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凶悪事件・犯罪などに関するエッセイ集。

私のエッセイ~第六十四弾:「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」の衝撃!!!(後編)~宮崎勤の素顔

掲載日:2022/08/18

 皆さん、こんばんは!深夜ですが・・・眠れないので、やっぱし、こっちにもUPします。


 コレ、もともと私が引っ張ってきたネタですからねぇ・・・。


 では、超長いですが・・・宮崎勤の生い立ちを、順を追って書いていきますね。


 (でも、あたい、「改変」なんかしてないんだけどなぁ・・・皆さんに誤解されちゃうぢゃん。)


 ☆  ☆  ☆  ☆  ☆


 【幼年時代】


1▼

 「私は勤くんが生まれる以前から、宮崎社長のところで印刷の仕事をしてきました。ですから、勤くんが幼い頃のことは、今でも鮮明に記憶しています。

四歳ぐらいまでは、よく工場へ遊びにやってきたものでした。工場の床に腹ばいになって、ひとり黙々とマルや四角の絵を描いて遊んでいました。


 笑ったときの顔は、それはかわいらしい笑顔で、恵比寿エビスさまのようななんともいえないやさしい表情の幼な子だったんです。

工場で遊びながらお昼になると、私の弁当を分けて一緒に食べたりしたこともありました」


 (秋川新聞工場長、K・M氏。『文春』1989.8.31)



2▼

 「おれが弁当食っていると、中身を覗きこんだりするから、卵かなんか食べさせてやったね。ほんとにかわいい子でしたね。丸顔で。社長も奥さんも、しょっちゅう工場で遊ばせていましたよ。自動車なんかブーッとやってね。


 ああ、そうだ。絵をよく描いてたな、腹ばいになって。そうだそうだ、思い出した。だから俺が言ったんだ。印刷所だから、インクがあって、真っ黒になって汚いんだよって。そんなことはかまわないで、腹ばいになって、夢中になってね、絵を描いてた。三歳か四歳の頃かな」


 (M工場長)[『現代』10号【幼女惨殺】吉岡忍]


3▼

 「ただ、勤くんは、未熟児で生まれたんです。その後遺症か、生まれた時から、手の動きにちょっと障害があった。両親は大変気にしてたんですが、でも成長するにつれ、目立たなくなって、いつしか周囲も忘れていたくらいでしたけどね」


 (“秋川新聞”工場長・M氏)[『文春』1989.8.31]


 綾子ちゃん殺害の動機を、「手の障害を馬鹿にされた」からだと宮崎は言う。この「手の障害」とは、掌を上に向けるとき、完全に水平にはならないというものだ。


4▼

 「彼の手は、両の手のひらを完全に水平に開くことができないんです。あれは、出産のときの酸欠のためになった障害なんです」


 (当時の医師)[『女性自身』1989.9.5]


5▼

 「父親のことをパパ、母親のことをちゃーちゃんと呼んでいました。木登りしたり、河原で遊んだり……バクチク遊びなんかもやって、ほんと元気な子でしたよ」


 (同)[『女性セブン』1989.9.7]


モノの破壊からカエルやミミズの殺傷まで、バクチク遊びはマイナス生産的な快感の遊戯だ。この頃、既に「2B弾」のような火薬量の多いものは、製造中止となっていたが。


 「おふくろは、子供の頃からずっと、勤のことを、“勤ちゃん”と呼んでいた」


 (幼なじみ)[『明星』]


7▼

 「いつもお母さんと一緒で、道で出会うと母親の背後に隠れてしまう、そんな子でした」


(近所の主婦)[『文春』1989.8.31]


8▼

 「彼の靴はずっと母親が買いにきました。いつも白色の運動靴で、値段は4千円くらい。大きくなると、靴ぐらい自分で選ぼうとするのに……。こんなに近所にいるのに、彼の姿を見たことは一度もありません」


( 近所の靴屋さん)[『明星』]


9▼

 「勤は、お母さんとはよく話をしていましたね。でも、話をしているときに父親が入ってくると、スーッとその場を離れて自分の部屋に行ってしまう。勤も小さいころから、父親とは遊ぶ子じゃなかった」


 (取引先の主人)[『女性自身』1989.9.5]


10▼

 「小さい時から頭を刈っているが、何を話しかけても応答しない。時々、小さな声で『ウン』と言うくらいですよ。苦労を知らないボンボンだな、と寛大な目で見ていましたがねぇ。ちょっと気になったのは、平然とした態度が筋金入りだったことだな」


 (近所の理髪店主)[サンデー毎日 1989.9.3]


11▼

 「生徒数も少なかったので、覚えていてもいいはずなんですが、よく覚えていないんです」


 (私立秋川幼稚園、N園長)[『フラッシュ』]


 ☆  ☆  ☆  ☆  ☆


 【少年時代】


12▼

 「小学生の頃、皆で遊んでいても、夕方になると、お母さんが必ず迎えにきました」


 (同級生E)[『文春』1989.8.31]


13▼


 「親父さんは、運動会の時に『これから勤がとぶ(走る)よ』と言ってカメラを構えていた」


 (近所の主婦)[『サンデー毎日』1989.9.3]


14▼

 「外で友達と騒いでいる姿を一度も見たことがありません。子供の頃は、河原で遊んでいるところも見かけましたが、それもうずくまっていることが多かったように思います」


(近所の主婦)[『サンデー毎日』1989.9.3]


15▼

 「子供の頃、よくかき氷を食べにきましたっけ。でも、いつも一人で背を丸めて食べてたねぇ。子供はたいがい何人かでゾロゾロ来て騒ぐのに、あの子だけはね……」


(近くの雑貨店のおばあちゃん)[『サンデー毎日』1989.9.3]


16▼

 「川へ行こうと言うと、勤はいつも海水パンツひとつで駆け出してきた。そして、みんなと一緒に秋川の河原で水のかけっこをしたり、寝ころがって甲羅干しをした。そういう点では、勤は普通の遊び仲間のひとりだった」


 (幼なじみ)[『明星』]


17▼

 「小学校の頃から自分の部屋を持ち、専用のテレビを持っていたのは、このあたりでは勤ちゃんだけ。それだけ大事に大事に育てられた子供でした」


 (近所の主婦)[『文藝春秋』10号【追跡!宮崎勤の「暗い森」】安倍隆典]


18▼

 「怪獣に詳しくて、それまで黙っていても、怪獣の話になると、とたんに目を輝かせた。どんなに古いテレビのものでも、怪獣の名前だけはスラスラ言えた。それで、みんなから怪獣博士って呼ばれていた」


 (幼なじみ)「明星」


 筆者の子供時代のあだ名も“怪獣博士”だ。当時、日本全国にどれだけの“怪獣博士”がいただろう。


19▼

 「小学校の頃はウルトラマンに出てくる怪獣の人形や自動車、新幹線の模型を集めるのが趣味だったみたいで、それはもう驚くほど持っていました」


 (近所の主婦)[『サンデー毎日』1989.9.3]


20▼

 「一人でテレビを見たり、怪獣の本を読んだりしていた。あんなにおもちゃなどがたくさんあるのに、遊びに来る友達は少なかった」


(小学校時代、宮崎の部屋に偶然入ったことがある同級のOL)[『読売新聞』1989.8.13]


21▼

 「部屋に遊びに行ったら、猟奇的なマンガがたくさんあって、気持ち悪い思いがした」


 (近所の遊び仲間)[『サンデー毎日』1989.9.3]


 楳図かずお、日野日出志の類の漫画であろう。古賀新一やひばり書房の漫画はあったか?


 当時の人気怪奇漫画家、古賀新一氏のマンガを宮崎が所有していたかどうか、蜂巣氏は気になっているようだ。古賀氏の代表作『エコエコアザラク』の中に、アナグラムに関連する回があるそうで、宮崎のアナグラム創作説を裏付ける可能性があるからだろう。


 アナグラム説の真偽は不明だが、宮崎の部屋に『エコエコアザラク』があったのは事実である。

参照:ビデオリストの一部マンガのタイトル



22▼

 「作文の時間にツトム君(宮崎)が書いた“カラーテレビがほしい”という題の作文を授業で使ったことがありました。家庭内のことを子供らしく書いてあった。クラスには必ず2、3人いい文章を書く生徒がいます。ツトム君はその一人でした」


 (小学校1年担任、K氏)[『女性自身』1989.9.5]


  ~  ~  ~  ~  ~


 五日市小学校2年のとき、学級文庫集『ざりがに』に載った宮崎勤の文。


 遠足の途中、洞穴に入ったときの様子を書いたもの。


 《……くらいなあ。ぽちゃ。うう。ひゃっけえ。こつこつ。あっ、なにかたってるわい。》


  ~  ~  ~  ~  ~


 水中メガネが割れ、破片が目に刺さって全治一ヶ月の大怪我をした友人は、クラスで唯一人、宮崎から励ましの手紙をもらってうれしかったことをよく覚えている。


 ~  ~  ~  ~  ~


23▼「小学校3年のときでした。ボクが入院したとき、宮崎は“頑張れよ”って手紙をくれたんです。“学校が始まるまでに退院できるか”って。やさしいやつだったんだけどなあ……」


 (小学校時代の同級生A・B君)[『女性自身』1989.9.5]


24▼

「僕の知っている彼は、手紙をくれた優しい友人です。幼女殺しの犯人という現在の彼ではない」


 (宮崎から励ましの手紙をもらったことのある五日市町の会社員)[『週刊朝日』1989.8.25]


 凶悪犯が逮捕された後としては、このような善良な面を伝えるエピソードが掲載されるのは珍しい。


 ~  ~  ~  ~  ~


 3年2組の文集『おもいで』に載っている宮崎の文。


 「しょうらいやってみたいこと」。


 《大きくなったら自動車をかって、ドライブへいって、しょくどうでカレーライスをたべる。

それで、しんせきにもいったりする。》


 実際には、自動車を買って“やってみた”のは、幼女の誘拐であったのだが。


 ~  ~  ~  ~  ~


25▼

 「幼い頃の写真を見る限り、病的なカゲはありません。中流以上の家庭で育った子供の顔ですよ。髪を七三にきちっと分け、利発そうな、おしゃれな優等生に見えますよ」


 (東京家政大教授〈精神医学〉H氏)[『サンデー毎日』1989.9.10]


26▼

 「マンガを描くのも好きでね。よくノートに描いていた。ネクラじゃなかったし、いじめられるような子でもない。目立たなかったけど普通の小学生だった」


 (同級生)[『フラッシュ』]


 ~  ~  ~  ~  ~


 小学校四年のときの宮崎勤の作文。題は「うちの仕事」。


 《うちの工場で、秋川新聞を作っている。タイプで打ったのを紙をはって、薬をぬって、コールタみたいな物をきかいのローラーにぬって、紙をはる。そして、土曜日に配りに行く。》


 ~  ~  ~  ~  ~


27▼

 「小学校の高学年になっても、怪獣の絵の入ったカードを熱心に集めてました。友達が自分の持っていないカードを見せようものなら、かなりしつこく交換をせがむような子供でしたね」


 (近所に住む同級生T氏。)[『週刊ポスト』1989.9.7]


