第5話 ……それ、ラースの剣。
「……ネネィも一緒に行って良い?」
「それは、ダメだ」
その返事に、森の精霊であるネネィは少なからずショックを受けた。
理由にも納得がいかず、旅先で恋人を作ることをうかがわせる言葉に強い焦りを覚えた。
行かせたくない。
だが都への想いを語るラースの瞳はとても輝いて見えた。
行かせたくない……。
行かせたくないけど……。
どうしたら良いか分からず、結局顔を合わせることもできないまま、ラースの旅立ちの日が来てしまった。
思い切って森から飛び出す。
村から伸びる道の上に、行商の馬車の姿が見えた。
その荷台にはラースがいる。
行ってしまう。
ああ、行ってしまう。
帰ってくる保証なんてない。
都はケダモノの住まう場所。
純粋なラースは、そこに飛び込む哀れな羊。
例え帰ってこれたとしても、もしかしたらその隣には――
気付いた時には、彼の後を追っていた。
見つかれば咎められるだろう。
そう考え、気取られないよう陰からラースを見守り続けた。
それから、約一ヶ月後。
ラースはついに都へとたどり着いた。
ネネィは息を呑む。
なんてたくさんの人間。
なんてたくさんのエネルギー。
なんてたくさんの……穢れ。
周囲から視認されないよう霊体となっているネネィの目には、そういった目に見えないものが良く見える。
魔力の流れ。
感情の渦。
欲望の熱量。
霊体は、それらのものを見て聞いて干渉することができる。
逆にあまりに膨大なエネルギーに晒されれば、その身に重大な負荷がかかる。
激しい頭痛と倦怠感に襲われたネネィは、実体となって地に降り立った。
負荷は絶たれたが、すぐには回復できない。
その場にうずくまり、そして、
「……ラース?」
彼の姿を見失ってしまったことに気付いた。
急いで街の中へと駆け込もうとするが、寸前、己の姿を振り返る。
隠すべきところは隠されているが、それでも人間社会においてはいささか人目を引きすぎる。
ネネィは手近にあった農家の納屋に忍び込むと、そこにあった大きめの布切れを拝借。
人々の列に混じって、リディーガルの街へと入り込んでいった。
目が眩むような人、人、人。
実体であるはずなのに、負担がかかっている気がするのは何故だろうか。
休んでは歩き、休んでは歩きを繰り返す。
ラースの気配を察知するなど造作もないこと。
そのはずだったのだが、現実は厳しい。
今のネネィは、この広いリディーガルを彷徨うちっぽけな点にすぎなかった。
確固たる自信が、ガラガラと音を立てて崩れていく。
ふらりとおぼつかない足取りで、道端へと崩れ座ると、
「ラース……会いたい……ラース……」
祈るように、想い人の名前を呟いた。
しかし、その時だ。
どこかに、この近くに、ラースの残り香を感じた。
本人ではない。
しかし、それに準ずる強い香り。
ネネィは疲れも忘れて立ち上がると、自分の感覚を信じて走り出した。
いくつかの通りを横切り、いくつかの橋を渡った頃、
「にひひ……!」
どこからか、子供のほくそ笑む声が聞こえてきた。
「そこ……?」
ネネィの視線の先には、通りの物陰でしゃがみ込んでいる小さな人影があった。
フードを被って顔を隠した子供。
その腕に抱えられていたのは、
「……それ、ラースの剣」
紛うことなき、想い人の愛剣だった。
――――――
「どうして、ラースの剣、持ってるの?」
「ら、ラース? 誰だよ、それ、知らねぇぞ」
くそ、あの田舎もんの連れかよ!
