着替えてタクシーを呼び、一度深呼吸をしてから娘の部屋をノックする。

返事がないのはわかっているので返事を待たずに、ドアを開けた。

風がふわりと礼服のスカートの裾を揺らした。

先程とは違う明るい部屋。

光が入っている方向には開かれた窓があり、カーテンがひらひらと明かりを揺らした。

ベッドにあるはずの娘の姿がない。

嫌な予感がして窓に駆け寄り、外を見ると

地面の上で娘が寝ていた。

辺りに血飛沫を撒き散らし、服を血で染めて。

気付くと私は喘ぐように息をしながら娘の体を抱き起こしていた。

通りすがりの誰かに

「救急車を呼びましたから。」

そう声をかけられ、私は泣きながら頷いた。

でもわかっていた。

娘がもう死んでいること、今更どんな手を尽くしたところで二度と戻ってきてくれないことも。


それから数日は感覚も記憶もなく過ぎ去った。

頭に残っているのは、病院の白いベッドに娘が寝ていたところ。

仕事から帰った夫と大声で怒鳴り合ったこと。

葬儀に娘のクラスメイトが数人、出席してくれたこと。

やっと喪服から着替えて、毎朝娘の写真を見るつらさにも涙を堪えられるようになった頃。

娘が死んでから初めて部屋に入った。

風を入れるために夫が閉めたであろう窓を開け放つ。風が半開きのカーテンを膨らませた。

綺麗に片付いた机の端でカサカサと音がする。

引き出しから紙がはみ出して、風に揺れていた。

「何……?」

あの日は気付かなかった。娘がこれを見てと言っているみたいだ。吸い寄せられるように傍に行った。

一番大きな引き出しを開いて、そこにあったのはたくさんの楽譜だった。

歌が大好きだった娘が先生や友達に楽譜を貰って密かに勉強していたんだろう。

いつか大きな舞台で誰にも邪魔されず、思いっきり歌うために。

小さく書き込まれた文字を見つめていると、その下にノートが入っていることに気付いた。

開いてみると、中には娘が苦しんでいたことがわかる言葉が書き連ねられていた。

歌詞という形で私への不満や、あの男への思いが綴られている。

最後のページまで捲ると、そこに書かれていた歌詞は書きかけのまま終わっていた。


 呪縛はもう終わり

 私は自由になろう

 飛ぶ鳥たちと同じ

 空高く舞い上がる

 そしてさようなら


「呪縛……」

私のことだ。娘から自由を奪った。

歌くらい許してやればよかった。歌手を目指してもいいと言えばよかった。

成功や挫折だっていつかは経験するのだったら、それがあの時でもよかったのだから。

あの男のことも最初から娘を信じずに否定した。歌と同じように恋人まで奪おうとした。

全てを縛りつけようとした。

だからあの子は空を飛んだのね。鳥みたいに自由になりたくて。

だから終わったのね。あの子の人生は。

書きかけのまま終わらなければならなかった、この歌詞のように……

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