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博士たち

作者: 南田 稲穂


ある夜、寝床に入った後のことだった。寝床の真下、ごつごつした岩の床のずっとずっと奥、博士たちと暮らす洞窟の深部にあたる所からカサコソ、トントンと小さな音が聞こえてきた。その音は針金虫が這うように耳から入ってきて脳や背筋に絡みつき、鳴るたびに気味悪い印象を深くしていった。起き上がってランタンの明かりをつけると不安が募った私は音の源を探すために洞窟の一室を出て、暗くて細い道を歩き始めた。


音の出処を調べるのは困難を極めた。音はかなり下から出ているらしく、長い距離を歩いてもなかなか近づけない。そして洞窟は複雑に入り組んでいて、入ったことのない道を聞こえてくる音だけを頼りに進まなければならなかった。いくつもの階段を降り、いくつもの似たような部屋を通っているうちに帰り道がわからなくなった。しかし音の不気味さの方がもっと気がかりで、歩みを止めることはできなかった。早足で歩き続けているうちに息が切れ、黄土色の岩の壁に手をあてて時々休まなければならず、だんだん疲れてつまづくようになった。それでも歩き続けると音が近くなってきた。そのときは唐突だった。角を曲がると急に音が鮮明に聞こえて、人の声もした。明かりが見え、あたりには錆びた鉄のような臭いがこもっていた。その先の一室から、

「今日はよく取れますな」

と博士の一人の声がした。

こっそり中を覗くとさっきの臭いが濃く立ち込めていて私は思わず息を止めた。


部屋の壁の一部から原油のようなどろどろしたどす黒い液体がゆっくりと垂れてきており、それが臭いの原因であるようだった。そして博士たちはほとんど全員集まっているようで十数人いたのだが、かわるがわる木の桶を持って壁の滴りを採取していた。壁に桶がこすれて大きな音がした。博士たちは大きな桶にそれを集めていて、移し替える時にまた大きな音が出た。どす黒い液体の性質がそうさせるのか、大層不愉快で全身の毛が逆立つような音だった。

「フム、あの子は今日墓穴を掘りましたわい」

「おかげでうまい汁が吸える」

博士はそう言うと大きな桶からマグカップで黒くて臭いどろどろを汲み出し、口をつけてうまそうに飲んだ。あんな臭いのするものを口に含むなんて人のできることではない。口からカップが離れると醜く真っ黒になったくちびるが現れ、そのくちびるを舐める舌のピンク色が妙に鮮やかだった。私は吐き戻しそうになるのを我慢しながら見ていた。博士たちは次々に黒いどろどろを汲み上げては飲んだ。


しばらくして吐き気に耐えきれなくなり、顔を伏せた私は博士の言葉の意味を考えた。

墓穴とはなんのことなのか。それによって博士たちがうまい汁を吸えるということは私に都合が悪く、博士たちだけに利益があるということではないか。私は急に寂しく、心細くなった。博士たちは私を妨害してばかりだった。けれどそれは博士たちが私を愛しているからだと思っていた。人間と関わってはいけない。君は他の人間とは感覚が違う、互いに傷つけ合うだけだ。彼らは外に出たがる私に口を酸っぱくして言ってきた。論理的で冷静な言葉に納得し、私は結局外に出なかった。だから私は博士たちと巨大なアリの巣のようなこの洞窟に入ってから一度も出口に行ったことがないし、出口に通じる道も忘れてしまっている。いわば博士たちは私の家族だった。洞窟の中で身を寄せ合って一緒に暮らす唯一の味方。だというのに、うまい汁を吸うだなんて裏切られた気分だった。さっきまで家族と暮らしているような気でいたが、今はまるで世界にたった一人になってしまったような気がする。私は小さく息を吐いてうつむいた。すると博士たちがどよめいた。ぱっと顔を上げると驚いたことに、あの壁からさっきとは比べ物にならない勢いで真っ黒な粘りけのある液体が噴出していた。博士たちは歓喜して言った。

「素晴らしい」

「上物だ」

「これはどうしたことか」

最後の一言と共に博士の一人が振り返った。目があった。すると他の博士たちが一斉に振り返った。


十数人の、くちびるを真っ黒に汚した博士たちに見つめられて私は動けなかった。時が止まったように全員動かなかった。気が遠くなるほど長くて重い静止だった。しかしそう感じたのはきっと私だけで、博士たちにとっては一瞬だったのだろう。黒い液体が滴り落ちる音がすると博士たちは何事もなかったかのようにワイワイと作業に戻った。私の目にはそれが、目が合う以前よりも楽しげに輝いて見えた。黒い液体は勢いよく流れ続けた。そのとき私は、自分の胸のなかから何かが漏れ出してこの洞窟に流れ込んでいる感覚にとらわれた。もしかするとその何かは私の孤独ではないか。この黒いものが私の一部だと思うと胸が悪くなったが、たぶん博士たちは私の孤独を飲んで生きているのだ。きっとそうなのだ。だから彼らは私をこの洞窟に誘い込み、以来外界に触れさせまいとしてきた。私は彼らの餌だったのだ。


ここを出なければならない。しかし振り返っても見えるのは洞窟の深い暗闇だけで帰り道はもうわからない。行く手には楽しげに群れる博士たちがいる。彼らは永久に私を無視しつづけるだろう。もう、いてもいなくても同じように扱われるのだ。彼らのことを家族同様に考えていた分、私の孤独は深くなる。これで博士たちは安定して上等な孤独を貪ることができる。外に出たい。私は痛切に思った。しかし後の祭りだった。私には不安しか残されていなかった。私にそんなことできるのだろうか。私は感覚が他の人たちと違って、お互いに傷つけあってしまうのだ。お互いにということは私も相手を傷つけるということだ。それが何よりも嫌だ。私に外に出る自信は残されていなかった。


そうか、これが墓穴だったのか。博士たちの秘密を知ること自体が墓穴だったのだ。

墓穴を掘った、と言った博士が口元だけでふっと笑った。私は悪寒がしたと同時に怒りで全身が震えた。この博士は私がやって来たことにはじめから気づいていたのだ。もしかしたら彼らは全員気づいていたのかもしれない。そして私が博士たちの汚い企みにはまるのを皆で心待ちにしていたのだ。私は外界に出る勇気を持たないまま唯一の味方を失った。博士たちが待ち望んだ完璧な状態だ。


完璧?

完璧という言葉に私は引っかかった。世の中に完璧ということはあるだろうか。そしてもう一度振り返って洞窟の暗闇を見た。持ってきた明かりで照らした。光は1メートルほど先にしか届かず、その先は濁った暗闇だった。そしてまた考えた。この世に絶対と言い切れることはいくつあるだろう。私は必ず他者と傷つけ合うのか。そうなるかもしれない。でももし生きてこの洞窟を出られたら、外の世界に行ってみよう。あの黒いどろどろを止めて身勝手な博士たちを追い払おう。外に出たらどうなるかなんてやってみないとわからないのだから、やってみればいいのだ。そうすれば胸がすっとするに違いない。暗闇と向き合うと私は博士たちに気づかれないようにその場に明かりを置いて静かに暗闇に紛れ、その場を去った。


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