第85話
グリゴア・スリコフ。
(聞いたことのない名前、いいえ聞いたことがある名前だわ)
にこりと微笑む柔和な笑みも、その奥に潜む冷たい何かも、その正体はわからない。
だけどわかるのはスリコフというその名前。
「スリコフ将軍のご家族でしたか。お屋敷でお世話になっている身ですのに、ご挨拶が遅れて大変申し訳ございません」
「いえいえ。息子はすでに成人して久しく、あの屋敷は息子のものですから。我々こそ直に出向きご挨拶すべきところ、こうしてご足労願ってしまい誠に申し訳ございません」
私がにこりと微笑めば、あちらも穏やかに対応する。
なるほど、スリコフ将軍の義父。
亡命してきた身重の聖女と恋に落ち、その腹の子ごと受け入れたという人格者……という世間での評判に似合う紳士のようだ。
聖女を保護した爵位持ち貴族……と言うものの、スリコフ将軍の父親……スリコフ侯爵の情報は少ない。
穏やかな紳士だということ、社交はあまり得意ではないこと、女遊びや博打、酒に興じることもなく真面目で朴訥、そして亡命してきた聖女の保護者となった後恋に落ちてからは一途に愛し、その子を実の子のように慈しむ人格者。
(……できすぎた人物像よね)
逆にできすぎた人物というのは疑わしいことこの上ない。なんとも酷い話だけども。
侯爵という高い地位にありながらあまり裕福ではない状況に奮闘していたとされているが、スリコフ将軍が名を挙げたことで心を弱らせた妻と共に隠棲していると情報にはあった。
しかしどうだろうか。
今、私の目の前で悠然と微笑んでみせるこの男のどこが真面目で朴訥、心を弱らせた妻の介助に疲れ切った男だというのか!
パリッとした上質の衣服に身を包み、笑みを浮かべる姿はどこまでも上品だ。
だけど私は、私だけじゃなく戦場に身を置いていた、生き残ってみせた者ならきっと気付くはずだ。
この男は――危険だと。
「……どうやら言葉遊びはお好みでないご様子。良いでしょう、わたしもその方がありがたい」
グリゴア・スリコフが、さっと手を挙げる。
その動きに私を庇うようにヒューゴーが前に出たけれど、特に何かあったわけではない。
扉が開き、車椅子に乗った女性が連れて来られた。
ぐったりとした様子で、目は落ち窪みただ床を見つめている姿は酷く痛々しい。
老女のようにも見えるが年齢はそこまで行っていないはずだ。
私は一目見て、そっと息を吐き出す。
「奥様ですか」
「そう……わたしの最愛の妻だ。貴女には彼女を治療していただきたい」
「何故私が?」
仮にも聖女を名乗るのに。
そう言外に込めて告げれば、グリゴア・スリコフから笑みが消えた。
「……彼女を治療してくれるならば、あなた方が無事に……この国に摩耗されることなく故国にお帰りいただけるよう取り計らうと約束しよう。必要であれば亡命した人間のリストも用意する」
おっと、思わぬ破格な取引を申し出てきたな。
だけど私は努めて笑みを絶やさず、ヒューゴーに守られる形のまま口を開いた。
「どうしてそのようなことをなさるのです? その必要はないでしょう、貴方は国の為に尽くしてこられたし、息子さんは将軍となり立派にお過ごしです。奥様については聖女としてお過ごしの間で心に傷を負ったがゆえのものかと思いますので……なんとも申し上げられませんが」
本当にそうなら国同士の中で賠償がどうのこうのって話になるだろうし、正式に神官たちの派遣がどうのこうのってなるだろうからそれを待てって感じ。
勿論待ってられるかって人もたくさんいると思うけど、じゃあ侯爵だから、被害者が聖女だから優先的に……っていうのも裏取引をするってのもちょっと話が違うと思うんだよね。
そりゃこの場でアドルフさんが大怪我したから治療を! って言われたら私の中の優先順位的に多分動いちゃうと思うけれど、それとこれとは話が別なので……。
「もうすでに理解しているのだろう、のらりくらりと話を引き延ばさずに早く! もう彼女には時間がないのだ、わかっているだろう……!!」
「それは罪を認めるのですか。夫人が聖女ではなく、暴走者であり、そして我が国に対して聖女を圧したという虚偽の噂を流した事実を」
そう、たいしたことはない。
この話には何かしら裏がある、それだけの話だ。
情報戦なんてそんなもんだよと嗤うヘルマンを思い出すとぶん殴りたくなるが、責任の所在さえはっきりすれば交渉事はやりやすくなる。
そのためには多少の荒事も大事ってね。
私の言葉に、侯爵がキッと睨み付けてくる、が、すぐに柔和な笑みに戻った。
なるほど、自制心が強いことで。
「残念だ。護衛も連れてくる辺り優秀だし聖女殿自身もお強いのだろうが……ここにいる連中の相手には骨が折れるだろうね」
「さあどうでしょう。私と裏取引をしようとした、それだけで証拠にはなり得るかもしれませんよ」
「そうかな。それを誰が耳にしているかが重要かと思うがね。そちらのお嬢さんか聖女殿かはわからないが、どうせ録音機器か何かを持っているのだろう? 残念だがそんなものはココでは役に立たない」
「ええ、そうですね。録音機器ならね」
私はにっこり笑ってヒルデに手を差し出す。
怪訝そうな顔をした侯爵に、私はヒルデから受け取ったそれを侯爵の前にかざしてみせる。
髪飾りに丸いものが収まっているのがわかったのだろう。
唖然とするその表情に私は満足して笑みを深めた。
聖女としての笑みじゃなく、私自身のしてやったりな顔だ。
「記憶媒体を持ってきたと思っていたでしょう? 残念でした、これ我が国の最新機器なんですよ。映像も音も同時に送れる優れた魔道具なんです」
「何……!?」
これまで通信機でさえ音質が悪かったのが現状だけど、戦争が終わって我が国では獣神部隊の隊長たちが使う特殊な通信機器、あれをもっと広く使えるようにしたいって技術開発部が頑張ってくれてたんだよね。
粗いけど映像も出せる……そんな夢のような機器。
現状お高くて手が出せる代物ではないっていうか国家機密なもので、今回の交渉事に使えってヘルマンが陛下から預かってきていただけなんだけど!
ひい、これ一つで国家の予算ぶっ飛ぶからなって脅されているので壊さないでくださいお願いしますよ……!!