28▼

 「おれもそうだけど、勤もメンコを集めたりしてたよね。それと、ちょうどアニメ・ブームに火がついて、『仮面ライダー』とか怪獣ものとかが流行ったんだ。『ヘンシーン!』てやつ。


 それまでのヒーローとちがって、ニューヒーローの時代だったよね。クジを買うと、ガメラとかギャオスとかの写真が入っていて、それを集めたり。勤もこだわり気質だったから、よく集めていた」


 (小中学校を通じて宮崎と同級生だった青年)[『現代』10号【幼女惨殺】吉岡忍]



 小学校高学年の時のエピソード。妹とけんかしてかっとなり、「当たると死んでしまうようななにか」を妹に投げつけた。また河原で、何十匹ものトンボの羽を引きちぎっていたことがある。


29▼

 「何をしているのかと思って近づいて、ビックリしました。周りにトンボの透き通った羽が、花びらをまいたように散らばっていた。怖くなって、飛んで逃げ帰りました。トンボだけでなく、よく虫などを殺して遊んでいたので近寄りがたい存在でした」


 (近所の遊び友達)「『読売新聞』1989.8.14」


 宮崎の異常性を示すエピソードとして、当時あちこちに引用されたもの。何十匹、というのは確かにアレだが、子供時代、無邪気に虫を殺して遊ぶことは、誰しも多少は経験したことではないだろうか。


 ☆  ☆  ☆  ☆  ☆


 【中学時代】


30▼

 「あまり記憶にない生徒でした。おとなしくて、目立たない子だったんです。授業中、自分から進んで意見を言うこともなかったが、それでも、勉強はしっかりしていたようです。特に、英語の成績はよかったようです」


 (町立五日市中学校1年時の学級主任C・D先生)[『女性自身』1989.9.5]


31▼

 「彼が部活動をしていた姿は見たことがない。それよりも、教室の中で、漫画をコツコツ描いていた。成績は中の上、特に英語はクラスでも上位でした。校則違反もなかったし」


 (中一の担任)[『週刊朝日』1989.8.25]


32▼

 「当時の指導要録を見ると、性格の欄に“おとなしい、目立たない、無口”と記入されています。これほど直裁に表現した記述は、珍しいですね」


 (五日市中学校校長、T氏)[『文春』1989.8.31]


33▼

 「ひっそりと隅にかしこまっている子。与えられた仕事はやるが、目立ったことはまったくない」


(中学1年の時の担任)[『朝日ジャーナル』1989.8.25]


34▼

 「ふだんは暗く静かな少年でしたが、作文では、想像力を十分に働かせて、明るくのびのびした文章を書いてました」


 (中学の3年間、国語を教えた女教師)[『週刊朝日』1989.8.25]


35▼

 「休み時間だけでなく、授業中でもノートやリポート用紙に怪獣の絵を描いていた。自分で創造した絵でツノなどが出ている怪獣だったかな」


 (中学校級友)[『サンデー毎日』1989.9.3]


 参考 : 宮崎勤の描いた絵。宮崎は裁判中にも、我関せずで怪獣やロボットの落書きをしていた。当時休み時間に描いていたものとほぼ同じようなもののようだ。


36▼

 「大学ノート五、六冊分のマンガを見せてもらったことがある。絵はうまくなかったが、タイムマシンに主人公が乗り込んでパトロールするストーリーはしっかりしていた。『中学生でよくこれだけ考えつくな』と言ったら、うれしそうだった」


 (中学校級友)[『サンデー毎日』1989.9.3]


 この漫画のストーリーはこうだ。


 タイムマシンに乗って時間を旅する主人公が、トラブルで、片足をタイムマシンの外に出したまま時間を移動する。そのため、主人公の片足はなくなり、ラストで現代に戻ってきた主人公が、こう言う。「片足は、過去に置いてきた」。


37▼

 「授業中、先生に尋ねられると、もじもじしないでしっかりと答えてました。化学、地理が得意だったみたい。何かひとつのことに熱中するタイプで、絵を描きだすと、席を立たないで、ずうっといつまでも描いていた。優しい感じで、人に意地悪をせず、人からも悪口を言われることがなかった」


 (五日市中3年同級生・K美さん)[『週刊読売』1989.8.27]


38▼

 「必要最低限のことしか話さなかったけど、そんなに暗くはなかったですよ。わりと頭が良かったみたい」


 (五日市中3年同級生・S江さん)[『週刊読売』1989.8.27]


 宮崎勤のクラブ活動は、1、2年は陸上競技、3年は将棋。将棋は地域の大会で優勝したこともある。


39▼

 「彼には負けず嫌いというか悔しがり屋の面は多分にありました。休み時間に将棋をやって負けると顔をゆがめて悔しがるんです。でも口の中でモゴモゴ言ってるだけ、ハッキリ悔しさを言わない。そのうち将棋の本を読んできて挑戦するんです。たかだか将棋のことで、あれだけムキになるのも珍しいですよね」


 (同級生E・F君)[『女性自身』1989.9.5]


40▼

 「クラスが一緒だった割には、印象にありません。ただ、将棋クラブで、対戦したことがあったかな。けっこう強かったと思う。どんなことかは忘れたけど、誰かにちょっとからかわれた彼が、珍しく顔を真っ赤にして怒ったのを覚えている」


 (五日市中3年同級生、M君)[『週刊読売』1989.8.27]


41▼

 「勤は将棋がかなり強かった。でも、たまに負けるとすごく悔しがって、書店へ行って将棋の本を買って研究してた。研究熱心というよりは、異常なほど負けず嫌いだった」


 (級友)[『明星』]


42▼「からかわれても、強く握ったこぶしを震わせて耐えていた宮崎を覚えている」


 (同級生)[『朝日ジャーナル』1989.8.25]


43▼

 「あいつが机に座っていて、誰かにからかわれたと思うんだ。そのとき、あいつ、じっと我慢しているんだよ。普通だったら口で言い返したりするでしょ。それが黙って我慢してた。


 そのとき、握り拳をつくって、ぎゅっと握って震えてるんだよ。よくドラマでやるでしょ、怒りをこらえて、腕を震わせるっていう。あれと同じ。ああ、ドラマみたいな怒り方をするなあ、と思ったんで、記憶に残ってるんです」


 (友だち)[『現代』10号【幼女惨殺】吉岡忍]


44▼

 「学生カバンが参考書や本で膨らんでいた。勉強が出来て、先生に当てられてもスラスラ答えていた。休み時間はいつも将棋。放課後、机の上から前転をやってみせて、けっこう注目を集めたこともあった」


 (五日市中3年同級生・I君)[『週刊読売』1989.8.27]


45▼

 「あいつ、短距離はかなり速くてね、運動会ではクラスの代表に選ばれる。ただ、中学になると運動会で選手になって走るなんて、どっちかっていうとみんな面倒くさいんです。


 そこで、宮崎なら文句言わないだろうって選んでいたんです。本人はどう思ってたか知らないけど、何も言わず選手になって走ってました」


 (同級生G・H君)[『女性自身』1989.9.5]


46▼

 「運動神経は良かった。空手の真似をやってみせたり、足も速くて、体育大会にリレーの選手に選ばれたくらい。漫画もうまかった」


 (五日市中3年同級生・W君)[『週刊読売』1989.8.27]


 宮崎は空手の通信教育をやっていた。


47▼

 「中学1年の頃だと思いますが、彼が空手を習っているのは知っていた。おとなしそうだけれど、空手を習っているんなら下手に喧嘩したらやり返されるな、と思ったことを憶えています」


 (同級生)[『文藝春秋』10号【追跡!宮崎勤の「暗い森」】安倍隆典]


 安倍隆典氏は「空手は、右手をきたえ攻撃によって身を守る武術である。右手の後遺症と、何らかの関連を持つと考えてよいだろう」と推測しているが、そんな大袈裟なものではないと私は思う。この時期、格闘競技に興味を示す子供は多い。


 蜂巣氏の意見に同意。この時期『燃えよドラゴン』等のブルース・リー映画が大ブレイクしており、全国の子供たちに空手ブームが巻き起こっていた。手の障害と結びつけるのは、少々考えすぎであろう。


48▼

 「そうしたら勤が空手の形をやってみせたんです。誰かが殴る格好をして、それを避ける構えをしてみせたんだけどさ、なかなか堂にいってましたよ。体は小柄で痩せていたけど、ちゃんと格好になっていた」


 (中学一年のときの友人)[『現代』10号【幼女惨殺】吉岡忍]


49▼

 「仮面ライダー、怪獣のプロマイドを集めていたようで、一、二回交換した覚えがある」


 (同級生)[『朝日ジャーナル』1989.8.25]


50▼

 「勤と3、4人で地元のボウリング場に行ったとき、『好きなテレビ漫画が最終回なんで、いったん帰るわ。』と途中で帰宅して番組を見た後、再びボウリング場へ。


 当時、発売されたばかりで高額なビデオデッキをすぐに買ってもらった、と言ってたから、ずいぶん大切に育てられたんじゃないかな」


 (五日市中3年同級生、K君)[『週刊読売』1989.8.27]


 当時、ビデオは26万円くらい。ちなみに、ここでいう“好きなテレビ漫画”とは『ガッチャマン』のことである。


51▼

 「昼休みでも一人で背を丸くして自分の椅子に腰掛け、もの思いにふけっているような感じでした」


 (五日市中学で同級だった主婦)[『週刊女性』1989.9.5]


52▼

 「怪獣の絵を鉛筆で描いていて、それがすごくうまかったんだ。漫画家になったほうがいいやつだった。描きたいときにいつも描くって調子だったよ。ストーリー漫画じゃなくて、一枚だけの絵が多かったんじゃないかな」


 (友人)[『現代』10号【幼女惨殺】吉岡忍]


53▼

 「ちょうど僕の後ろの席。授業中もノートに『サイボーグ009』などの絵を描いていた。女の子たちは誰も相手にしていなかったし、『マザコンじゃないか』と噂されていた。高校に入って遊んだ、と聞いている」


 (五日市中3年同級生、Y君)[『週刊読売』1989.8.27]


54▼

 「あいつはロボットみたいな絵もよく描いてた。マジンガーZみたいな絵だった。だけど、あれは自分で考えたキャラクターだったと思うな。うまいと思ったよ。あのまま続けていれば、プロになれるんじゃないかと思うくらいうまかった」


 (友人)[『現代』10号【幼女惨殺】吉岡忍]


55▼

 「休み時間、勤に“河童の怪獣の絵を描いてみろ”と言ったら、大学ノートに伏せるようにして、黙々と描きはじめた。出来上がったのを見ると、鱗のひとつひとつまで丹念に描き込まれていてみるからに気味が悪かった」


 (級友)[『明星』]



 『現代』(10号)にノンフィクション?ライター吉岡忍氏が書き下ろした【幼女惨殺】によると、「宮崎の描く絵に、人間は一人も出てこなかった」というのが、友人共通の証言であるらしい。


 しかし、自作の漫画や学校の文集、高校のとき友人にあてた年賀状などには、創作と思われる人物のほかに宮崎自身や友人の絵が描いてある。怪獣を描くのが好きな子どもにとって、人物は描くのが難しい割にはあまり魅力のないもの、と思う。