赤目の少年は内心で舌打ちした。
ラースという名前に聞き覚えはないが、おそらくあの青年のことだろう。
てっきり一人者かと思っていたが早合点だったようだ。
「その剣、ラースの。ラースの居場所、知ってる?」
「え、ええ? いや、だから……」
過大評価でなく、この少年は弁が立つ。
機転も利くほうで、たいていの修羅場は舌先三寸で乗り越えてきた。
しかし今度ばかりは動揺が激しすぎて頭の回転が鈍ってしまっているようだった。
簡単にいうと、美人が苦手なのだ。
イゾルテも美人の類だが、敵と認めてからは苦手意識はなくなった。
話がそれてしまったが、とにかく分が悪い――そういう結論だ。
こうなったら、
「お、俺ちょっと急いでるんで!」
「あ……」
遁走を決め込むしかない。
少年は転がるように駆け出すと、頭の中に叩き込まれている逃走経路から最適のものをピックアップした。
すぐさまルートに踏み込むと、後はそのまま一目散。
ギルド仕込みの逃げ足は伊達ではない。
あっという間に、少年はネネィの視界から消え去ってしまった。
――だが、
「うわっぷ!」
少年が角を曲がったところで誰かにぶつかる。
「ってーな! どこ見て……!?」
「どこ行くの?」
そこにいたのはネネィだった。
二の句が継げず、少年は口をパクパクさせる。
意味が分からなかった。
自分のはるか後ろにいたはずの人物が今は目の前にいる。
先回りされた?
ありえない。
万が一にも先回りされないよう、彼の頭の中のルートは細心の注意によって構築されている。
それでも可能性があるのなら、それこそ、ここらの建物を一足飛びに飛び越しでもしないことには絶対に無理だ。
「……あ! ラースだ!」
「え?」
ネネィの背後を指差しての視線誘導。
単純だが決まれば強力だ。
そして決まった。
ラースとかいうあの青年といいこの美人といい、扱いやすすぎて逆に心配になるレベルだ。
すかさず退散。
再度経路をピックアップし、今度こそとばかりに駆け出す。
そして少年は思い知るのだ。
この世には、どう足掻いても逃れられない運命というものがあるのだと。
――――――
「わ、分かった……返すから……剣は返すから、もう勘弁してくれぇ……」
赤目の少年はそう呻きながら板張りの床に倒れ込んだ。
もうほんの少しだって走れない。
心臓は破裂寸前だ。
ここは人が住まなくなって久しい朽ちかけの廃屋。
盗賊ギルドの隠れ家というわけではないが、少年が個人的に出入りしている秘密のアジトだった。
ここに逃げ込んだところでネネィからの追跡をまけるとは思わなかったが、少年の折れた心が最後の拠り所としてこの場所を選んだのだろう。
「……ラースの居場所は?」
「し、知らねぇよ……つーか、この街の地理に詳しくねぇ奴に説明なんかできっか」
「そう……」
ネネィはそれっきり口をつぐんでしまった。
悲しげに眉尻を下げ、傷んだ床に視線を落とす。
そんな表情ですら絵になってしまうのだから、やはり美人というのは手に負えない。
少年はフードを下ろし、覆面を解いた。
暑くて暑くてたまらない。
それが、限界を突破して走り回ったからなのか、あるいはネネィの美貌にあてられたからなのかは分からなかった。
露わになった少年の顔を見て、意外にもネネィが反応する。
「陰に潜み生きる者……?」
その言葉に、少年は苦笑した。
「なんだよ、やけに古風な呼び方だな。俺的には陰人って言われたほうがしっくりくるぜ」
銀色の髪。
浅黒い肌。
そして、赤い瞳に尖った耳。
少年の容姿は、その種族の特徴をあまりに色濃く残していた。
「俺たちみたいな連中はどうやったって真っ当には生きられねぇからな。ま、憐れみついでに今回のことは水に流してくれよ。ほら、剣は返す」
ダークエルフの少年は、そう言って自嘲的に口の端を歪めた。
ラースから盗み出した鉄剣を掲げて、ネネィへと差し出す。
「…………」
彼の態度を見て何か言いたげなネネィ。
しかし結局口には出さず、素直に剣へと手を伸ばした。
彼女の白魚のような指が鞘へと触れる。
その瞬間、ネネィの感覚に電流が走った。
「……見えた」
「え?」
言うなり、ネネィは廃屋を飛び出してしまった。
突然置いてきぼりをくらった少年は、わけも分からず目をパチクリさせる。
その手には、まだ例の鉄剣が握られているままだ。
「……えぇと、つまりこれ、俺がいただいちまっても問題ねぇってことでオーケー?」
少年は自分なりの解釈で状況を飲み込むと、儲けたとばかりにいそいそと、盗賊ギルドへの帰途についた。