その手で掴んだもの。ー雪乃(立成18年12月5日)
「ただいま」
「あ,おかえり……」
部屋のドアを開けると,出ていった時と同じように望乃夏が机に向かっていて。―――そっか,一抜けした私と違って,望乃夏はこれからが本番だもんね。
「今ならお風呂空いてるわよ,望乃夏も入ってくれば?」
「うん,そうする」
開いていた参考書をパタッと閉じて望乃夏が立ち上がる。と,同時にフラッとよろめいて,
「の,望乃夏,大丈夫なの……?」
「う,うん,大丈夫だって。まだ今月は来てないし,長く座ってたから頭の血が一気に下がっただけだと思う」
「そ,そう……ならいいけど……」
ひとまずは望乃夏を信じるけど,なんだか心配。出会って,お互いに触れてからもう2年になろうというのに,自分の弱いとこは絶対に見せようとしないんだもの………。
「じゃ,行ってくるね」
「あ,待って望乃夏」
「……どうしたの?」
「望乃夏,着替え持ってかないの?」
「あっ忘れてた」
「んもう……」
おっちょこちょいねぇ,と続けようとしたけど,たぶん今の望乃夏はそうじゃなくて。
「ほんとに大丈夫なの?ちゃんとお風呂まで歩いて行ける?」
「大丈夫だって,ほらこのとおり」
ぴょんぴょんと飛び跳ねてみせるけど,それすらも無理してるみたいに見えて,思わずそっと手を伸ばそうとして。
「おっとと,こうしちゃいられないや。早くお風呂あがって続きやらないと」
伸ばしかけた手がドアに遮られる。ぱたんと閉まる音は望乃夏の拒絶の心みたいで。
「望乃夏……」
胸の前でそっと握りしめた手が微かに震えたのは,きっと寒いからじゃなくて。……迷ってたから?それとも,置いて枯れたから?いや……私が,置いていったからなの?
……わからない,なんで……なんで望乃夏は,こうまでして苦しもうとするの?
ぐるぐるとまわる不思議なきもちは,私のくしゃみで唐突に遮られた。……そういえば,お風呂セット持ったまんまだった,置いてこなきゃ……と自分のベッドに向かいかけて,望乃夏の机が目に入る。分厚い参考書と付箋だらけのノート,それに黒猫さんのマグカップ。出会ったときに使っていた望乃夏のティーカップは,この冬になる前に砕けて散って,慌てて別の日に新しいマグカップを買ってきたけど……思えばその頃からかしら,望乃夏が私に対してそっけなくなったのは……最初は怒ってるのかと思ったけど,どうもそうじゃなくて……先に進む道を決めた私への嫉妬なのか,それとも思うように進めない望乃夏自身の焦りなのか。私にはわからない。
……そうだ,これを使えば……。弾かれるように望乃夏のティーカップを掴むと,給湯室に駆け込んでケトルに水を張り,スイッチを入れる。それから望乃夏のアールグレイを二人分掴むと,洗って干しておいた私のマグカップと望乃夏のに差し入れて,あとはお湯が沸くのを待つ。そういえば貰い物のスパイスケーキがあったはず……と取り出して,ナイフで数切れ切り落とす。
早くしないと望乃夏が帰ってきちゃう……ドアが開くのと,ケトルのスイッチが跳ねて戻るのとは同時だった。
「ただいま……あれ,この香りは」
「お帰り望乃夏。……アールグレイ,もらったわよ」
「あぁ……」
それだけ言って机に戻る望乃夏。だけどすぐに立ち上がって,
「雪乃,もしかしてボクのマグ」
「望乃夏……ちょっと休憩しましょ」
両手にマグを持って給湯室を出ると,望乃夏は「ありがと」と自分のマグだけ持ってまた机に戻ろうとする。
「あ,ちょっと」
「……なに?」
「パウンドケーキも切ったから一緒に食べましょ」
「いいよ,続きやらなきゃだし」
「望乃夏」
空いた手で袖口を掴む。
「……昔約束したよね。『何かあったら二人で紅茶を飲んで話そう』って。まさか,何もないとは言わせないわよ」
望乃夏の動きが止まる。少しして,ふぅっと息を吐いて,
「……ちょっとだけだよ」
諦めたように向き直るのを確かめて,二人でテーブルにつく。
「これ,この前初瀬さんから貰ったの」
「そう」
スパイスケーキを望乃夏に差し出して,一応はつまんでくれるけど反応が薄い。それどころか紅茶もさっさと飲み干して話を打ち切りたそうに見えて。
「……望乃夏,もっとゆっくりしよう?ね?」
「やだ」
それだけ言うと,マグカップを雑においてさっさと机へと戻る望乃夏。
「わ,わかった……じゃぁ私,先に寝るから……」
「おやすみ」
即座に返ってくる声はどこか無機質で。もう,私のことを忘れちゃったんじゃないかってぐらいに冷たくて。
……『あの時』をなぞっても,望乃夏の心は戻ってこなかった。
寝るから,と言って先に冷たい布団に向かったにも関わらず,ベッドの前で立ち尽くしていた。
