彼女を奪うに足る技量
ガチのお嬢様ってヤツは確かに存在する。
日本に、地球規模で見ればずいぶん小さなこの島国に、お嬢様と呼べるヤツが何人現存するのか分からないけれど、俺の目の前に、鉄板持参で現れたコイツ。
東雲はその貴重なサンプルの1人である。
富めるものと貧しいもの、それは言い過ぎたけれど、お嬢様と庶民の間には、確実な壁が存在する。同じ世界に生きているのに、乗り越えられない壁がある。
それを打ち壊すのが「料理」だと、密かに俺は信じている。
そうでなければ、この生粋のお嬢様がこの家を訪れることはないのだから。
鉄製の丸い板と、木の枠。
こんなものどこで売っているというんだ。
なんの前触れもなくやって来て、右手に鉄板、左手にスーパーの袋を下げた、東雲の姿を見て瞠目した。
「……いらっしゃい」
「来てやったわ」
ステーキなんか食い慣れているのだから、こんなものを使って、我ら庶民の手の届く範囲の100グラム500円(これでも十分高い)の肉など焼いたところで、彼女は喜ばないのだろう。
波打つ栗色の髪は腰まで届く。前髪の隙間から、けぶった薄茶色の瞳が気丈にこちらを覗いている。いや、睨んでいる。
「ペッパーランチが食べたい」
「はぁ? それって店の名前だけど」
「知ってるわ。ビーフ・ペッパー・ライス、でしょ?」
「そうだっけ。……毎度のことながら言うけど、店で食べれば?」
「なら今回も言うけど、親が許さないのよ!」
「大変だねぇ、お嬢様」
むすっとして彼女は、ズカズカと部屋の中へと上がりこんだ。
と、思いきやくるりと踵を返して、きちんと手入れのされた茶色いローファーを整えた。
きちんと、丁寧に。こういう所作が、我ら庶民とは違うのだ。どこか奥ゆかしさを感じる東雲の背中を眺めて感心する。
ずずいとビニール袋を押し付けると、東雲は慣れた様子で、10畳もないリビングに消えていった。なんの工夫もない3DKだから、勝手を覚えてしまったのだと思う。
焼けた畳の上にペッタリと座って、東雲は窓を見ていた。
途方も無い金持ちの目に、この部屋はどう映るのか。
座敷牢? 良くて茶室? それはないか。
なにがそんなに面白いのか、彼女は熱心に窓の外を眺め続ける。どうせこの安アパートの3階からは、並ぶ民家の屋根くらいしか見えないのに。
夕日に沈む町の屋根が、明かりを受けて鈍く光る。
それをみて、ああ、早くしないと夕飯時だと慌ててキッチンへと戻ろうとして、ふと足を止めた。
「時間かかるぞ。米、炊けてない」
「いい、どうぞごゆっくり」
「はいはい」
彼女はいつも、こうして唐突に現れては、店に入らないと食べられない庶民の食べ物(いつぞやは二郎、その前は立ち食い蕎麦)を所望しあそばれる。
ちゃんと材料は持参してくれるのがありがたい。こういう高飛車な物言いに反して、そういうところは、気の利くいいヤツだった。
高級スーパーのロゴが入った袋の中身を確認すると、このアパートの近くのスーパーで手に入るものの2倍はしていた。これでも、彼女は「庶民感覚」をもって選んでいるというのだから驚きだ。
東雲が、俺が作る料理を通して、一般市民の生活を疑似体験するというのなら、こちらだって彼女の生活の一片でも味わってみたいものだ。
そういえば、彼女の所望するペッパーランチを食べたのはいつだったか。貧乏家庭のアルバイト学生にとって、そんなもの、なかなか口にできるものではないのだ。
記憶の中をひっくり返していると、東雲の声がする。
ドン引き。そんな感じの、嫌な声。その後に、彼女は宿題のノートを持ってキッチンへと現れた。
「うわぁ。……あのね、ここのスペル間違ってるわよ」
「そういうの、関係ないの。どうせ高校出たら働くし」
「うそ。初耳だわ」
「言うの初めてだし」
「……なにするつもり、なの?」
おそるおそる、といった調子で東雲が訊く。
どうしてお前がそんなに怯えた目をしているんだ。
人の将来なのに、そこまで立ち入るような関係だっけ?
