第二話 主婦、馴染む。
陽が世界を赤く染め、八十メートル上空をカラスが声を上げながら飛び去っていく。
ビルの間を法定速度ギリギリで駆け抜けていく一台のバイクがブレーキランプで曲線を描いて行き、ヘルメットから零れ出た黒い髪が速度による強風に靡いて、音だけを置いて通り過ぎていく。
多くの人々が行き交う都市を抜け、そのバイクは住宅街の一角へと進みある民家のガレージへと入った。サイドスタンドを下ろしエンジンを切ってソフィは再び地面に足を落とす。
「ふぅ。ヘルメットしてないと捕まるなんて、面倒よね」
「お帰りなさいソフィ。ふふっ、先生がそんな事を言ってはいけませんよ」
フルフェイスのヘルメットを脱ぎ、広がる黒髪を撫でて纏めているとバイクのエンジン音に気付いた燻った茶髪の女性が出迎えてくれた。
私、ソフィはヘルメットを彼女に渡して大きく伸びをする。今日は一学年全員の小テストを採点したから少し肩を凝ってしまったので、両手を空に伸ばすと背筋と肩甲骨に言い換えられぬ快感が走る。
「本当に日本は窮屈よねー!」
「特に此処は東京ですから、人も車も多くて大変ですよね」
「香、田舎に引っ越しましょう」
「駄目ですよ、ソフィは明日もお仕事なんですから。それに翠も高校生なんですから」
「冗談よ、冗談」
エプロンを着けた茶髪の女性、香と共に話しながら家へと入っていく。
玄関に走ってくる白猫のミーとあの日助けた黒猫のルルを抱き上げれば、伸び以上に一日の疲れが癒やされていくような気分です。
「たっだいまー、香。それにミーとルルも」
「お帰りなさいソフィ」
香の言葉に合わせるようにみゃあと二匹の猫が鳴く、住宅街のど真ん中に位置する洋風と和風が織り交ざった三階建ての綺麗な一軒家。
私が此処にやって来てから、もう六年が経った。
『――貴女は、誰ですか?』
そんな言葉を香に貰ったあの日と同じように、リビングのテーブルで香と向かい合って座る。二人が初めて出会ったあの日のように。
「ふへぇ、香の淹れてくれるお茶は美味しいねぇ」
「どういたしまして」
香が出してくれる暖かいお茶をズルズルと音を立てて飲みながら、私はあの日の事を思い出していた。
「お邪魔しております。お聞きしたいのですが、此処は何処でしょうか?」
「へ?」
そんな庭での初対面から必死に言葉を紡いで、何か込み入った事情があると感じたらしい香は私を家に入れてくれた。何とも不用心だと今になって思うけれどあの時、香に助けてもらえなかったら今も私はこの知らない世界の何処かで彷徨っていたかもしれない。
天然で天使な香には頭が上がらないね。
「えっと、初めまして。ソフィって言います」
「わ、私は立花香です」
とりあえず互いの自己紹介を済まして暫しの沈黙。何から話せばいいのか整理している間も香はジッと微笑んで待ってくれていた。その場は初対面だったから余計に早く喋らないと、と思ってしまったけどそれが香の優しさだった。
「それで、此処は何処なのでしょうか?」
「ど、何処と言われましても……日本の東京、です」
「二本のトウキョウ……聞いたことが無いですね……」
トウキョウ、という物がなんなのか分かっていなかった私は理解出来なかったのですが、それを確認していくと香は顔を青くしていきます。もしかして体調が優れていないのではと思ったのですが、どうやらそうでは無いそうで。
「あの、もしかしてソフィさんは外国の方でしょうか? でも、日本語ペラペラですよね……それじゃあやっぱり記憶喪失? でも名前は憶えてるみたいだし……」
「外国? 私は大都市ヴィスペルで教師をしていました。知っていますか?」
「ゔぃ、ゔぃすぺる、ですか? ちょっと待って下さい」
そう言うと香はテーブルに置かれていたノートパソコンを開いて、私の住んでいた都市を検索してくれました。この国の電化製品と似たような物はヴィスペルにもあったので、直ぐに私も香の行動を理解する事が出来ます。
あの時は教師をしていたと言ったのですが、実際は潜入捜査官なんて仕事をしていたんですよね。でもそれを大っぴらにする捜査官は居ないので、昔憧れていた教師という仕事をしていると言いました。
「……すみません。ヴィスペルという都市は何処にも無いみたいです」
「ヴィスペルが、無い?」
その瞬間私はこれまでの事を思い返しました。猫ちゃんを助けて、白い猫も抱き上げて、何かに落ちたような……?
