プロローグ?
春、それは別れ。
演劇部に所属する新三年生、空森明日香は万事休していた。
その表情はまるで氷山のクレバスに掛けられたハシゴを能天気に渡っていたら足を踏み外して股間を強打した後に勢い余って転落し、命は助かったものの絶望の中で寒さと飢えに耐えているようである。
なぜか。
それは演劇部にいた上級生たちが卒業してしまったからである。
卒業式には似つかわしくない土砂降りの雨を背景にしても、それを吹き飛ばすほどに先輩たちは輝かしく、爽やかで、優しく、愛おしく、華々しく、その神々しい姿から告げられた「明日香ちゃん、演劇部をよろしくね」という、今となってはその不気味な清々しさとおどろおどろしい怨念の言葉が、先日から毎日24時間ずっとバイノーラル音声のように明日香の耳から離れず、毎晩その声を振り払うように「あばばば……あばばば……」と呟く完全にヤバい人になっていた。
なぜ上級生の卒業で万事休すことになってしまったのか。
それは上級生が卒業してしまった今、演劇部員は明日香一人だけになってしまったからである。
◇
春、それは出会い。
演劇部に所属する新三年生、明日香は期待に心躍らせていた。演劇部存亡の危機という状況を楽観していた。
なぜか。
それは、言うまでもないが新一年生が入学してくるからである。我が校では人気がない演劇部といえど、少なからずは興味を抱いてくれる生徒がいるだろう。そんな彼らを勧誘すればいいのである。
明日香にとっての優先事項、至上命題、絶対条件が演劇部の存続である。はっきり言ってしまえば、それさえ叶えば「それでいいのだぁ」である。
しかし、繰り返しになるがそれは明日香の根拠のない楽観でしかなかった。そもそもなぜ演劇部が明日香一人だけになってしまったのかを明日香自身が理解しなければならなかった。同級生部員はおらず、二年生部員もゼロ。なぜ。どうして。
◇
春、それは始まり。
二年前。高校新一年生だった明日香は人生の大きく新たな一歩への期待から、感情が喜怒哀楽爆発暴走寸前までに膨れ上がり、口から心臓が飛び出てしまうようなその鼓動、脈動に「うぐぅわあああっ!」と両手で胸を押さえながら、「くぅっ………」と歯を食いしばり、右に左にふらつきながらも、その力強い一歩一歩が、目前に迫る愛と夢と希望の新世界『高校』へと突き進ませていた。
世間ではこのような行動をとってしまう人々のことを中二病と呼ぶのだろうか。
「く…くはぁあああっ!こ…ここが………、我が母なる学び舎………、母校!」
目を煌めかせた明日香は何を思ったか、校門にある学校銘板に抱き着くと、まるで地球上で一番かわいい子猫をかわいがるかのごとく頬をすりすりさせれば、その他の生徒ならびに教員一同はもれなく「あ、ヤバい奴がやってきた」と認識されてしまうのは当然のことである。
しかし、そこから漏れる人物たちがここにはいた。そう、演劇部員たちである。その世間の一般常識から考えて奇怪な行動を連発する明日香は、自分の心を解き放ち、まるで憑依するかのごとく役を演じなければならない役者道にはピッタリな性格である(と演劇部員たちは思った)。
すぐさま校門前に集合した演劇部員たちは学校銘板にしがみつく明日香を無理矢理引き剥がすと、「うわぁわぁわぁわぁああっ!なんだお前ら!やめろぉっ!はなせぇっ!」という明日香の叫びを無視して演劇部部室まで胴上げ拉致運搬した。
◇
春、それは若気の至り。
演劇部員たちは明日香を脅迫恫喝拷問ムチとアメを繰り返し、ついに明日香を洗脳………否、演劇部員として迎え入れることとなった。しかしこの行動は演劇部にとって破滅の道となる。
明日香は登校初日からもうすでに要注意人物、あるいは危険人物、もしくは破壊神として生徒教員たちから恐れられており、すでに明日香が所属している演劇部への入部を希望する生徒は皆無であった。
演劇部はとてつもなく大きな爆弾(それはまるで人類史上最大の爆弾ツァーリボンバのよう)を抱えてしまったのである。
それならばと、演劇部はこの百年に一度、否、千年に一度、否、一万年に一度の逸材であろうこの明日香にすべてを賭けた。
………無理だった。アンコントロールだった。演劇部に入部させられただけでも奇跡だったのだ。いや、演劇部に入部させてしまったことで明日香はさらに自由自在自分勝手に世界を飛び回った。
演劇部はとてつもなく大きな爆弾を抱えてしまったのではなく、その大きな爆弾を爆発させてしまったのである。
◇
春、それは成長。
二年生となった明日香。二年生が明日香一人しか在籍していない以上は、演劇部としては明日香の存在をまだ知らない新一年生の勧誘に賭けるしかない。
