時計の針:本編
甘いまどろみの中で、私は夜を見つめながら耳を澄ました。
家の中から音は聞こえない。
外を行く人の足音がときどき、響いてくる。
それが仕事から帰る女性だとわかるのは、低めのヒールの音と歩く速度から。
彼女の顔も名前も知らない。
毎日深夜1時を過ぎたころに帰るということしかわからない。
何故、深夜1時なのか。
彼が仕事を終えて家に帰り、私に電話をかけてくるのがいつもそのくらいの時間だからだ。
私は眠い目を軽く閉じ、それでも眠ることはせずに電話が鳴るのを待つ。
一日の中で、この時間が一番長く感じる。
彼は今、何をしているだろう?
少なくとも電話を片手に時計を見ながら今かけようか、あと5分待とうかなんて考える人じゃない。
コーヒーか、レモンを入れた炭酸水をお気に入りの大きなガラス製のグラスに注いで
部屋の真ん中にあるあの白いソファーに体を沈め、ボリュームを落としたテレビを眺めて、視界に入った時計をちらりと見て私を思い出す。
電話を手に、コールを1回。
携帯電話の画面に彼の名前が表示されて、またいつもの待ち受け画面に戻る。
不在着信が一件。
私はもう一度、家の中に耳を澄ませて、誰の気配もないことを確認する。
不在着信に折り返し1コールして電話を切るとまたすぐに彼の名前が表示される。
今度は私がその電話を受けるまで続く。
「もしもし?」
私が小さな声でそう言うと、彼が同じ言葉を繰り返す。
「もしもし。」
目を閉じて私は彼の声に応える。
最初の2分はゆっくりと、何も会話のないまま過ぎていく。
電話越しに聞こえる声で、お互いの存在を確かめるように。
話をするのは彼だ。
仕事の話、趣味の話、通勤中に出会った何でもないような出来事。
私は相槌を打つ。
うん、とか、へぇー、とか。ときどき静かに笑ったりして。
友達には反応が薄くて話しがいがないとよく言われるけど、彼はそうは思わないらしい。
だんだん声が嬉しそうに弾んでくる。
そして私の話を聞きたがる。
今日は何があった?
前に話してたあのことはどうなった?
今度、どこかに行くとしたらどこがいい?
その質問に私は答える。
今日は映画を見た。
思ったようには上手くいかなかったけど、どうにか解決できたよ。
今度、前に友達が話してたあのお店に行ってみたいな。
彼がときどきグラスに口をつけて、何か飲んでいるのを感じる。
そろそろ最後の一口を飲んだんじゃないかな?
そう思った頃、初めて私から話を切り出す。
「もう眠いから寝るね。」
わざとらしくあくびをして聞かせると、彼が笑う。
「おやすみ。」
低い声がそう言ってから5秒の後の電子音。
通話終了。
彼はすぐに電話を切らない。
私に彼を引き止める時間をくれる。
「ねぇ?」
それだけ言えば、彼はまた話をしてくれる。
優しく、子守唄を歌うように私が眠るまでそこにいてくれる。
その時間と優しさが好きだ。
家族と住んでいる私が、こんな時間に電話していることを知られて叱られることのないように
あまり声を出さなくていいように彼が話してくれる。
逆に会ったときには私が饒舌に話をし、彼は静かに聞いている。
たった1時間と30分。
それは彼の車で出かけて、一日を過ごすよりも甘い、大切な二人の時間。
一日はいつもと変わらない。だからこそ長く感じてしまう。
学校に行って、興味もない授業をこなし、家に帰る。
母や父のお決まりになった押し問答をうんざりと宥めながら時計を見る。
もうすぐ一日が終わる。
またあの時間がくる。
はずだった。
深夜1時。鳴るはずの電話は黙ったまま。
胸がざわつく。
電話できない日はいつもメールを送ってくれていた。
今日は何もない。
何もないとわかっていながら何度も受信ボックスを開いてみる。
新着メールもない。
夜の電話では仕事で行く先が圏外だから、昼間はメールできないと言っていた。
まだそこにいるのかも知れない。
そんなことはありえないと頭の中でもう一人の自分が呟く。
それならどうして?
怖い。
嫌われてしまったんだろうか。
自分ばかりが喋らなければならない電話に嫌気がさしてしまっただろうか。
他にあの時間を過ごしたい人ができてしまったの?