いや、確かに私は落ちていった。でも確かにそこは地面だった筈で……。
「まさか幻覚? いや、でもここまで巨大で緻密な幻覚は魔法でもあり得ない筈」
「あ、あの、ソフィさん?」
「すみません。ちょっと電話を」
私はズボンのポケットに入れていた折り畳みの携帯を取り出し十八桁の数字を入れて通話を掛けようとしましたが、画面上のいつもアンテナが表示されている所に圏外と書かれているのを見て止めました。どうやら息子の安否も分からないみたい。
香に確認した所、彼女の携帯は確りと繋がっているようです。
「どうして……?」
「あ、あの、大丈夫ですか?」
「……」
「えっと……」
「あーもー分からん!」
突然大声を出した私に香は身体を跳ね上げ、私は頭を掻きむしります。十年程ヴィスペルで仕事をしてきて困難な状況に陥る事は多々ありました。でもこれほどまでに難解で意味の分からない、自分の力で直ぐ解決出来ない事態に遭遇するのは初めてだったので私は思考するのを止めました。
こんなの考えてたって埒が明かない!
「あっ、ごめんね驚かせちゃって。どうにも分からない事だらけで混乱しちゃってさ」
「い、いえ」
「それで厚かましいんだけど、お願いがあるの」
今思えばこの状況でよくそんな事が言えたなと思うんだけど、あの時は余裕が無くて、親切な香を離したくなくて急いでしまった。こんな訳も分からない場所で放置されたら大変な事になる。だからこの時は打算的なものもあって香を手放す訳にはいかなかったのです。
……まぁ天然で優しい香だから成功したのであって、普通は拒否されて捨てられるでしょうけどね。
「お願いします! 今日だけでいいので泊まらせてくださいッ!」
あの日思ったのは微笑みと共に私を泊めてくれた天使のような香への感謝と、この子絶対に騙されるから私が守らないとという他人が言っても意味が無い決意と、土下座という文化が日本にもあってよかったという事だった。それに言語体も変わらないみたいだしね。
「――そういえば、どうして香は私を泊めてくれたの?」
あれから六年経った今も私は香の家に住んでいます。その六年で得た物はこの世界が私の居た世界とは違うという事実と、大学を通して取得した一種教員免許でした。
前の世界に帰る方法も分からぬままこの世界の事を勉強していて、此処が非常に住みやすい世界だと分かり一つ安心、それでも何も伝えられぬまま息子を置いてきてしまったのが気懸かりですがあの子は身体も心も強いので大丈夫でしょう。
……それでも唯一の家族に会えないのは、私の精神を大きく揺るがしました。そんな時に支えとなってくれたのが香とその娘の翠ちゃんです。
「あ、それ私も気になるー」
私が帰宅して直ぐに翠ちゃんは二階の自室から降りてきました。現在ダイニングで共に夕食をとる翠ちゃんは香と同じ髪の色である黒目の茶髪ですが、ストレートに伸ばしている母親とは違ってパーマを掛けていてお洒落さがあります。
私が働いている高校に通っている、母親似の綺麗な顔立ちを活かした今時の女の子です。
この二人の家族は私と出会う半年程前に離婚したらしく、翠ちゃんは日に日に元気が無くなっていく母を心配していたそうで。現在高校二年生、歳で言うと息子の一つ下な翠ちゃんは初め圧倒的不審者である私の事を警戒していましたが、私と香が楽しそうに話しているのを見て考えを変えてくれました。
私を受け入れてくれた優しい香と、お母さん譲りの優しい翠ちゃんが私を家族のように迎えてくれたお陰で私は今日も元気でいられます。感謝してもしきれません。
「どうしてって、どうしたんですか急に?」
「いや、なんとなく出会った日の事を思い出して」
「私も聞きたーい。流石のお母さんでも理由無く他人を家に入れないでしょ?」
初対面の怪しい私を家に入れた香でしたが、セールスやナンパへの対応がとても上手く私の出る幕がありません。というか三十台で若いヤンチャ坊主たちにナンパされる母親って……。
「そうですね、一つは綺麗な人だったから」
「ぶっ!? き、綺麗って」
「……お母さん、ホストに引っ掛かったりしないでよ?」
