第44話
「……エミリア」
苦々しい顔でその声の主の名前を口にしたアドルフさんは、ものすごく厳しい表情を浮かべていた。
「なんで……何、してるのよ!」
「妻と仕事から帰る途中だが」
まあその通りなので私も小さく頷いておく。
なんかここは肯定しておかないといけないような圧をアドルフさんから感じたのだ。
「なんでよ……その子はお飾りの妻じゃないの? 聖女だからなんでしょ? ねえアドルフ、あたしたちを、あたしを捨てるっていうの?」
「エミリア、俺は」
「あたしがあんたを男にしてあげたでしょ? 恩があるでしょ!?」
(うわあ)
とんでもない発言が飛び出て私は目を白黒させてしまった。
いや、アドルフさんほどの美形でかっこ良くて稼ぎもあって紳士でお気遣いができる素敵な人ならばそりゃ千人斬りだっていけるだろうと私は確信しているが、アドルフさん自身はとてもシャイで優しくて真面目なのでそういう専門的なおねーさんか、あるいはオツキアイしている女性とだけだろうと思ってたんだけど……。
(あー、ということは、まあ……エミリアさんとそういうオツキアイ的な関係も、あったの、かなあー……)
ちくん。
わかっていることなのに、改めて突きつけられると少々、いや大分胸が痛む。
そのくらいには推しとかそういうのじゃなくて、私個人が〝好きな人〟の元カノを前に冷静でいられないだけっていうかね。
乙女心は複雑なんですよ。
「……語弊のある言い方をしないでくれるか。確かに、孤児院では他の仲間と馴染めずにいた俺を励まして仲介してくれたことは感謝している」
(あ、そういう? いやいや、言い方が語弊とかそういうレベルじゃないわ)
「だからといっていい加減にしてくれないか。俺がお前のことを好きだとか、そういったことを吹聴されるのは迷惑なんだ。これまでは好きにさせていたが、お前も結婚しているし俺にも大切な妻がいる」
グッと肩を抱かれて私は思わず目を瞬かせる。
だって大切な妻って今言われて、それがエミリアさんを退けるための言葉だってわかっているのに頭が真っ白になってしまったのだ。
いや、ここ最近のアドルフさんが私に対して思わせぶりって言うか、スキンシップが激しいって言うか、おはようとおやすみ前は勿論のこと、何もない時でもデコチューとか髪にキスは当たり前、ハグやこうして肩を抱かれることもしばしば。
いやそれが介護と感謝で距離感がバグったんだろうとちゃんと勘違いしちゃいけないと自分を戒めていても、どうしたって恋する乙女は期待してしまうもんである。
そこに加えて『妻』ですよ。
しかも『大切な妻』!!
はあ……なんて甘美な響きなの。
思わずウットリしてしまった私だけど、エミリアさんからしたら怒髪天を衝くほどの発言だったらしく、顔を真っ赤にしてプルプル震えているではないか。
周囲には若干人垣ができはじめているので困った事態になったなと思っていると少し離れた所にこちらに向けて駆けてくる憲兵の姿と、人垣の中から現れた熊みたいな人の姿が目に止まる。
「エミリア! すまん、アドルフ、すぐにコイツを連れて帰るから――」
「ああ。頼んだ、ダン」
おおあれがエミリアさんの旦那さんでアドルフさんの友達というダンさんか!
確かに少し足を引きずるような様子もあるけど、恰幅が良くてクマさんみたいな人だ。
抱きしめるっていうよりは羽交い締めされたエミリアさんは、ジタバタともがきながらも視線はアドルフさんに向いている。
「離してよ! わかってんでしょアドルフ、あんたは幸せになっちゃいけないのよ! あたしの両親を傷つけたのはアンタの親父! そしてその傷の癒えないあたしを傷つけたのはアンタなんだから! アンタはあたしのために生きなくちゃいけないのよ!!」
「……」
大声で、そう怒鳴るエミリアさんの言葉に私はアドルフさんを見た。
でも彼の緑の瞳は、なんの感情も映していなかった。