 参考 : 宮崎勤の年賀状。「宮崎の絵に人間が出てこなかった」ということはない。その人が見た絵に、たまたま描かれてなかっただけではなかろうか。


56▼

 「英語の授業のときだけ、前のほうにすわっていたという記憶しかありません。バレンタインデーには、女の子が男子全員に義理チョコをくばりますが、彼は目立たないうえ女子を避けるところがあったので、それすらもらっていない」


 (同級生K氏)[『テーミス』1989.8.30]


 『週刊読売』(8.27)の《五日市中3年D組同級生の全証言》の中では、「ノーコメント」の他に「印象に残らない」という意見が多い。次の意見は、その最たるものである。


57▼

 「小6、中学と一緒だったらしいけど、憶えてないんだよね。少人数のクラスでほかの皆は全員憶えているのに、彼だけがすっぽり抜け落ちている」


 (S氏)[『週刊読売』1989.8.27]


58▼

 「弱い者には強がっていたみたいだね。同級生の一人が学校に行く時宮崎の家に寄ったら、怒鳴られたというんだ。宮崎は学校を休むつもりだったらしいけど、弱いやつには、そうやって怒鳴ったりするところがあった」


(同級生)[『フラッシュ』]


59▼

 「もの心ついた頃から、木登りや高い所から飛び降りたり、よく一緒に遊んだ。中学校までは暗い印象はありません。高校へ入ってから変わった。愛想が悪くなり、酒の席では何もせずに、隅でポツンとしていた彼の姿が目に浮かびます」


 (五日市中3年同級生、A君)[『週刊読売』1989.8.27]


60▼

 「中学一年の時、給食の時間にスプーンの使い方がおかしいので、“どうしたんだ”と聞くと、“生まれつきなんだ”と、勤はポツリと一言答えたことがありました。


 勤とは小学校の頃から秋川で泳いだり、木登りや野球をしたりして遊んでたけど、それまでは全く気がつきませんでした。だから、ほとんどの同級生は手のことは知らなかったと思います」


 (同)[『文春』1989.8.31]


61▼

 「ある新聞には、表情のない能面みたいな顔なんて書いてあったけど、そうじゃなかった。カッとなるということも、ほとんどなかったです。ただ、今年の正月に遊びに行ったら、『今日はダメだ。』と厳しい口調で言われた。あれには驚いた。


 確かに宮崎を嫌っている同級生は多かった。同窓会などで、『アイツが来るなら、オレは行かない』という者もいた」


 (同)[『週刊読売』1989.8.27]


 この意見が本当だとすれば、宮崎勤の感情の起伏は常人のそれと変わらず、子供の時から“異常に印象に残らなかった”というのが定説のようにあちこちに書かれているが、実は“嫌う”という形でも意識している同級生が多くおり、同窓会に『アイツが来るなら、オレは行かない。』とまでいわれるほど、一部には目立った存在であったということになる。


 宮崎勤の中学3年の時の英語の偏差値は72、五日市中学校から、明大中野高校へ進学した同学年の中で唯一の生徒だ。そんな優秀な生徒が、人並みはずれて“意識されなかった”ということがあるのだろうか?


62▼

 「一見鈍そうだけど、運動神経がいいんですよ。中学生の頃、学校の土手からよく空中前転してました。また正月にトランプ遊びで“ウスノロマヌケ”(同じカードがそろったら素早くマッチ棒を取るゲーム)をしたことがあるのですが、いつも一番か二番でした」


 (小・中学校を通じての友人、I氏)[『週刊読売』1989.8.27]



63▼

 「以前、宮崎は九官鳥を飼っていたのですよ。戸を開ける音の物真似がうまくて『ガラガラー』としゃべってました。私が『可愛いな』と言うと、おどけて『そんだんべ』とうれしそうな顔をしていました。また、白い犬も可愛がってましたね」


 (同)[『週刊読売』1989.8.27]


64▼

 「あれは三年のときだったけど、夕方、勤が自分の庭にしゃがみこんでいる。何をしているのかと近づいてみると、股間に猫をはさみこんで首を絞めている。猫はケイレンして今にも死にそうでした。


 びっくりして、すぐに猫を放させたんですが、勤はそのまま家に入っていった。おとなしい勤がどうして、と不思議で仕方がなかった」


 (同級生)[『文藝春秋』10号【追跡!宮崎勤の「暗い森」】安倍隆典]


65▼

 「検察できかれたのは、会ったときの印象、ドライブで一緒にどこへ行ったか、最近の彼の様子はどうだったか、小さい頃はどんなことをして遊んだか、などです」


 (小・中学校の同級生A君)


66▼

 「中学時代を通じても、“女”関係の話をしたことが一度もなかった。少々エッチな話をしていても、まったくのってこないんです。修学旅行で京都へ行ったときも、みんなのエロ話の輪に加わらないんですよ。最近もドライブしながら、水を向けても、生返事ひとつしないから、話題になりようもなかった」

(同)


67▼

 「宮崎は冗談をよく言うヤツで、人気者でしたよ。修学旅行先で先生が、“宮崎はほんとうにおもしろいヤツだなぁ”と言っていたのを覚えています」


 (10年来の友人)[『女性セブン』1989.9.14]


 中学3年のとき、英語の家庭教師と、数学の家庭教師がつく。


68▼

 「(三年の)一学期の頃は成績はまずまずだったけれど、それから急速に伸びましたよ。よく勉強したということですがひとつのことをはじめると、素晴らしい集中力だったですよ。


 彼は強く言われると、何でも『はい』と言うんです。自己主張しないんです。気が弱かったんですかねえ。だから、今度の事件で警察に調べられるときも『はい、はい』と言ってしまうんじゃないか。それが気になるんです」


 (英語の家庭教師)[『現代』10号【幼女惨殺】吉岡忍]


 ~  ~  ~  ~  ~


 中学卒業時の文集『山脈』よりの、宮崎勤の“一言”。


 《新たな闘志と気迫を!》


 ~  ~  ~  ~  ~


 卒業記念の寄せ書き。


 《Both you and I have future, ツトム》


 (訳 : 僕と君には未来がある)


 ☆  ☆  ☆  ☆  ☆


 【高校時代】


69▼

 「五日市中学から初めて明大中野へ合格した、と校長先生も喜んでくださった」


 (宮崎の母親)[『週刊朝日』1989.8.25]


70▼

 「私が国語教師だったせいか、彼の書く文章は、非常に特徴のあるものだったのが、印象に残っています。美文とか名文というのではなく、おもしろい文章を書く生徒でした。


折句というのか、頭の文字を取ってゆくと、ある単語、言葉になる、そんな文章を細かい文字で、びっしり学級日誌に書いたりするんです。


 “あくまで”という単語を“悪魔で”と書いたり、そんな文章遊びもよくしていました。文章の中の宮崎は、饒舌じょうぜつで明るい生徒なんですが、実際に本人に接すると無口で暗い生徒なんですね。そんなことが、今思い出されます」


 (高校1学年の担任だったM氏)[『文春』1989.8.31]


71▼

 「クラブ活動もせずに、目立たなかった」


 (同校教頭)[『サンデー毎日』1989.9.3]


72▼

 「印象がまったくといっていいほどありません。宮崎勤についてと言われても、どの宮崎なんだか――。それほど印象の薄い子でした。

成績も中の下。1、2年の頃からそんな成績だったようです。


 遠くから通ってきているのに、遅刻早退がないという意味で問題の無い生徒だったように思っていた気もします。教師に逆らうわけでもないし、自己主張するわけでもなかった」


 (高校3年時担任のI先生)[『女性自身』1989.9.5]


73▼

 「宮崎が綾子ちゃん殺しを自供した翌々日、刑事さんがみえました。その時、逮捕後の宮崎の写真を見せられたんですが、そこに写っている宮崎は私の知っている宮崎とは別人のようでした。卒業して8年の歳月があったとはいえ、人間の顔がああまで変わるのかとショックでしたね。


 宮崎は、手の障害をバカにされて綾子ちゃん殺しを自供したそうですが、それは嘘です。手の障害なんてありません。だって体育などは相当いい点を取っているんですから」


 (明大中野の3学年の担任だったK氏)[『文春』1989.8.31]


74▼

 「長閑な田舎で育った彼は都会の高校に入って、一種のカルチャーショックを受けたんだと思います。そして、スピンアウトされてしまったんです。


 入学してからまもなく、先輩から五日市町から入学した宮崎のことを聞き、電話をして“一緒に通学しよう”と誘いました。武蔵五日市は、始発駅。だから彼は座っていけるんですが、僕の乗る秋川駅ではもう満席。座れないんです。それを気にしたのか、彼は座席に座らず、立ったままでやってきて、僕を迎えるんです。


 クラスが違うのに一緒に行こうと声をかけたのが、彼にはよほど嬉しかったでしょうね。そこまで気を使ってくれました。


 約1時間半の電車内で、彼にいろいろ話しかけるんですが、ただ“ああ”とか“うん”と言うだけで、会話にならないんです。それで、一緒にいてもつまらなくなって、僕のほうから避けるようになってしまったんです。


 二年になった頃には、もう諦めたのか、彼は座って眠ってるか、マンガ本を読んでいた。


 あれは二年の時だったか、久しぶりに彼と一緒に帰ったことがあったんです。その時、拝島駅で、彼の中学時代の同級生が電車に乗り込んできた。


 そしたら、彼はすごく楽しそうに同級生と話をするんです。ああ、宮崎も普通に話が出来るんだなあ、と驚いたのをおぼえています。


 毎日、重いカバンを下げて、立ちながら、僕を待っていてくれた宮崎。そんな気持ちに応える我慢強さが、あの時の僕にあったなら、彼の高校生活も、少し変わったかもしれない……」


 (五日市町の隣町、秋川市から、同じ明大中野高校に通った友人)[『文春』1989.9.7]


 『朝日ジャーナル』(1989.8.25)では、宮崎の父親が知人を介して彼の両親に「一緒に通学してくれないか」と頼んだ、となっている。


 もし本当に父親が「一緒に通学してくれないか」と頼んだとしたら、少々“痛い”エピソードだ。父親の勤に対する妙な過保護ぶりは随所にうかがえる。唯一の長男として大事にしていたのであろうが。


75▼

 「精神的な転機があったとすれば高校時代ではないか。

都心の付属高校に通うウチの息子も、五日市の子供は、純粋で、都心の高校に行くと文化ショックを受け、劣等感を感じるという」


 (中学の担任教諭)[『朝日ジャーナル』1989.8.25]


76▼

 「宮崎君は英語が得意で80点ぐらいは取っていたと思います。国語も70点くらいで、中程度の成績でした。一学期では、五十数人のクラスで二十番くらいだったのですが、二学期の中間評価で突然、四十二、三番まで落ちたんです。


 夏休み中にクラブ活動に夢中になって成績が落ちるということはあるんですが、彼には当てはまらない。原因は、結局分かりませんでした」


 (高校1年の時の担任教師、M氏)[『現代』10号【幼女惨殺】吉岡忍]