明日香を部室に監禁し、新一年生の勧誘活動に努める三年生。いずれは明日香の存在を嫌というほど知ることになる新一年生。その前に、少しでも多くの演劇部員を確保したい。三年生は麗しい声と華麗な手捌きで勧誘チラシを配り続けた。
おかしい。新一年生の反応がおかしい。どの部活動に入ろうかと目を輝かせている彼らは、受け取った勧誘チラシが演劇部だと認識すると、一瞬固まったかと思ったら、次第に表情を曇らせ、立ち去ってしまうのである。勧誘チラシに何か問題があるというのか。それとも他に何か原因があるというのか。
その後、演劇部員たちは衝撃の事実を知る。
昨年の文化祭。あの演劇部史上最悪の伝説となってしまった、恐怖の明日香大王の地獄の公演が、今になって誰かがあろうことか某動画配信サイトにアップロードし、それが瞬く間に新一年生の間で拡散されていたのである。
スローモーションの中、ある部員は呆然とし、ある部員は頬に一筋の涙を落とし、ある部員は膝から崩れ落ち、ある部員はその伝説の動画を再生中のスマートフォンを手から滑り落とし、部室内では誰がどのようにやったのか、空中にばら撒かれた勧誘チラシが、まるで紙切れとなった株券や馬券のごとく、悲しく舞い落ちていった。
◇
春、それは儚い。
スローモーションの中、明日香は呆然とし、明日香は頬に一筋の涙を落とし、明日香は膝から崩れ落ち、明日香は今季ハマっているアニメ作品の動画を再生中のスマートフォンを手から滑り落とし、部室内では誰がどうのようにやったのか(明日香以外にやる人物がいないので明日香が机の上にでも立ってやったのだろうが)、空中にばら撒かれた明日香作成絵心ゼロの勧誘チラシが、まるで紙切れとなった株券や馬券のごとく、悲しく舞い落ちていった。
「………めんどくさい。一人で勧誘するの、超めんどくさい。超だるい。でも新入部員がいないと演劇部が廃部になっちゃう。泣きたい。超つらい。超めんどくさい。超だるい。………………………アニメ見ていたい」
ただの自堕落である。
目が死んだ明日香は思考停止した。
………ふと我に返ると、床に落としたスマホを拾い上げ、アニメ視聴を再開した。
「…」
「……」
「………」
バタン!!
突如勢いよく部室の扉が開かれたと同時に、右手にボウリングピンを握り、明日香とは異なる制服を着た少女が、通常の三倍速で闊歩すると明日香の背後で停止、死んだ目でスマホを眺める明日香の後頭部を、致命傷を与えない程度の適度な力で「ゴツン!!」と引っ叩いた。
「ふぎゃぁ!?」
ちなみにボウリングピンは長さ約38㎝、重さ約1.6㎏。ボウリング場で毎日あの重いボウリングボールの威力に耐え続ける硬さを備える木製の凶器である。もちろん引っ叩かれたら痛い。
「いつまであんたのくだらない寸劇に付き合わなきゃいけないのよっ!これのどこがボウリング小説のプロローグなのよっ!」
怒鳴り声を上げる少女。そこに彼女を追いかけてもう一人の少女が慌てて入室してきた。
「師匠~!ダメですよ!ボウリングピンで人の頭を叩いたら死んじゃいますよ~!」と両手をあたふたさせながら師匠と呼ぶ彼女をなだめる。
「師匠って言うな!」と追いかけてきた少女も「コツン」とボウリングピンで叩かれた。師匠とは呼ばれたくない模様。
そう、彼女こそがこの物語の主人公、………の師匠である葉月絢である。
「だから師匠って言うな!!」と手に持ったボウリングピンでビシっとこちらを指し威嚇する絢。
その背後で「痛いですよぉ師匠ぉ~」と涙目で頭を両手で押さえる彼女こそがこの物語の主人公、桜宮麗奈である。
「この作品はボ・ウ・リ・ン・グ!ボウリングの物語なのよ!演劇部とかどうっでもいいのよ!!」とボウリングピンを振りかざしながら明日香を説教する。
「…くぅぅっ、このっ!なーーーにすんだてめぇ!!」と復活した明日香は振り返り臨戦態勢をとると、フェンシングのようにボウリングピンを明日香に向けて突き刺そうとする絢の連打攻撃を、シュッシュッと上体を右へ左へと華麗にかわす。
「なんだかんだ言ったって(シュッシュッ)」
「私はこの物語の(シュッシュッ)」
「キーパーソンなんだから(シュッシュッ)」
「冒頭で(シュッシュッ)」
「これくらい紹介するのは(シュッシュッ)」
「当然でしょ!(シュッシュッ)」
「そんなに表に出たけりゃスピンオフで勝手にやってろ!」と攻撃の手を緩めない絢。
「だからぁ、やめてください師匠ぉ~」と二人の間で右往左往、あたふたとなだめようとする麗奈。
ゴツン!!
「ふぎゃぁ!?」
絢の突きが明日香の顔面をクリーンヒットし、二度目のダウンで勝負あり。
「ふぅ。………じゃ、ここから、本当のプロローグが始まりますんで、みなさんよろしくお願いします」
疲れた様子で案内役を務める絢。
「はわわっ!よ、よよ、よろしくお願いしますっ!」
麗奈もあたふたしながら何度もぺこぺこお辞儀をした。