香の急な褒め言葉にご飯を吐きかけました。生徒に褒められるのは慣れていますが香に褒められると何だか心が暖かくなります。私が顔を赤くしている間、母親を翠ちゃんはジト目で見詰めていました。
「そんな事しません! それだけじゃなくて、ソフィが本当に困っているみたいだったから」
「お母さんって嘘を見抜くの上手だもんねー」
「そんな訳じゃないですよ。私は何となく分かるだけですから」
「なにそれ怖い」
そこは私も翠ちゃんに同意しよう。香は天然の癖に勘が鋭く、私も翠ちゃんも何か隠し事をする度にバレてしまいます。この前も私が衝動買いしてしまったバイクのプラモデルが買ったその日に見つかって、金遣いが荒いと怒られた末に一般家庭の夫のようなお小遣い制度を導入され、香には頭が上がらなくなってしまいました。
「でもそれだけの理由で私を家に入れたの?」
「そうですよ?」
その異常さに気付いていない香はキョトンとした顔で首を傾げ、それを見た私たちは二人揃って頭を抱えました。あの仕草で全国の男連中は全滅でしょう、やはり私たちが守らないと。離婚した旦那さんもこういう性格にやられたのかもしれませんね。
「……ねぇ翠ちゃん。やっぱりこの子心配なんだけど」
「私もそう思います。何かあったらお願いしますね、ソフィさん」
「任された」
「二人とも酷いですよ!」
三十代とは思えない程若々しい香が頬を膨らませる様子は、同じ女性から見ても可愛い。歳を感じさせないそのパワー、分けて欲しい。
「ソフィさん、どの口が言ってるんです?」
「あれ、口に出てた?」
「ソフィの方が若いじゃないですか! その顔とスタイルで三十歳なんて!」
「お母さんも人の事言えないからね!」
「そうだそうだ!」
まぁ私だって? それなりの美貌を保ってると自負してますよ? だけど明らかに香の方が若く見えるんだもの、私が大学生に見えるとしたら香は高校生に見えるくらい。絶対三十台の子持ちには見えない。
「そ、それでソフィさん。今日はお仕事どうでした?」
「ん? あぁ、やっぱ高校生ってのは面倒ね」
「先生が言う台詞じゃないですよね……」
「翠ちゃんは学校でソフィを見掛けたりするの?」
「うーん、担当してる学年が違うからそんなに会わないけど、職員室に行った時とか見掛けたりするよ」
私がこの世界に来てから六年で何をしたのかと言うと、昔憧れてた教師になりました。
ちゃちゃっと裁判所とか役所に潜り込み戸籍を作って一年間の勉強してから教育大学に入学、それから四年で教員免許を取得し現在一年目の新人教員として翠ちゃんが通っている高校で働いています。
ここまで簡単に言ったけど、実際物凄く簡単でした。前の世界では潜入捜査官なんて仕事をしていた訳だし、日本の人は基本的に危機感が無いから安易に忍び込める。唯、グループの中で横の繋がりが強い事が多いから成りすまして潜入とかは前の世界より厳しそうかな?
そして何故私が教師という仕事に憧れていたのかと言うと。
「まぁ生意気な小娘と小僧たちを正道に導くのが、大人の役目よね」
私自身、生徒に何かを教えるという事が好きなのだ。……何より潜入捜査官なんかより安全で安心だしね!
「ソフィのそういう所、私好きだなぁ」
「そういう所ってどういう所よ?」
「私もソフィさんのそういう所尊敬してる」
「だからどういう所なのよ!」
私の質問に答えずむふふんと笑う香と翠ちゃんを訳も分からず見ていると、突然私の膝へと白猫のミーが飛び乗ってきた。ミーはよく私の膝に乗ってくるけど、ルルは翠ちゃんの方が好きみたい。ルル、私が助けた事忘れてないよね!?
「あらあら、どうしたのミー? 今は夕食中だから遊ぶのは後だよー」
ミーの背中と喉を撫でながら言葉が通じるかも分からない猫にそう語り掛けた次の瞬間、別の世界から来た私でさえも言葉を失うような現象が起きるのでした。前の世界では獣人という獣と人間両方の特徴を持つ種族がいたけど、流石にこれは無い。
「……にゃあ、そろそろ喋っても……いい?」
「……は?」
そう、ミーが喋ったのである。