 同教師は個別面談で、「このままでは明大に推薦入学できない(同校から推薦入学できるのは上位六割まで)と、きつくいったことがある。


77▼

 「普通なら、『がんばります』とか『余計なお世話だ』とか、反応が返ってくるのに、彼からは何も返ってこない。二者択一の設問を用意してやって、はじめてイエスかノーかの反応がある。そんな感じの生徒でした」


 (高校1年の時の担任教師、M氏)[『現代』10号【幼女惨殺】吉岡忍]


78▼

 「通学の電車で一緒でした。でも、グループの中にいるでもなし、いないでもなし、そんな存在だったですね。車中で、皆の話題といえば、バイクの話、同じ中央線で通学する女子高生の話ですが、僕らがワイワイ話しているのを、横でじっと聞いているだけ、妙な奴でしたね」


 (高二の同級生、N氏)



79▼

 「休み時間は、寝るか、一人で漫画を読んでいるかで、通学することだけに体力を使っているようでした」


 (同級生)[『朝日ジャーナル』1989.8.25]


 高校のときの成績は、


〈1年〉


 現代国語3、古典3、数学3、英語4、世界史2、地理2、生物3、美術4、体育2。


〈2年〉


 現代国語3、古典2、数学3、英語4、世界史2、政経2、物理3、化学2、美術3、保健体育3。


〈3年〉


 国語2、数学4、英語3、日本史2、倫理社会3、物理3、化学3、保健体育4。


 高校の3年間、欠席日数は25日。三学年時の欠席は2日。理由のほとんどは風邪。


80▼

 「休み時間も机にかじりついて勉強してました。だから、相当成績はいいと思っていたんですが、一度、通知表を取りあげてみたら、意外に悪かった。あれだけ勉強して、これじゃあ、こいつ相当に頭悪いなと思ったことがあります」


 (高二の同級生、I氏)[『文春』1989.8.31]


81▼

 「社会が全く苦手でしたね。特に歴史は赤点とるぐらいひどかった」

 (同級生)[『現代』10号【幼女惨殺】吉岡忍]


82▼

 「ガールフレンドもいなかった」

 (高校同級生)[『サンデー毎日』1989.9.3]


  高校の休み時間に、教室に入ってきた虫を、クラスの一人がふざけて宮崎の方に足で押しやり、「踏んでみろ」と言うと、躊躇なく踏み潰し、ニヤッと笑ったという。


83▼

 「とにかくうす気味悪い奴でした。教室で机に向かって何かコソコソやっているから、『何やってんだ?』なんて話しかけると、『いいだろう』とあわてて何か隠したりしました。勉強も、クラスで60番中、40番くらい。


 怒りっぽく、笑顔なんて見せたこともないくせに、授業中、先生に指されて発表するときなんか、声がいつもワナワナと震えてました」


(高校の同級生)[『テーミス』1989.8.30]


84▼

 「たまたま席が隣だったんで、3年の時はよく話をしたと思うんですが、とにかく内向的で真面目な奴という印象でした。銀縁のメガネでいつも机に向かってシャープペンシルをノートに走らせていた。


 授業中も、よく先生の話を聞いてるなと思うんだけど、試験をするとできてないみたいなんですよね。特にいじめられたわけでもないけど、おとなしくて真面目だから、からかわれやすいタイプだったみたいですね」


 (同級生のK・L君)[『女性自身』1989.9.5]



 高校の時のあだ名は「大先生」、または「博士」。ピタゴラスの定理を独自に説明しようと執心していたこともある。


85▼

 「おとなしかったし、背も小さかったので、からかわれたりすることも多かったね。“お前のことを相手にするのは、幼稚園の女の子くらいだよ”なんて、いま考えると、ぞっとするようなことをいわれていたこともありましたね」


 (級友)[『女性セブン』1989.9.7]


86▼

 「彼みたいなタイプはいじめにあいやすい。でも、相手をじっと上目遣いに見るのが気持ち悪くて、皆、いじめをやめた。“魔太郎”みたいでイヤでしたね」


 (高2のクラスメート)[『週刊宝石』1989.9.7]


 宮崎は逮捕後の供述で、しつこいくらい「学校では手のことでいじめられた」と語ったが、そのような第三者の証言は皆無だ。逆に、スポーツが得意だったという声は意外に多い。


 深刻ないじめがあったなら学校に行くのを厭いそうなものだが、彼は毎日、片道2時間かけて通学した。高校の三年間での欠席数は僅か25日。



 四つのコースから選択する高校の修学旅行では、中国地方を選んだ。


87▼

 「萩では、自転車で高杉晋作の銅像を見に行ったんですが、宮崎は全然興味がないみたいだった。あいつはそういうことに興味がないのか、と思った」


 (同じグループだった友人)[『現代』10号【幼女惨殺】吉岡忍]


88▼

 「修学旅行の集合写真にも、なぜか彼だけ写ってないんです。たまに写っていても誰かを撮ったものの片隅に入っていたりするくらい。そんな時も、いつも顔をゆがめて嫌そうな感じでした」


 (高校の同級生)[『フラッシュ』]



 3年時の夏期講習の帰りに東京体育館に泳ぎに行くこともあった。


89▼

 「一見スポーツが苦手なように見えても、彼はなかなかやりましたよ。水泳では、飛込みが上手いんです。飛び板でジャンプして、一回転するんです。身が軽いやつでしたよ」


 (友人)[『現代』10号【幼女惨殺】吉岡忍]


90▼

 「英文科志望だったようですが、一、二年の成績から、無理だと思ったんでしょう、三年一学期の面談では、“家が新聞をやっているので、印刷関係の専門学校に進みたい”と言ってきた」


 (3年時担任教師)[『文藝春秋』10号【追跡!宮崎勤の「暗い森」】安倍隆典]


91▼

 「宮崎は、どうしても明大に進みたいということもなかったみたい。家が印刷業だから跡を継ぐのでその関係の学校に行くんだと、早い時期に言ってました」

(同級生N君)[『女性自身』1989.9.5]


92▼

 「高校卒業の半年ほど前、電車の中で宮崎と出会った。“大学はどこへ行くんだ”と訊くと、“明大への推薦が取れなかった。家の仕事を継ぐため、専門の短大に行くよ”と、自嘲気味に答えてました。ずいぶん淋しそうだったな」


 (中学の同級生)[『文春』1989.8.31]



93▼

 「『明大一部の推薦入学がダメ、二部なら大丈夫と先生に言われた』と言ってました。がっかりした様子で、英語教師の道もそれであきらめたのでしょう」


 (中学の同級生。)[『サンデー毎日』1989.9.3]


 友人と宮崎の似顔絵漫画が描いてある、高校3年のときの宮崎勤からの年賀状。友人の口から出た吹きだしには「アムロ歌ってくれよ」と書いてある。


『機動戦士ガンダム』のテーマソングを3番まで覚えていて、友人がそう頼むと、小さな声で歌ってくれたらしい。


94▼

「宮崎はほんとに、あのころは純粋にアニメが好きなアニメ少年だった。いま会ったら、もう一回言ってやりたい。『アムロ歌ってくれよ』って」

(年賀状をもらった友人)[『現代』10号【幼女惨殺】吉岡忍]


 珍しく、ちょっと泣かせる?コメントだ。筆者も当時放送された一作目の『ガンダム』にはハマったクチなので、こんなところも身近に感じてしまう。


 高校3年の夏休み、宮崎の家へ遊びに行った友人四人がいる。五日市駅で待ち合わせ、秋川で泳ぎ、近所を案内してもらい、自宅に泊まった。風呂に入って、夕食に母親の作った鉄板焼きを食べ、父親も挨拶に出てくる。食後、宮崎勤の部屋でトランプをした。


95▼

「当時の彼の部屋は広々としていました。ビデオがなくて、本棚はもっとスカスカだった。お父さんは陽気で、アイツに似ていました。お母さんは腰が低かった。普通の家庭でしたよ」


(友人)[『女性セブン』1989.9.14]


96▼

「あのころはかなりのマンガを持ってました。雑誌は『少年サンデー』『少年マガジン』など、単行本は『ドカベン』とか、特撮ものの図解とか写真集。けっこうきちんと本棚に入ってました。量が多かったのでびっくりしたんですよ」


(3年の夏休みに宮崎の家に泊まりに行った友人)[『現代』10号【幼女惨殺】吉岡忍]


97▼

 「東宝系の特撮物で、ゴジラばかり集めた写真集が自慢でした。『なかなか売ってないんだ、これ。おれだけしか持ってないよ』って、言ってましたから。

アニメのセル画も、何枚か持っていたし、変わってるなと思ったのは、『りぼん』とか『マーガレット』なんていう少女コミックもあったことです。へえ、こんなのも読んでるのか、と思った」


 (同)[『現代』10号【幼女惨殺】吉岡忍]


 この友人は「変わってるな」と感じたようだが、家族に姉や妹がいる場合、本人も少女マンガを読み始めるのは、よくあることだろう。



 他にも、友人が家に来たときには、近くのボーリング場へ連れて行ったりした。


 ☆  ☆  ☆  ☆  ☆


 【短大時代】


 81年、東京工芸大短大画像技術科に進学。


98▼

 「1年のとき宮崎君とおもな授業はいつも一緒でした。いつも顔を見合すから、私たち女の子もごく自然に“おはよう”って声をかけるし、隣の席になれば話しかけもするんです。でも、絶対に彼は答えようとしないんです。笑い返しもしない。視線を伏せちゃうんです。


 最初のうちは照れてるのかと思ってたんですが、あまり嫌そうなので、女の子たちも挨拶しなくなったの。別に避けるつもりはなかったけど、こっちもあんまりいい気はしないから」


 (同級生のOさん)[『女性自身』1989.9.5]


99▼

 「彼はいつも一人だった。たいていグループができて、それぞれ集まって遊びに行ったりしたものですが、彼はどこのグループにも属していなかった。クラスのコンパにも出てこなかった。


 陰気で暗いから皆が遠ざけたというのではなく、真面目で勉強しかしない秀才タイプの人間だと思っていたんです。目立たなくて、色が白い人だったという記憶しかないですね」


 (同級生)[『文藝春秋』10号【追跡!宮崎勤の「暗い森」】安倍隆典]



 箱根に写真撮影の実習に行ったときは、ひとり、テレビを観ていたという。


100▼

 「学生食堂や教室移動のとき、女の子同士で固まって話していると、遠くから、じっと見ているんですよ。にやにやしているんじゃなく、無表情というか、むしろ怒っているような感じでね。


 私、最初は宮崎君に朝会うと、『おはよう』と挨拶してたんだけど。逆ににらまれるんで、怖いからやめることにしたんです」


 (短大同級生、T子さん)[『テーミス』1989.9.13]


高校時代の何人かの友人とは付き合いがあった。映画やプロレス、テニスとか大学対抗アメフトの試合、サーカスなどを友人を誘って見にいく。


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 「切符はみんな、宮崎がクイズなどで当てたものばかりで、たぶん一枚も買ったものはなかったんじゃないかなあ。とにかくすごい量の応募ハガキを書いてましたから」


 (友人)[『現代』10号【幼女惨殺】吉岡忍]