最悪とも呼べる答えはいくらでも湧いてくる。
仕事で疲れて今日は寝てしまっただけだとか、電話が遅れているだけだとか、理由は他にもあるのに、そんな理由は今は慰めにもならない。
不安が広がり、涙も出ない。
やがて眠りが私を闇へと突き落とした。
翌朝、画面には不在着信の文字もなく、新しく届いたメールもない。
重い足を引きずり学校へ向かった。
彼からの連絡がなくても、一日はいつもと同じように日常と化す。
長い日。
時間は少しも動く気配がない。
秒針のない時計をじっと見つめ、ひたすらに時の足音を待った。
思考の隅に疑いを抱いた。
時計の故障?
本当は時が止まってしまっているのかも。
でも私は確かに呼吸をしているし、つまらない授業は今も進んでる。
わざとゆっくり呼吸をしてみる。ゆっくり瞬きをしてみる。
一秒が早く過ぎることを祈りながら、吸って、吐いて、開いて、閉じて。
彼を思う以外に私にできることは、何もない。
やるべきことが見つからない。
だから、そうするのだ。
平静を保つために。
止まない胸騒ぎに心が押し潰されてしまわないように。
終業のチャイムによって学校という鎖から解放されると、私は脇目も振らずに家へと走った。
部屋に駆け込み、机の上で充電器に繋がれた携帯を取り上げる。
画面には、新着メールの文字。
彼からのメールだ。
息をすることを思い出したように大きく呼吸を一回。
さっきまで感じていた胸のざわつきが吐息と共にゆっくりと出て行くのを感じる。
電話してくれなかったことを何と言って咎めようか?
頭の中に浮かぶ彼の申し訳なさそうな顔に思わず微笑む。
メールにタイトルはなく、本文にはたったこれだけ。
『このメールを見たらすぐに連絡を下さい。』
消えたはずの炎がまた大きく身を揺らし、燃え始めた。
胸騒ぎが不安を煽り、荒くなった息が唇を乾かす。
着信履歴を埋める彼の電話番号。
震える指が通話ボタンを押すと、少し間があって呼び出し音が響いた。
乾燥した唇を舌先で舐めて潤す。
何度目かのコールの後、
「もしもし?」
低い男の声がした。
「あの…」
私の言葉を遮り、男は冷静に私の名前を確かめた。
そして、落ち着くようにと宥めたあと
言った。
彼が、死んだ、と。
胸は一瞬にして騒ぐのを止め、口を固く閉ざした。
目の前が暗くなった。世界が色を失った。
どこか遠いところから聞こえている男の声が、私に呼びかけていた。
「どう…いう…ことですか?」
信じられない。
信じたくもない。
彼が死ぬなんて。
「駐車場で車を降りてすぐ、暴走していた車が……」
あの優しい人が、私の一番大切な人が
さよならも言わずに、この世界からいなくなってしまう。
「……いや……やだぁぁぁ!」
電話を投げ捨て、髪を掻きむしり、息が続く限り私は叫んだ。
行かないで。
私を置いて消えてしまわないで。
二度と笑いかけてくれなくても、私の髪を撫でてくれなくてもいいから、ここにいて。
私が生きるこの世界に。
自分の肩を抱き、頭を左右に振り続けた。
床に体を打ち付けても叫びは止まない。
力いっぱい握った腕には爪が食い込んで血が滲んでいた。
絶望という言葉がこんなにも似合う日は他にないだろう。
世界は終わった。
時計の針が動くのは、私のためじゃない。
声を聞きつけて駆け寄ってきた母はしつこく私に迫ってきた。
何があったのか、と。
私は母の顔を見ずに答えた。
彼が死んだ。
自分とは全く関係のないことを伝えているみたいだった。
今、母の目の前に座っている私は私じゃない。
そうでなければ、死という言葉がこんなに軽くて味気ないのはおかしい。
まだ通話中と表示されている携帯を手に取り、耳に当てた。
彼の同僚だというその男は私をもう一度宥めたあと、彼の葬儀の場所と日時を伝えて電話を切った。
無機質な音が通話終了を告げる。
「彼に会いたい……」
母の方を振り向き、そう言うと母は静かに首を横に振った。
「見ない方がいいと思うわ。つらいだけだもの…」
そう言い残して部屋から出て行った。
なぜ?どうしてなの?
私は彼に別れも言わせてもらえないの?