少し腹が立って、刺々しい口調になった。
教師に大学へ行け、と言われた一昨日の二者面談。まさか彼女も同じことを言うのではないか、と思ったからだ。
「調理師、悪い?」
「……!」
東雲は丸い瞳をさらに見開いた。
窓から差し込む夕焼けが、そっくりそのまま見えそうなほど、大きな目。
「それは……。そう、わかったわ」
なにが分かったと言うのだろう。
彼女はこっくりと頷いて、ふたたび部屋の隅へと戻って行った。
タレの味を見ながら、そういえば、と部屋を振り返る。
キッチンとつながるリビングに彼女の姿はない。
あまりに静かで不安になった。
もしかして、さっきの言い方がキツすぎたのかとか。
よく覗き込めば、東雲は部屋の隅で小さく体育すわりをしていた。
小さな体を折り曲げて、狭いスペースに収まっている。ブツブツ。何かを唱えている。
「なに? お経?」
「別に! いいの、こっちの話」
「はぁ? そういえば、米炊けたから、もうすぐ」
「うん、もうすぐね。分かった」
と、コクリと頷いて、膝の間に顔を埋めた。
熱々の鉄板に米を盛る。お椀型に装った中心に、バターと、すりおろしニンニクを混ぜたものを置いて、周りに肉を添えて。
って、現実のコレはこんなに霜降りではない。もっと赤い、ただ赤い肉だ。
机に置くと、東雲はその丸い瞳を輝かせた。
手を合わせて、
「いただきます」
と消え入りそうな声で言った。
夕焼けが彼女の真っ白な頰を染める。
ぱちぱちと油が爆ぜる音が部屋に響いている。
東雲は、スプーンを持ったまま、ただ静かに鉄板を眺めて動かない。
まさか、感動しているのか。コレに。
こういうことは一度や二度じゃなかったから、金持ちの思考って意味不明とその度に呆れたのだ。
「なんで食べないの」
「……あのさ、いいよ。調理師。賛成する。いいと思う、向いてるわ。あんた料理上手だもん」
「はぁ? なにを唐突に。つーか、なんでお前の許可がいるの」
「だって、将来の問題だから」
「人のだろ。余計なお世話」
小さな机の両端で、向き合うように座った俺たち。
手を伸ばせば触れそうな距離で、彼女はじっとこちらを見上げた。
「私のよ! ……わ・た・し・の!」
「もっと分かりやすく話してもらえないか? こっちは、お前と違って進学校に通っているわけじゃな……」
「はぐらかすなばか!」
たまに不思議に思うことがある。
彼女は生粋のお嬢様であるはずなのに、その物言いは、たまに俺のようだと。
つまり「ばか!」などと軽々しく言うのは、東雲らしくない。そうだろ?
「私が告白してるんだから、ちゃんと聞きなさい! あんたが私の専属シェフじゃなくなるのは寂しい、けど! それが世の中のためになるって私が判断したの! だったら、ちゃんとやったらいいわ!」
宝石のような瞳は、濡れたようにつやつやと輝く。
よく見てみれば、東雲は本当に泣きそうになっていただけなのだった。
——なんで泣く。ていうか告白? コレが?
と、唖然としていると、彼女は怒りに燃える瞳でこちらを睨み上げた。
「これまで散々、庶民の生活に馴染むように努力してきたの! あんたにはそのたびに苦労をかけたわ。けどね、こうして庶民の生活を経験しておけば、違和感なく暮らしていけると思うの! だから安心しなさい。ちゃんとお嫁さん、やってあげるから」
それでペッパーランチ、二郎、立ち食い蕎麦?
ああ、マックのハンバーガーを作れと言われたこともあった。
金持ちの遊びに付き合わされていたのは、いや、一緒に遊んでいたのだが。
これまでのことはそういうわけだったのか、と納得した。
そして、どうして自分が調理師になりたいのか、言おうと思った。
「東雲と同じ世界を見るには、作り手に回るしかないかな、と思ったんだよ」
彼女は大きな目を瞬いている。
そして、理解したのか、してないのか、判断がつかないが、さっと視線を鉄板に戻した。
「……って早く食べないと! 冷めちゃうわ」
と、東雲はスプーンを握り直す。その顔が赤いのは、この夕日のせいなどではない。
食べ終わったら、ゆっくり説明しよう。どうして調理師になるのか。
——彼女の父親が納得するような料理が作れたら。
俺の育ちは認めなくとも、腕を認めてくれれば、もしかしたら東雲と一緒に生きる未来があるかもしれない、などど淡い夢物語を描いていたことを。
その前に、彼女の気持ちを確認しなかったのは早計だけれど、まぁ大体分かっていた。
昔から、結婚したいなら胃袋を掴めと、そう言われている。