102▼

 「そういえば、彼の服装はいつも、ジーパンに襟のあるポロシャツで、オジサンふうだったよね。どっかズレてるっていう感じ」


 (短大の同級生)[『現代』10号【幼女惨殺】吉岡忍]


 『週刊朝日』(1989.8.25)によると、十年来、宮崎家とつき合いがある洋品店店主のAさん(65歳)は、宮崎のスーツを三着仕立てたことがあった。


 成人式用のグレーの三つ揃い、昭和56年に仕立てたブレザースーツ、そして、1989年6月半ばに注文を受けた夏用礼服、である。母親に付き添われた宮崎は仕立てに関して自分の好みをはっきり言わない。


 しかし、注文通りに仕立てたブレザースーツを「クサい(格好悪い)」と放り投げたことがあるという。


103▼

 「短大1年の秋ごろだったかな、『この前、同じクラスの女の子と映画を観に行ったんだ』と言ったんです。『かわいいのか』と聞いたら、『まあまあだな。ぼくより背が高いけど』と照れるわけでもなく、当然といった様子で話していました。話はそれだけだったけれど、めったにないことなので、ほうっと思ったんですよ」


 (友人)[『現代』10号【幼女惨殺】吉岡忍]


104▼

 「アイツ、大人の女に興味が無かったなんてウソですよ。アダルト雑誌もビデオも見ていた。“日本人より外人のほうがスタイルがいいから、いいよな”と言って、外人を好んでました。金髪も好きだったみたい」


 (10年来の友人)[『女性セブン』1989.9.14]


 タレントは、山瀬まみが好きだったという。


 短大2年、“グラフィック・アート”クラスへ進む。大学2年のときには、NHK教育の『YOU』に番組参加者として出演した。番組のテーマは「今カメラマンを目指す君たちに」。糸井重里の発言に笑みをもらす1コマもあったらしい。


105▼

 「宮崎は気が小さくて、とろいところがあった。仲間とペースが合わないんです。実習していてひとりだけ遅い人がいるとグループ全体が遅くなる。“ああ、また宮崎か”ってことがよくあった。


 ボクらは特にいじめてるわけじゃないんだけど、宮崎は実習仲間や声をかけてくる女のコのことを怖がっていたような気がする。いつもオドオドしていた感じでしたから」


 (短大同級生)[『女性自身』1989.9.5]


 短大の同級生には、タレントの川崎麻世もいた。


106▼

 「クラス80人くらいで、いくつかのグループができていてボクたちのグループにはいなかったけど、とにかく目立たないおとなしい性格。それだけに、ショックです」


 (川崎麻世)[『週刊女性』1989.9.5]


 川崎麻世は『日刊スポーツ』で、「僕は記憶力が良いし、少人数のクラスだったから忘れるわけがないのに覚えていない」と発言している。


 逆に、宮崎は川崎麻世に思い出があった。高校卒業後、半年して会った友人の話。


107▼

 「短大の体育祭で呼んだ川崎麻世と話したんだ。あいつ、障害物競走でズルして、いかにも芸能人らしいな」


 (宮崎勤)[『現代』10号【幼女惨殺】吉岡忍]


108▼

 「一人でパズルを解くなど、いつも傍観者的で静かだった」

 (短大の同級生)[『サンデー毎日』1989.9.3]


 彼はクイズやパズルの常連投稿者で、この時期、ルービックキューブにも夢中だった。


109▼

 「1981年の半ばごろだったが、パズルのページについて、連日のように電話をかけてくる読者がいました。『問題のここは、おかしんじゃないか』『問題文の意味が分かりにくい』といった具合で、マニアックな問い合わせでした。電話の声がなんか押し殺したふうで、ちょっと気味が悪かったですね」


[ 『現代』10号【幼女惨殺】吉岡忍]


110▼

 「ネチっこく、細かい質問を次から次へと浴びせてくるんです。それも理不尽というか論理的におかしいようなことも、平気でぶつけてくる。


 “自分はこういうやり方で点数を出したんだけれど、これが最高点でないのはどうしてですか?”的な質問が多かったですね」


 (情報誌のA編集者)[『デイズジャパン』10号]


 身勝手な質問に注意を与えると、「Aさん、どうしてそんなことを言うんですか……」と泣き出しそうに言ったという。


 一年後、宮崎はパズル解答ハガキの採点と整理のアルバイトを10日ほどする。



111▼

 「いくぶん暗い印象はありましたが、電話の声から想像したよりは普通の若者でしたよ。もともとパズルが好きだったせいか、仕事には没頭しているようでした」


 (某雑誌パズル担当者)[『現代』10号【幼女惨殺】吉岡忍]



112▼

 「僕が彼の家のことや将来の希望について聞いても、彼から返ってくる返事は、『アー』という、人をおちょくったような、ぶっきらぼうな単語だけなんです」


 (情報誌のA編集者)[『デイズジャパン』10号]


 A編集者は、ガールフレンドについての質問もした。宮崎の答えは、『女の子のことは、もう諦めているんですよ』であった。


 創作パズル投稿の常連でもあった。パズル雑誌、『パズラー』に一度、自分の創ったパズルが掲載されたことがある。


 『パズラー』に掲載されたという宮崎の創作パズルは確認できていない。『ホットドッグプレス』の誤りかと思うのだが。


 参照:宮崎勤の自作パズル



113▼

 「熱心さには驚きました。ここが悪い、と指摘すると、『どうしてですか』と、泣きそうな声で、駄々っ子のように繰り返すんです。


 それでいて、問題を作ってくるときには、若者雑誌特有の言い回しがありますね、『やあ、元気かい』っていうような、あれをそっくり真似てくるんです。それは上手かったですね」


 (某雑誌パズル担当)[『現代』10号【幼女惨殺】吉岡忍]


 ☆  ☆  ☆  ☆  ☆


 【就職~家業手伝い・A】


114▼

 「父親の紹介で、家業を継ぐための見習いということで、5年の約束で入社した。ところが、印刷機以外の仕事は覚えようとしない。新人研修の時から居眠りをするなど、まったくやる気が見えず、技術もほとんど身につかなかったようだ。3年で退社しました」


 (会社関係者)[『文藝春秋』10号【追跡!宮崎勤の「暗い森」】安倍隆典]


115▼

 「奥さんが“修業に行かしているんだ”って、言ってらっしゃいましたよ。いつも息子さんのことを“兄ちゃん、兄ちゃん”と呼んでねェ。“会社の帰りが遅いときも、夕飯はちゃんと残してあるんだ”って、嬉しそうに話してました」


 (近所の老婆)[『週刊ポスト』1989.9.7]


 会社を休むときは母親が電話してきた。


116▼

 「とにかくこちらから話しかけないと何も言わない。昼食も一人だけ離れて隅で食べていましたし、仕事が終われば、まっすぐ家に帰って仲間とつき合うこともなかった。


 仕事に対する熱意があるわけでもないし、ヤル気もなかった。ただ言われたことだけはやる。仕事を休むときも“明日、休むよ”と言うだけで、別に私に許可をとるわけではないんだ。仕事中だって二、三時間ふっといなくなる。どこに行ってるんだか全然わからないんです」


 (従業員)[『女性自身』1989.9.5]


117▼

 「会社を辞める前後だったと思います。それまで音信不通だった勤がひょっこり尋ねてきたんですよ。とっつきにくくなったと思いましたね。


 彼の部屋にも行ったんですが、何百冊という怪獣の本と、床には20冊くらいのエロ雑誌。それに食い散らかしたミカンの皮が放り出してありました。彼に仕事のことを聞いたら、“仕事は暇だし、だるい。将来、家を継がなくちゃならないから”って言ってました」


 (幼なじみ、I氏)


 会社を辞めて、86年春頃から、自宅の工場『秋川新聞社・印刷センター』で働くようになる。就業時間は、8時から5時まで。月給15万円。


 オフセット印刷機を操作し、刷り上がったチラシの束を得意先の新聞販売店などに届ける。運転免許を取り、日産ラングレーを親に買ってもらう。二週間に一度は平日にドライブに出た。


118▼

 「三年前から家業の手伝いをするようになって、また僕の家に遊びに来るようになりました。不思議な男で、いつも赤い色の大きなスポーツカバンを持っていました。中には、将棋、トランプ、それから缶ジュース、ビデオテープが数本入ってました」


 (A氏)[『文春』1989.9.7]


119▼

 「あれっ、こんな勝手なやつだったかなあって思った。すごく変わっていたから」


 (中学以来、宮崎とはほとんど会わなかったが、宮崎が家で働きはじめてからまたつき合いができた近所の友だち)[『現代』10号【幼女惨殺】吉岡忍]


 トランプはあいかわらず好きだった。ゲームはセブンブリッジ、七ならべ等。「トランプをやろう」と誘いに来る宮崎に、「子どもじゃあるまいし、今更トランプ遊びなんかやれるか!」と罵倒する幼なじみもいたという。


120▼

 「しかし、ルールを守らないんです。“待った”は二回までと決めても、平気で何度でもするんです。“もう、待ったはできない”といっても、“これが二回目だ”と言い張るんです。そんな時の勤は、まるで子どもみたいでしたね」


 (A氏)[『文春』1989.9.7]


 順番無視をして先にカードをめくる。注意されると、「そんなことを言わずに早くやろう」と声を荒げることもあった。


121▼

 「彼は、父親が高価な新しい印刷機械を購入して覚えさせようとしたのに、ついに指一本触れようとはしませんでした。ただ、『これをやれ』と言われたことはやる。土、日だってよく働いたほうだと思います。


 ただ、時々、『今日はいないから』と小声で言って、朝の9時ごろ、ふらーっといなくなる。そして日暮れごろそっと帰ってきて、どこへ行ったかも何があったかも話さず、食事だけして部屋へこもっていました」


 (従業員M氏)[『テーミス』1989.8.30]


122▼

 「時々、勤君に頼まれて、夕方、駅まで自動車で送ったことがありました。勤君は“遊びに無断で行くことをパパに言わないで”と言ってました。私はどこへ行くのか聞きませんでした」


 (工場長)[『週刊ポスト』1989.9.7]


123▼

 「午前中に10分ぐらい仕事をすると飽きてしまい、自分の部屋に行ってビデオをいじっている。しばらくすると出てきて、また働き出すかと思うと、車に乗って出かけてしまう。とにかくチャランポランだった。さすがに親父も頭にきて、再三、“工場を抜け出すのは困る”と、厳しく叱っていた。だけど、勤は全く聞き入れなかった。


 工場長も勤は社長の息子だから、きついことは言えない。親父は広告取りで外回りが多いから工場にはいない。結局、勤は放任状態で、ほとんど仕事をしていなかった。母親は“職業を誤ったかもしれない”と嘆いていたという。本人は“ビデオで身を立てる……”と言ってたそうだけど……」


 (秋川新聞社に出入りしていた関係者)[『文藝春秋』10号【追跡!宮崎勤の「暗い森」】安倍隆典]