夜が空から光を奪う。暗闇が部屋を満たす。
立ち上がることもできずに床に手足を投げだした私の部屋に母が食事を持って入ってきた。
「明日は学校休みなさい。」
「どうして?」
「そんな状態で行けるわけないじゃない。とにかく休みなさい。」
違う……。
「お母さんは私を心配してるんじゃないよね。」
「何を言ってるの?」
「お母さんは私を監禁しておきたいだけなのよ……」
不思議と笑いが込み上げてきた。
笑えるような気分じゃないはずなのに笑いたくなった。
その日、父が帰ってから母が話していた。
「だからあんな人と付き合うなって言ったのよ……年も離れてるし…」
父は何も言い返さなかった。
それはきっと父も母と同じことを思ってるからだ。
「もっと強く反対していればこんなことにはならなかったわ……」
深夜1時。
家中が寝静まった頃、いつもと変わらないあのヒールの音が聞こえてきた。
目を覚ましていても電話は鳴らない。
わかっているのに私は何かを待っていた。
あの低くて優しい声が電話の向こうから聞こえてくるんじゃないかって、どこかで期待しているみたい。
「ありえない……」
そう呟いた瞬間、現実が一気に襲いかかってきた。
息が苦しい。心が痛い。体中を不安が食い散らしていく。
眠ってしまいたかった。
そして全てを忘れてしまえたら。
彼の死も、彼が恋人だったことも、出会ったことさえ忘れてしまいたい。そうすれば叶わぬことに期待を抱かなくて済む。
また声を聞きたいとか、彼の最期の姿を見たいという望みも持たなくていい。
目を閉じても、眠りは悲しみと絶望から私を救ってはくれない。
眠りがどんなに力を尽くしても、意味がない。
彼のことを父と母にどれだけ訴えても意味がなかったように。
きっと母は私を一日中見張るだろう。
家から一歩も出さずに今をやり過ごせば、私は彼の葬儀に行くことができない。
母の願いは叶えられる。そこには私の意志など存在しない。
親の保護下になければ何もできない年齢の私には自らの意思を通せるほどの力はない。
自由なんてものはずっと奪われ続けている。
それが当然だというように。
彼の死から一日が過ぎた。
朝、母が食事を私の部屋まで運んできた。
昨日、運ばれた食事には手を付けていなかった。
部屋の入口に置かれた白い皿の上に何が乗っているのかさえ、知らない。
彼を失った世界に存在するものに興味がもてない。
「食べなさい。」
そう言った母の言葉にも私は反応しなかった。
黙って頭の上まで布団を被ったまま。
母は小さな声で文句のようなことを言いながら部屋を出て行った。
ドアが閉まる音を聞いて布団から顔を出した。
時計の秒針が一定のリズムを刻む中、閉めたカーテンの僅かな隙間から太陽の光が筋になって差し込んでる。
太陽の下にいる誰かの声がする。
生活の音が聞こえる。
ただ一人しか存在しない私の一番大切な人がいなくなったのに、世界は何も変わらない。
続いていく。これからもずっと。
だったら、私は?
私がいなくなっても世界は何事もなかったような顔をして続いていくの?
それなら私はいなくなってもいい?
自由はない。唯一の望みも叶うことはない。
光が見えない。
もう生きることに意味を見出だすことができないこの世界から脱出したい。
私は救いを求めていた。
長い間、この場所から
「助けて」と叫び続けていた。
彼はその声を聞いたんだ。
だから、私の傍にいてくれた。
心を寄り添わせて、私が一人にならないようにしてくれていた。
なのに、私を置いて行くのね。
ふと、静かな部屋に彼の言葉を聞いたような気がした。
「どこに行きたい?」
あなたの傍。
その手が導いてくれる場所に。
「おいで。」
カーテンを開けた。
空は青く晴れ渡り、窓を開けると爽やかな風が髪を揺らす。
何て澄んだ美しい日だろう。
姿の見えない彼があの優しい声で私の名を呼ぶのが聞こえる。
私はその声に応えた。
「今、行くからね。」
窓の外、遥か遠くに見えるコンクリートの地面。
そこに吸い寄せられるように私は窓から体を放り出した。
遮るものは何もない。
心を縛っていたものを捨てて軽くなったこの体を包むのは空気だけ。
青くて明るい空が視界一面に広がってる。
時間が止まったみたいだ。
長くて苦しいだけの時間が私の頭上から姿を消した。
やがて頭から爪先まで走った衝撃。
その日、私の時が止まった。
時計の針はもう二度と動かない。