ミルアの夜
バノの街に来るのは何年ぶりだろう。
ミルアはかつて父と泊まった宿屋の部屋の一室にいた。宿の店主の顔は覚えていた。少し老けていたが、たいして変わったところはなかった。
宿はだいぶ広く、そして昔のままだった。普通のコンクリート立てで、いくつか部屋があって、廊下があって。考えてみればこの宿も、父の親友である医者に紹介されたような気がする。
しかし驚いたのが、店主に話し掛けたら店主の方が驚いて「おおっ、ミルアちゃんだね、久しぶりだね、大きくなったね」と言ってくれたことだった。自分のことをまだ覚えていてくれたんだ。と、ちょっぴり嬉しかった。
窓から外を見る。夜になっていた。そこには星さえもなく、黒く雲が立ち込めて、よどんだ空があった。
今日のところは、ゆっくり休んだ方がいい。明日大変だから、疲れちゃいけないだろう。
まず疲れをとるため宿の風呂に入った。今日あったこもごもとした出来事を、風呂桶のお湯でざぶんと流す。
一日の終わりは風呂に限る。シャワーよりも風呂の方が、体があったまるし、疲れも取れる。湯船につかりながら、幸せな気持ちにも浸ることができるし。
風呂から上がった後、体が冷えるといけないので、すぐさまミルアはベッドに体を滑らせた。
しばらく、布団の中で寝返りを打っていたが、一向に眠れない。
お腹がクーと鳴った。
気付けば、明日のことで頭がいっぱいで、何も食べていなかったのだ。お腹が減って眠れなかったわけだ。
ベッドからむっくり起き出して、宿のおじさんに食べ物をもらいにいく。ミルアは風邪をひかないように上着を羽織って、部屋から出てふらふらと歩き始めた。
はて、この宿に食堂はあっただろうか。
記憶の糸をたぐりながら、右へ左へ、危なっかしくさえ思える足取りで食堂を目指す。
確か、こっちだったと思う。
角を曲がり、ぴたりと立ち止まる。
気付けば、もうそこは食堂だった。いい匂いが立ち込めていて、その匂いにつられ、またお腹がクーと鳴った。
食堂はガランとしていて、人っ子一人いない。
「すいませーん。何かありますか?」
カウンターごしにミルアは声をかける。食堂では宿の奥さん、もとい食堂のおばちゃんが、せっせと水洗いをしていた。
「あら、あなたはどこかで見たことがあるような」
「えっと、ミルア・ピン・バレクションです」
「ああ、あの時の。ミルアちゃん。大きくなったわねぇ」
感慨深げにおばちゃんはうなずいた。おじさんと同じことを言っている。そこはさすがに夫婦といったところか。
「すぐ作ってあげるわよ。なにを食べたい?
といっても、うちには機械がつくる固形食糧やスープしかないんだけどね」
「…それでいいです」
おばちゃんはさっさと洗い物を終わらせ、軽食を作ってテーブルに置いた。そして、テーブルの向かいに腰を下ろした。
「いただきます」
「どうぞ」
パクパク、ムシャムシャ。
よほどお腹が減っていたのだろう。手をつけ始めたら、止まらなかった。
あっという間にペロリンコで、ごちそうさまだ。
「おいしかったです」
「あら、そう言ってくれると、嬉しいわね」
おばさんはミルアのことを、まるで本当の娘を見るような目で、にこにこしながら眺めていた。
「何年ぶりかしらねぇ。あの時以来よね」
しみじみ言われて、ミルアもなんだか懐かしい気分になった。
「ところで、ミルアちゃん。この街にまた用事ができたのかしら?」
「ええ、ちょっと」
「ここんとこ、この街は危ないわ。野良機械が出るの。私はまだ見たことがないから分からないけれどねぇ。すごく大きいらしいの。
でも、もう大丈夫なのよ。それが、機械抹消のほうから、エリートさんをだしてくれるって。これでもう安心ね」
おばさんは心底嬉しそうに言った。おばさんはきっと街を愛しているのだろう。機械抹消は、その愛する街を破壊するものをやっつけてしまうのだから、ヒーローに近いかもしれない。
「そうなんですか」
「そう。機械抹消が来てくれたら、あっという間に解決よ」
「機械抹消……ですか」
ミルアはいろいろな面で驚くしかなかった。首をかしげて、参ったな。と心の中でつぶやく。
これではミルアが、のこのこ出て行くまでもないではないか。
機械抹消に任せれば、確実に機械を壊してくれる。
しかし、ミルアは機械抹消が来る前に、機械を壊してしまいたいと思った。この手で倒してこそ、意味があるのだ。
経験を積んで、レベルアップを目指したい。そう、今日汽車で出会った、リドのように。あれだけ強ければ、恐ろしいものもないだろう。
自分と機械の対戦をシミュレーションしながら、ミルアは食堂のおばちゃんの世間話をぼんやりと聞いていた。
おばちゃんの話が一区切りついて、ミルアはイスから立ち上がる。
「それじゃ、この辺で。おやすみなさい」
「はい。おやすみ」
ミルアは部屋に戻り、電気を消した。
ベッドに潜り込んでからも、ミルアはいろいろなことを思い出した。
決心をして家を出てきたことは、かなり気にかかっていた。父に気付かれていないだろうか。もし気付かれていたら、あの心配性の父を困らせてしまうことは間違いない。けれど、これはミルアにはどうしようもなく。気付かれていませんようにと、ただただ祈るしかない。
そして、汽車での出来事。
拳銃を構えた時の、リドの表情。目に強い光をたたえていた。ミルアはそれを、頼もしい。と思った。
母が亡くなってから、人に依存することをやめたミルア。その彼女がリドを、この人なら頼れるかも、という気にさせたのだ。
ベッドの中で何度も寝返りを打ちつつ、もう寝なきゃと思うのに、そのたびリドがフラッシュバックのように、意識に飛び込んできた。
ミルアは腹も満たされているのに、結局、眠れぬ夜を過ごした。