124▼

 「やるときは神経質なくらい夢中なんだよね。刷り上がった紙を何種類か重ねるような仕事があるとね、ちょっとでも汚れがあるようなやつはすぐに撥ねちゃうんだ。そのくらいはいいよと思って、言うとさ、『うるさいっ。手を出すな』って、すごい剣幕で怒ったりする」


 [『現代』10号【幼女惨殺】吉岡忍]


125▼

 「昔は彼に向かって挨拶をしたこともありましたが、こちらが『こんにちは』と言っても何も答えないし、目を合わせようともしなかった」


 (近所の若者24歳)[『週刊読売』1989.8.27]


126▼

 「工場の前を歩いている女の人を見て『なんであいつ、おれのこと、じろじろ見てんだよ』って、怒っているんです。私には、そんなふうに見えませんでしたがね」


 (秋川新聞、M氏)[『テーミス』1989.9.15]


127▼

 「バイトの女の子が、何気なく店内を見ていたら、一瞬、ある男の人と目が合ったんです。そのときは何事もなかったけれど、しばらくして店に電話がかかってきて、『なんで、さっきおまえはおれのことをじろじろ見ていたんだ』って、怒鳴ったんですって。


 『あやまれ、あやまれ』って、あまりにしつこいんで、『すみませんでした』って言うと、やっと電話を切ったそうです。このあいだ、テレビで犯人の写真が出たでしょう。そしたら、その女の子が『おばさん、あのときの変な奴だよ』って」


 (五日市町のコンビニエンスストア『タイムズ・マート』の店長)[『テーミス』1989.9.15]


128▼

 「廃品のマンガ本の束は子供向けのアニメばかりでしたね。成人の男が見るような雑誌は一冊もなかった」


 (秋川新聞工場長、M氏)[『サンデー毎日』1989.9.3]


129▼

 「いつも買う雑誌は決まってましたよ。『アニメージュ』と『アニメディア』と『ニュータイプ』。三冊とも発売日が毎月10日なんです。その日になると、朝の9時半か10時に買いに来てました。こんな時間に来るお客は珍しいので、よく憶えているんです」


 (宮崎の家から数百メートルの書店の従業員)[『現代』10号【幼女惨殺】吉岡忍]


 押収されたビデオは5793本。


130▼

 「彼はまだ、二、三百本のビデオしか持っていない、というので、私の知っている仲間を30人ほど紹介したことがあります。それと、各地のローカル局でどんな番組を放映する予定があるかの情報も教えました。


 いつも奇妙な格好でしたよ。ピンクのシャツに、下はジャージだったり。会っても、立ち話だけで、ビデオの話しかなかったですけどね」


 (テレビ情報誌の読者投稿欄で宮崎と知り合ったビデオ・コレクター)[『現代』10号【幼女惨殺】吉岡忍]


131▼

 「変なやつで有名でしたよ。なんていうか、独占欲がものすごく強くて、僕はビデオ仲間を20人くらい宮崎に紹介したけど、あいつは一人も紹介してくれなかった。宮崎とは半年ぐらい付き合ったけど、喧嘩別れしたんです。待ち合わせ時間に僕が遅れて、宮崎が帰ってしまったことがあった。そしたら、夜の11時頃電話があって3時間くらい説教されましたよ。こっちが理由を説明して謝っても、同じことをグチュグチュと繰り返すんです」


 (ビデオ仲間)[『フラッシュ』]


 宮崎がまだ下小平の印刷工場に勤めている頃、埼玉のビデオ仲間の兄弟を訪ねた。この兄弟が宮崎にビデオを入れて送ったダンボールは、真理ちゃんの骨を入れたものと同一であるとされた。


132▼

 「ビデオ仲間の紹介で訪ねてきたんです。まだ車を持ってなくて電車で来たんですが、髪は七三に分け、身だしなみはキチンとしてました。ただ、無気力な男、そんな印象だったのを今も憶えています」


 (H氏)[『文春』1989.9.7]


 宮崎はこのとき『ライオン丸』などの特撮物のビデオを数本持ってきており、同じようなビデオを何本か借りていった。


 ☆  ☆  ☆  ☆  ☆


 【就職~家業手伝い・B】


133▼

 「その後、何回かビデオの貸し借りでやってきました。とにかく無口な男で、“最近、どんなビデオが入った?”と尋ねる以外、こっちから訊かないと何も話さない、そんな奴でした。一昨年の暮れ頃から、例のラングレーを運転してくるようになり、あのボサボサ頭になったのも、その頃からです」


 (H氏)[『文春』1989.9.7]


134▼

 「車で来るようになると、妙に明るくなったんです。その反対に、身だしなみは悪くなって、髪もボサボサになったんです。挨拶もしないんです。入ってくると、いきなり『新しいビデオ、入りましたァ』ですよ。もうそれが決まり文句。一時間二時間いても、とにかくビデオの話しかしない人ですよ、あの人は」


 (埼玉県に住むビデオマニア)[『現代』10号【幼女惨殺】吉岡忍]


135▼

 「ほとんどがアダルトビデオで、他はアイドルタレントのイメージビデオなどでした」


 (レンタルビデオ店従業員)[『文春』1989.9.7]


 宮崎はセックスシーンが続くだけのものでなく、ストーリーのある本番物が好きだった。


136▼

 「アニメやヒーロー物ばかり好んでいたが、こんな大人はいません。26歳の男が借りていって見るものじゃありませんよ」


 (宮崎が昨年7月、入会したレンタルビデオショップ従業員)[『サンデー毎日』1989.9.3]


 筆者も含めてだが、世の大人で、子供っぽい趣味を持つ者はたくさんいる。ではどういうものを借りれば26歳の男にふさわしいのだろうか?


 ちなみに135では「ほとんどがアダルトビデオ」とも証言されている。どっちを信用すれば良いのだろうか。


137▼

 「彼は我々で言うところの『完録マニア』。つまり、人気番組の『うる星やつら』だったら、一本だけではなく、初回から最終回までの全部を録画、集めないと、気がすまないんです。


 3年前に彼と新宿の喫茶店で会ったのですが、そのときはよく喋ってましたよ。『僕は、昔のマンガが好きなんです』『テープは今のところ2000本くらいになってます』とか自慢しているようなところがあり、子供っぽい印象がありました」


 (ビデオ仲間22歳)[『週刊読売』1989.8.27]


 当時はまだ「おたく」(もしくはオタク)の語は一般化していなかった。なので、現在なら頻出するであろう「おたく」は、この証言集には出てこない。

「おたく」を使わない代わりに、「子供っぽい」「マニアック」等で表現しているようだ。


138▼

 「五、六年前から月に三、四回買いにやってきました。ところが、今まで一度も口をきいたことがありません。本とおカネを出すだけ」


 (『あきがわ書房』のKさん63歳)[『週刊読売』1989.8.27]


 そんなことは別段、普通だと思うのだが……「近所で常連なら、店員と口をきかなければおかしい」のだろうか。


139▼

 「3年前、宮崎に30分番組の『ウルトラセブン第12話』をダビングしてもらったんです。もう再放送されない“幻のビデオ”なので、僕たちマニアの中では貴重なものなんだけど。


 でもその代わりにテレビ埼玉で放送中の番組を1年間録画するようにいわれ、結局、2時間テープ10本も送らされました。一方的な要求ばかりするエゴイストで、マニアの中でも常識はずれですよ」


 (埼玉県のビデオマニア)[『女性自身』1989.9.5]


 「宮崎勤と12話」のエピソードは、彼の人となりを表すものとして、結構なウェイトを占めている。その後、怪しげな都市伝説の元ネタともなっている。それらについては以下を参考までに。


 ビデオ仲間にあてた手紙

「怖い噂」の“宮崎勤と12話”関連記事を検証


140▼

 「宮崎は、自分勝手で人にはダビングを頼むくせに、他人には協力しない。それに頼んでくる量がまとめて10本、20本と極端に多い。頼んでくるのは、怪獣ものやアニメが多かった。相手の了承も得ずに、勝手にテープを送りつけてくる。


 電話で頼んでくるときも、ちょっとでも渋ると、やってくれるのか、やってくれないのか、どっちなんだと、しつこくからんでくる。


 普通は好みの傾向があるものなんですが、宮崎の場合は滅茶苦茶で、とにかく珍しければ何でもいいという集め方でした」


 (H川氏)[『文藝春秋』10号【追跡!宮崎勤の「暗い森」】安倍隆典]


141▼

 「会報見てまずビックリしました。大学まで出ているはずの青年が、小学校の低学年が持っているような作品ばかり並べて“私のベストテン”とやっている。何だか気持ち悪いうえに自分勝手なので、誰もが『交換』などを避けました」


 (日本総合ビデオクラブの会員)[『テーミス』1989.8.30]


 このベストテンは

 マイビデオライフ これが私のベスト10を参照。


142▼

 「昨年、題名を忘れましたが、ロリコンビデオをダビングしてくれ、とテープを持ってきました。30分くらいのもので、4、5歳くらいの女の子2人が裸で虫捕り網を持って走る内容でした」


 (友人)[『週刊読売』1989.8.27]


 現在では考えられないが、当時は幼女の全裸を写したイメージビデオや写真集が、一般書店で堂々と売られていた。宮崎の所有ビデオリストに『プチトマト』があるので、恐らくその辺りのものだろう。


 ただ、4台のビデオデッキを持っていた宮崎が、なぜ他人にダビングを頼む必要があったのか「?」だ。


143▼

 「勤は、幼い時から手が不自由なのを気にしていた。実際4歳の時には手術を考えた。でも手術をして身障者になったらと将来を考慮して、そのまま暮らしてきた。


 勤は以後、さまざまなことがうまくいかないのは、すべて手のせいにしてきたようだ。(成長してからは)『手が悪い。オレは結婚できない。どうしてオレみたいなのを生んだんだ』という気持ちはあっただろう。そのうっぷんがビデオに向いたのでしょう」


 (父親)[『東京新聞』]


 174~176は、当時見合いをした相手の証言だが、手のことは一言も語っていない。そもそも、誰も気づかないレベルの障害を、宮崎家がわざわざ見合い相手に伝えるはずもない。


 先方が断ったのは単に印象が悪かったから。この話では、それを自分で手の障害にこじつけていたように聞こえる。


 宮崎は見合いをさせられるのを嫌がり、家庭内で結婚話が出ると、いつも逃げるようにその場から立ち去ったとも父親は語っている。息子が「手のせいで結婚できない」コンプレックスを持っていたと、父親は独自解釈していたのではないか。


144▼

 「彼の部屋の写真を見たとき、おかしいな、と思ったことがある。ビデオデッキを4台持っていれば、初心者でもセレクターを持ってますよ。どのデッキで何を録画しているのかを確認するには必需品ですから。だけど、彼の部屋にはなかったですよ」


 (某ビデオマニア)[『現代』10号【幼女惨殺】吉岡忍]


145▼

 「宮崎の部屋を最後に覗いたのは去年の正月でした。ビデオテープに囲まれた部屋の真ん中にコタツがあって、その上に山盛りのミカンがあったのを思い出します」


 (A氏)[『文春』1989.9.7]


146▼

 「“ツトム、ツトム”と言って、お祖父さんは勤をずいぶん可愛がっていました。長男の長男だから、一番可愛かったんでしょう。父親に隠れてお祖父さんが小遣いをやっていたと思います。