ここ最近は,勉強する望乃夏を置いて先に私が布団に入り,区切りがいいところで後から望乃夏がそっと入ってくるのが流れになっていて。その度にひんやりした身体が触れて,くぐもり声を上げる私に気を使ってか,最近は望乃夏が少しスペースを開けて背中を向けて寝るようになった。そして寝つきのいい望乃夏が先に寝たところを,私が後ろからそっと抱きしめて温もりを伝えて,同じベッドですれ違う夜を過ごすのがいつものルーティーン。最近は慣れてきて望乃夏が入ってきたことにも気づかずに寝ちゃうこともあるけど……一度だけ目を覚ましてうつらうつらしてた時に,微かに望乃夏が「ごめん,雪乃……」って呟いたのを聞いてしまって……それ以降,望乃夏が寝るまでは私も寝ないようにして,その代わりにしっかりと温めてあげるようにしてきた。
……でも,このまま寝てしまえば,きっとまたいつもの繰り返しになるだけ。望乃夏が凍えそうになって,私が温めて,そうして朝を迎えるだけ。だからこそ……変えなきゃ,踏み出さなきゃ。
くるりと回れ右して,机に向かう望乃夏を後ろから抱きしめる。
「……邪魔しないで」
「望乃夏……一緒に寝よ」
「どうしたのさ,一人で寝れるでしょ?」
「望乃夏と一緒がいい……」
「………仕方ないなぁ」
デスクスタンドを消して望乃夏が立ち上がる。
「今日の雪乃,なんか変」
それはあなたのせいでしょ,と騒ぐ心を押さえて,いつも通りに私が先に布団に入る。後から続いて望乃夏が入ってきて,やっぱり離れて寝転がる。それを引き寄せて,望乃夏の背中にしがみついた。
「雪乃……?」
「ごめん……こうさせて」
冷たくて広い背中に顔を埋めると,言葉にならない感情が次々に浮かんできて,
「望乃夏,暖めさせて……」
腕を伸ばして,足も絡ませて,少しでも望乃夏にくっついていようとして,
「なんだか今日の雪乃,変だよ?すごく甘えん坊で」
「望乃夏の所為よ」
間髪入れずに言葉を断ち切る。
「ねぇ,どうしてこっちを見てくれないの?どうして素っ気無いの?どうして………どうして私の為に自分を痛めつけるの?」
「雪乃,どうしちゃったの」
「わかんない,わかんないの,望乃夏が,私が……どうなっちゃうのか」
戸惑う望乃夏をよそに言葉があふれだす。もう自分でも何を言ってるのかわからない,止められない。
「私の為に勉強してくれるのはうれしい,けどそのせいで望乃夏が変わっちゃうのはいやっ,……ねぇ望乃夏,あなた自分じゃ気づいてないかもしれないけど,最近笑ってないよ?四六時中しかめっ面で,苦しそうで,何かに追われて……」
「雪乃,それは……」
「望乃夏が苦しむぐらいなら,私のことなんて全部忘れてっ」
「雪乃!?」
「だから……望乃夏,居なくならないで………遠くに行かないでっ」
ぎゅうっと抱きしめて,離さないで,望乃夏を閉じ込めて。自分勝手だってことは分かってるけど,それでも望乃夏を失いたくない。なんてわがままなんだろう,白峰雪乃は。
「雪乃……離して」
身体をよじる望乃夏に,抱きしめた腕に力を入れる。
「い,イタタっ,そうじゃない,居なくなったりしないからっ,寝返り打つだけだからっ!?」
慌てて手を離すと,望乃夏がぐるりと向き直る。そして,今度は望乃夏の手で頭を胸に埋められて。
「雪乃は心配性だなぁ,ボクはどこにも行かないよ」
「だ,だって……」
「大丈夫,……この間の模試ではなんとか合格圏内に入ってたから。それに雪乃,ボクが雪乃ナシで生きられると思う?こんな生活スキル皆無なのに一人が好きで,そのくせ人肌を知っちゃったボクが」
「……じゃ,じゃぁ…」
「最近ちょっと根を詰めすぎたかな,とは思ってたんだけど,雪乃の言葉を聞いて反省したよ。明日からはまたお風呂も一緒にしよっか」
「うんっ!!」
即答した私に望乃夏が吹きだして,ちょっと気恥ずかしくなる。と,同時にさっきの言葉も恥ずかしくなってきて望乃夏の胸からも逃げ出そうとする。
「ダーメ,逃がさないよ」
「あっ」
「んもう,さっきは離さないとか言ってたのに,今度は離しちゃうんだ」
「あ,あれは……そのっ」
は,恥ずかしい……
その時,望乃夏の机からタイマーの鳴る音がして,
「あ,携帯置きっぱなしだった」
するりと布団から抜けだした望乃夏が机まで小走りする。そしてアラームを止めたものの,そこでまた立ちつくしていて。
「……望乃夏?」
「ゆ,雪乃……どうしよう……」
「なによ,どうしたのよ?」
気になって私も布団から出て望乃夏のところに行くと,
「今,0時になったとこだよね?」
「そうね」
「で,昨日は5日だったよね?」
「確かそうね」
「で,もう12月と」
「それがどうかして………あっ」
ようやく気が付いた私と,暗がりでも真っ青になってるのがわかる望乃夏の顔。
「今日……雪乃の誕生日じゃん……」
へなへなとその場に崩れ落ちる望乃夏。
「なんてこった……すっかり忘れてた……」
「大丈夫よ,私も忘れてたから……」
そっか,またこの時期が来たんだ。望乃夏よりも私がお姉さんになる,たった2か月の淡い季節。
「ごめん,絶対どこかで埋め合わせするからっ!!」
「大丈夫よ,焦らなくても。それに誕生日のプレゼントならもう貰ってるから」
「えっ?」
きょとんとする望乃夏にそっと近づいて,同じようにしゃがみこんで,変わらない目線を交わしてそっと抱きしめる。正確には,貰ったじゃなくて,戻ってきたかもしれないけど,それでも誕生日に手に入れたものだから。
だってそれは――――