 父親はS吉さんが死んだ後、晴海の見本市(7月)で一台700万もする新しい印刷機械を買ったということです。事業を拡張するつもりだったんでしょう。


 勤は無口で、高校の頃からもう親父、お袋と口をきいたことがないそうだけど、父親は最近、秋川市に支店を作ってやるから、結婚して独立しろ、と叱っていたらしい。


 それに、上の妹の結婚も昨年はじめに決まっていて、勤もいつまでもブラブラしていられなかったと思いますよ」


( 秋川新聞社の関係者)[『文藝春秋』10号【追跡!宮崎勤の「暗い森」】安倍隆典]


 祖父は去年(1988年)の5月、脳溢血で死亡する。生前、祖父は骨董品収集が趣味で、琵琶や詩吟をたしなみ、飼い犬の「ペス」を大変可愛がっていた。祖父は老人性痴呆症にかかり、数年前から町内の特別擁護老人ホームに入っている。


147▼

 「祖父さんは五日市町では指折りの成功者だったね。町会議員を勤めたこともある。詩吟をやったり、いろいろ趣味の広い人だったよ。


 女性のほうも発展家で、ばあさんとよくモメていた。町じゅう、知らぬものはない。そのせいか息子は酒も飲まない仕事一本やりの堅物。そんなこともあってか勤は親父より、祖父さんになついてたなあ」


 (五日市町の古老人)[『文春』1989.9.7]


148▼

 「去年5月におじいちゃんが90歳で亡くなって、勤君を可愛がっていたおばあちゃんも、半身不随で町内の老人ホームにいます。おじいちゃんの葬式の時は、泣きじゃくる両親や妹たちと違って、涙ひとつ見せなかった。まあ、男の子だから、しっかりしてきたと思って見てきたのですが。

なにしろ、道で会っても挨拶もしないし、一度、しっかりせんといかんぞ、と注意したことがあって。その時も、うつむいてうなずくだけで……」


 (自治会の役員60歳。)[『週刊読売』1989.8.27]


 親戚の一人は、祖父の葬儀のときの宮崎勤の様子を次のように語る。


149▼

 「勤ちゃんはうろうろしてました。ショックをね、相当受けたようでした。あのおじいちゃんは孫を可愛がっていたからね。私、思うんだけど、おじいちゃんが死んで、勤ちゃんの見張り役がいなくなったから、それであんなことをするようになったんではないかって」


 (親戚のひとり)[『現代』10号【幼女惨殺】吉岡忍]


 宮崎は幼女殺害やビデオ撮影の動機を「おじいさんを生き返らせるため」等と、メンヘルな理由を語っている。


 雑誌「創」編集長の篠田氏などは「祖父の死が事件のきっかけとなったのではないか」と解釈しているが、実際は宮崎は祖父をクソジジイと呼んで暴行したり、祖父は祖父で「勤のそばにいたら殺されてしまう」と語っていたという声もある。


 これも宮崎の内面のことで真実は伺い知れないが、どうも筆者個人としては、祖父の死も都合よく動機付けに利用していたのではないか、という疑惑が否めない。


150▼

 「臨終の際、祖父が可愛がっていた犬の鳴き声を録音して遺体に聞かせていた。あの時は優しい子だなあと、私もホロリとしたんだが……」


 (父親)[『文春』1989.9.7]


151▼

 「勤が慕っていた祖父が(去年の)5月16日に亡くなった。祖父が犬好きだったため、臨終の際、勤はテープに録音した犬の鳴き声を遺体にしばらく聞かせていた。この時は『ちょっと変わっているな』と思った。


 それから祖父の葬式後、趣味だった骨董品を遺族で分配する相談をしていたところ、勤がなだれこんできて、集まった人々に『出て行け!』と叫んだことがあった。このあとも家族に危害こそ加えないが、窓ガラスをたたき割ったり、とどうも変な行動があった」


 (父親)[『東京新聞』]


 父親は150で、遺体に犬の鳴き声のテープを聞かせる勤を「優しい子だなあとホロリとした」と言い、151では「ちょっと変わっているな」と言う。本当に別々の場所でそう発言したなら、父親の方も少々変だ。


152▼

 「あの子はお母さん子だったのよ。いまだにお母さんは、あの子のことを“つとむちゃん”って呼んでたし、あの子はあの子で、お母さんのことを“チャーチャン”って呼んでたくらい」


 (家族ぐるみの付き合いがある近所の主婦)[『週刊女性』1989.9.5]


153▼

 「もう、26歳なので、ビデオでもなかろう。結婚したらどうだ、と勧めた」


 (父親)[『サンデー毎日』1989.9.3]


154▼

 「事件を起こす一週間前には『もうお前も、子供の見るアニメなんかやめて、とにかく仕事を覚えろ』と言ったんです。それで1年か2年以内に結婚させて、秋川市のほうに支店でも持たせようと思ってたんです。もう内緒で印刷機材やカラーコピーなども買う準備をしていたんだ」


 (父親)[『女性自身』1989.9.5]


 宮崎の車は、ダークブルーの日産ラングレー。後ろと横の窓に、当時既に使用が禁止されていたモスグリーンの目隠しシールが張ってある。


155▼

 「彼がドライブに誘いにくるとき、前もって電話をかけてきたことはありません。いつも突然やってくる。それなのに、こちらが誘いに行くと、絶対に断る。理由はいつも“今日は用がある”。


 ガソリン代は、彼が誘ってたのに、いつも割り勘でした。彼の金銭感覚はシビアで、金はたとえ10万円でも金額に関わらず貸してくれるんですが、必ず利子を取るんです。それも、期間によって利子が違ってくる」


 (A氏)[『文藝春秋』10号【追跡!宮崎勤の「暗い森」】安倍隆典]


156▼

 「ささいなことですが、ドライブに行く時でもボクの車を使おうとするし、誘っておきながら『ガソリン代を出してくれよ。』と言われたことがありました。それでいて、いっしょに車に乗っても、ビデオがどうしたこうしたという話以外、何の話題もありませんでした」


 (A氏)[『テーミス』1989.8.30]


157▼

 「どこかに行って食事をして帰ることが多かったんだけど、車の中でほとんど話をしないんですよ。音楽を流すわけでもなく、黙々と運転しているんです」


 (友人)[『フラッシュ』]


158▼

 「行き先を聞いても言わない。結局、新宿のカメラ店まで行って、宮崎がビデオテープ5、60本を買っただけ」


 (友人)[『朝日ジャーナル』1989.8.25]


159▼

 「運転が乱暴なんですよ。急にブレーキをかけたり、坂道をすごいスピードで降りたりするんだから。怖くて、ねえ。それに、運転してる間、なんにもしゃべらないから、気詰まりになっちゃう。不気味っていうか。勤ちゃんは、ほんとに何に関心があったのかしらって、今も思うんですよ」


 (3回、宮崎の車に同乗したことのある、下請けを依頼されていたオペレーターの女性)[『現代』10号【幼女惨殺】吉岡忍



 ☆  ☆  ☆  ☆  ☆


 【就職~家業手伝い・C】


160▼

 「『所沢の西武に買い物に行くから付き合ってくれ』って。道に迷いながら所沢に着いたが、自分を車内で待たせ、ビデオの生テープ10本と海外旅行のパンフレットをたくさん持って帰ってきた」


 (中学時代の同級生)[『朝日ジャーナル』1989.8.25]


161▼

 「昨年夏、パズル雑誌『パズラー』に自分が投稿したパズルが掲載されたことを自慢げに教えてくれた」


 (同級生)[『朝日ジャーナル』1989.8.25]


162▼

 「宮崎はいつも自分の車で迎えに来ましたが、家の外で息子の名前を呼ぶと、息子が出て行くまで、ただ表でじっと待っている。息子が行きたくないのでぐずっていると、宮崎は家の近所を車でビュンビュン走り回った後、また息子を呼びに来る。


 宮崎は家には絶対に上がりません。いつも車の中で待っている。顔を合わせても挨拶ひとつするでもなく、とにかく何もしゃべらない。笑った顔なんて見たことがありません。息子と同級生とはとても信じられないぐらい老けた感じで、30歳以上には見えました」


 (中学時代の同級生の母親)[『文藝春秋』10号【追跡!宮崎勤の「暗い森」】安倍隆典]


ドライブ中、友人と話の反りが合わなくなると、「降りてくれよ。」と車から追い出すこともあった。


163▼

 「彼とは3回ぐらい一緒にドライブに行ったけど、車中でも口数少なく、ラジオやカセットを聴くだけ。ドライブしていてもつまらない。断ってもまたすぐ誘いに来る、ちょっと身勝手なところがあったなあ」


 (五日市町で同級のドライブ仲間)[『週刊女性』1989.9.5]


 宮崎と一緒にドライブした友人の一人は、「プレステージ」でタレントの稲川淳二らの話す心霊現象特集の録音をずっとかけられ続け、閉口したと話す。


164▼

 「気持ち悪いから消してくれ、と言ったんですが、全く聞かずに流しっぱなし。滅入りましたよ」


 (友人)[『週刊朝日』1989.8.25]


165▼

 「気持ちが悪かったけど、我慢して聞いていたんだ。聞くのは嫌だったね、あんなの。宮崎はハンドルを握って、にやにや笑いながら、ウンウンって、ずうっとうなずいていた。うれしそうな顔だったよ。おれは帰ってからニ、三日、風邪をひいたみたいに背中がぞくぞくして、体が変だったよ」


 (同じ町の青年)[『現代』10号【幼女惨殺】吉岡忍]


 こんな猟奇事件で名前を出された稲川氏も迷惑だっただろうが、稲川氏は宮崎事件をネタに話をでっちあげた、メチャクチャな内容の“創作怪談”を披露しているので、元は取ったというところか。


166▼

 「普通の青年が、車を買ってもらうと喜んで、いつも磨いたりするような、そういうのはなかったね。雨なんか降ってくると、埃が筋になって汚くなる。そうすると奥さん(母親)が、『勤、車磨いてやれよ』なんて言って、それでやっと磨くようなね、その程度だったかね」


 (M工場長)[『現代』10号【幼女惨殺】吉岡忍]


167▼

 「宮崎が自分のラングレーを買ったのは2年半前。僕を含めて、友人3人を乗せて富士山にドライブしたんだけど、あのとき走行距離100キロだったのが横浜ドライブのときには4万1千キロ。ずいぶん走ったんだなと思いました」


 (7月9日、横浜にドライブした友人)[『週刊現代』1989.9.15]


168▼

 「去年の事です。勤が僕に7万円でビデオデッキを譲ったんだけど、それを引き取りに来た時には3万円しか持ってこない。“約束が違うじゃないか”と言うと“金は持ってくると言ったが、7万円持ってくるとは言ってない”って、声を荒げるんです。身勝手なヤツだと腹が立ちましたよ。


 それに、うちに来る時は休日の午前中、突然、ヌッと現われるのに、僕があいつの部屋に行くと“今日はダメだ”と戸を開けないことがある。あれも腹が立ちました」


 (友人)[『明星』]


169▼

 「3年以上前ですけどね。近所の家の風呂場を覗いているところを、入浴中の女性が気づいて、警察に届け出ました。ところが、当時の警察の上の方が、『地元の名士の息子だから』と見逃してやったんです。その前からのぞきがいるというので、近所で問題になり、警戒しているところだったんですよ」


 (宮崎の父親の知人)[『週刊テーミス』1989.9.15]


170▼

 「とにかく変わった子でね。むっつりスケベというかね。五日市小学校にも行って、『100円あげるから、ジャングルジムにのぼったところを写真に撮らせて』と言って、女の子を誘っていたというからね」


 (地元の新聞販売店の店員)[『週刊テーミス』1989.9.15]


171▼

 「宮崎は綾子ちゃんを殺害した当日、テニスコートにパンチラを盗み撮りしに出かけていることが、新聞にも出ていましたね。うちの署の強制わいせつ事件(宮崎が逮捕された事件)のときも、実は宮崎はその当日、武蔵野方面のテニスコートで、パンチラ写真を撮っていたんです。パンチラを撮ってから、幼女を誘拐して殺す、これが宮崎の行動パターンじゃなかろうか。そう考えると、うちの署の場合も、間一髪というところだったわけだ」


 (八王子署関係者)[『週刊テーミス』1989.9.15]


172▼

 「八王子で捕まる一週間ほど前に、『お前も結婚しろ。支店を作ってやるから独立ししたらどうだ』と話したんです。『ウーン』とうなずいていただけでしたが、その後だけにショックです。


 女に興味がないんじゃないかと思うぐらい、女っ気はない。ガールフレンドなんていないし、女の子と話すこともなかったんじゃないか。男だから欲望がないはずはないんだが、夜中まで部屋にこもってビデオばかりいじっていた」


 (父親)[『週刊朝日』1989.8.25]


 宮崎は見合いをしている。


173▼

 「もう、四回見合いをしています。いずれも、Kさん(父親)が勤君に一人立ちしてもらいたい一心で勧めたものです」


 (父親の友人)[『週刊ポスト』1989.9.15]


 最初の見合いは昭和61年4月頃。最後の見合いはその前の年の11月。



174▼

 「見合い相手は宮崎の父親と同業で、三多摩地区で印刷会社を経営する人物の24歳になる娘さんだったそうです。都心の短大を卒業し、中央線沿線にある会社のOLと聞いています。見合いについては、宮崎は嫌がったのですが、父親が“同業者同士の義理もあるから”と説得して八王子市内で見合いさせたんです。ところが先方から断ってきたそうです」


 (宮崎の中学校時代の同級生)[『週刊ポスト』1989.9.15]


175▼

 「最初“どうも”と挨拶しただけで勤君は下を向き、ほとんど話をしなかったそうです。相手のお嬢さんは目の大きいぽっちゃりした人でしたが、勤君の態度を察したのか、相手のお嬢さんもあまり話をしなかったそうです」


 (宮崎の親戚)[『週刊ポスト』1989.9.15]


176▼

 「お見合いしたのは、本当に結婚するつもりではなく、父親の仕事の関係もありましたので、どうってことない、と軽い気持ちでした。でも、あの人は席につくなり“どうも”と、挨拶したっきり、ほとんど口を開かないし、帰る時も頭を下げるだけで何も言わない。


 本当にイヤな感じだったので、すぐに断ったんです。事件のことを聞いたときはゾッとしました」


 (見合い相手のOL)[『週刊ポスト』1989.9.15]


177▼

 「去年の夏、晴海埠頭で開かれた『88コミケット』(88年コミックマーケット)会場で、宮崎と知り合ったロリコンマニアの知人がいるんですが、その後ときどき情報交換したり、アイドルビデオのバーターをしたりしてたらしいんです。


 ところが一ヶ月ほどして、話題がスプラッタービデオになったとき、宮崎はかなりエキサイトして、『ギニーピッグ』は話にならない、自分が監督だったら、あの切断シーンはこうやるんだ、とまるで少女を料理でもするみたいに、一人でしゃべりまくったらしいんです。

話を聞いているうちに、その内容がリアルすぎて、その知人もさすがに気持ちが悪くなったと言ってました」


 (少女を盗み撮りするのが趣味という、24歳のフリーター)[『週刊テーミス』1989.9.20]


 この証言は信憑性に疑問符がつく。「切断シーン」とあるので、『ギニーピッグ2・血肉の華』のこととは思うが。


 「宮崎は『血肉の華』を犯行の参考にした」と、当時盛んに報道された。ところがこの後の10月、警察は「宮崎の部屋に『血肉の華』は無かった」ことを発表するのだ。


 記事の日付は『血肉の華』参考説が一人歩きしていた時期であり、この証言はフカシと言うか、作り話の可能性が高い(それにしても紹介に『少女を盗み撮りするのが趣味』と書かれるのって‥‥)。


 近所の人間の目撃によれば、宮崎勤は自宅近くで猫を轢き殺してしまうが、平然と車を降りて死骸をドブに捨てたという。


178▼

 「両親はもちろん、ふたりの妹ともほとんど口をきかなくなっていた」


 (父親の友人)[『週刊ポスト』1989.9.15]


179▼

 「私も結婚のそぶりも見せないのはおかしいと思い、父親のKさんに、“勤君は手ではなく、下半身に障害があるのでは”と。聞いたことがあります。するとKさんは複雑な表情をしながらも“障害はない”というように、手を振っていたのですが」


 (父親の友人)[『週刊ポスト』1989.9.15]


 6月に、宮崎は中学校時代の同級生と埼玉県の秩父方面にドライブをしている。宮崎は、助手席に座って友人に道の指示をした。「この辺で、絵梨香ちゃんが殺されたんだね。」と友人が言うと、宮崎は「酷いことをするね」と答えたという。


180▼

 「この一年間、毎週決まって一日だけ欠勤していた。何をしているのかなぁ、と思っていましたが……」


 (秋川新聞工場長、M氏)[『サンデー毎日』1989.9.3]


 6月6日、綾子ちゃん殺害当日とされるこの日、宮崎は近所の駄菓子屋に行っていた。一冊分スタンプがたまると二百円の現金払い戻しがある、スタンプ帳を出して店の人にこう言う。「この間買ったお菓子の分のスタンプを押してください」


181▼

 「子供相手のスタンプを26歳の大人が請求してくるのでちょっと変だなと思いました」


 (駄菓子屋の人)[『週刊現代』1989.9.9]


 6月11日、宮沢湖霊園駐車場で、綾子ちゃんの遺体が発見される。


 その10日後、宮崎は町内に住む主婦Aを訪ねる。『秋川新聞』原稿のワープロ打ちを依頼するためだ。主婦Aは88年の秋、生きたまま羽をむしったヒヨドリを手に持ち、うす笑いを浮かべていた宮崎を目撃したことがあった。


182▼

 「昼過ぎだったわ。勤君はいつも玄関先で“これ”って言って原稿を置いていくだけ。時には何も言わないこともある。ただ、この日は持って帰ってもらう原稿もあったので、少し待ってもらったんです」


 (主婦A)[『女性自身』1989.9.5]


 宮崎はその日初めて上がって、お茶を飲んだ。そして帰り際、「ごちそうさま、でした」と言った。主婦Aは一緒に仕事をしている近所の主婦と語る。


183▼

 「ネエ、勤君って明るくなったわね。家に上がったのも初めてなら、挨拶もするようになった。よかったね。大人になったのね」


 (主婦A)[『女性自身』1989.9.5]


 7月23日(日曜日)夕方、宮崎は強制ワイセツ事件を起こし、逮捕される。


184▼

 「あの強制ワイセツ事件も、小学生姉妹に“おじさんはカメラマンだ。写真を撮らしてくれないか”と誘い、妹のほうを無理やりハダカにして写真を撮ったんだ。それで姉が父親に連絡して警察に突き出されたんです」


 (某社会部記者)[『アサヒ芸能』1989.9.15]


 テレビで事件が報道されたとき、雑誌のパズル欄を通じて宮崎をよく知っているA編集者は、納得するものがあったという。



185▼

 「宮崎の偏執狂的なイメージ、すぐのめりこむ性質が、あのくぐもった声と共に僕の頭にこびりついていたんです」


 (情報誌パズル担当のA編集者)[『デイズジャパン』10号]


 自分の娘を裸にして撮影していた宮崎を、数発殴って捕まえた会社員(35)は、警察が来るまでの三十分、「うじうじするから女にもてないんだ。だから、小さい子にいたずらするんだろう。外で力仕事でもして汗かいて、ちょっとは酒飲んで騒いでいればいいんだ。……綾子ちゃんの事件が解決してもいないのに、こんなことして……」と、説教をする。宮崎は黙ってうなだれていた。


 やがて、その宮崎が幼女殺人事件の犯人だ、と分かった後のこの会社員の談話。


186▼

 「おとなしいあの男が、なぜ、と信じられなかった。私が言うのも変だが、かわいそうに思えてね」


 (会社員)[『週刊朝日』1989.8.25]


 89年8月10日、宮崎の自供通り、奥多摩町梅沢の杉林から綾子ちゃんの頭骨が見つかる。宮崎の自宅で59歳になる父親は大勢の取材陣に囲まれていた。


187▼

 「私だって、テレビのニュースを見て知ったんです。息子がそんなことをするなんて、とても信じられない。はっきりするまで待ってください。ただし、どんな息子だったかはお話しします」


 (宮崎勤の父親)[『週刊朝日』1989.8.25]


 ☆  ☆  ☆  ☆  ☆


 ・・・いかがだったでしょうか?


 父親は、その後、自ら命を絶たれ、妹さんは破談、一家はバラバラになりました。


 宮崎勤ひとりのせいで、4人もの尊い未来のある女の子が犠牲になり、家族も汚名を着せられることとなりました。


 でも、どこかでひっそりと生きておられる家族の方を「殺人者の家族」よばわりして、いつまでもいじめるのは、いかがなものかと思われますね。


 現在、宮崎家のあった敷地は更地になり、「グーグル・アース」でも、その場所・・・旧五日市町(現・あきる野市)の元・宮崎家の前の道路には、たどり着けないように設定されていますね。


 皆さんもいろいろ感じられたことと思いますが・・・私はですね、「津山30人殺し」の都井睦雄のときのように、やはり宮崎を殺人者にする前にストップをかけられたチャンスが、いくつもあったように思えてならないんです。


 とはいえ、犠牲になられた4人の女の子は、何をどうしても戻ってはきません。


 もし、生きておられたら、一番年齢の若かった「M理ちゃん」も、今年で38歳になっていました。


 結婚されて、かわいいお子さんもできていたかもしれません。


 そんな幸福な未来を容赦なく奪った宮崎を、改めて非難するともに、犠牲になられた4人のかわいい彼女たち・・・そして、亡くなられる直前まで被害者の家族にできる限りお金を送り、息子の責任を背負って旅立ったお父様の御霊みたまのために、心から、そのご冥福をお祈りし、この長い長いエッセイを閉じたいと思います。


 今宵も、ここまでお付き合いくださいまして、ありがとうございました。 m(_ _)m

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