赤髪不良と生徒会書記(兄)
(no side)
ジャー、と水道から水が流れる音が聞こえる。
水から手を離すとセンサーが反応し、流水が止まった。
ここは生徒会室に一番近い男子トイレ。
青年、ではなく少年と言っても差支えない容姿をしている生徒会役員の一人は、ポケットからハンカチを取り出して手を拭く。
シンプルだが高級感のあるハンカチをポケットにしまいながら、息を深く吐き出した。
鏡には勿論自分の姿が映っている。
しかしその姿は、この学園にもう一人存在していた。
それは自身の弟だ。
この少年、役職は霞桜学園生徒会書記。
そして双子の兄、樋口空である。
空はどこか憮然としている鏡の中の表情に気付いて、ふるふると頭を振った。
こんな顔をしていたら、弟の海に心配されてしまう。
現在その弟は、副会長の戸高、そして転入生の井川と共に生徒会室でお菓子を食べている。
そこには当然生徒会長の間宮も居るが、彼は一人で仕事を捌ている状況だ。
戸高や海がそれをどう思っているのかは知らないが、空はどうにも複雑な思いを抱えていた。
井川は一卵性双生児の自分たちを見分けられる稀有な人物だ。
五月という時期外れの転入生を迎えに行った戸高が生徒会室に戻ってきたら、嬉しそうにその一年生を気に入ったと言う。
自分たちがイタズラをする度に叱ってくる戸高が気に入る人物。
そんな井川に興味が湧かないはずはなく、自分たちも見たくなった。
そして初めて会ったのは、食堂。
すぐに戸高が気付いて、その井川と対面した。
空の井川に対する第一印象は、もっさりしてるなー、だった。
ビン底眼鏡にモッサリヘアー。
そして話してみると分かる、デカい声。
何故あの戸高が気に入ったのかは分からなかった。
しかしその井川が、当てたのだ。
空と海を、的確に。
これには純粋に驚いたし、胸が躍った。
あぁ、この子は面白い。
それは弟の海も同じようだったようで、戸高と一緒に井川にくっついて回るようになった。
会計でコミュ障の大塚も井川の天真爛漫な態度に絆されたらしく、ずっと井川にくっついていた。
しかし、空にとって予想外だったのは皆の井川への依存である。
空は面白いことが大好きだ。
そして井川は面白い。
実は、ただそれだけの理由で一緒にいるに過ぎない。
弟の海はもしかしたら恋愛感情を持っているのかもしれないし、戸高も大塚もまた然り。
でもそれだけならまだしも、皆が生徒会の仕事をしなくなったのだ。
そのせいで、唯一井川に大した感情を持たなかった会長の間宮に、生徒会の仕事のしわ寄せが全て行ってしまっている。
それに気付いた時、空は内心焦った。
面白いことをするためには、何かを犠牲にしなければならない。
しかしそれは決して、他の人を犠牲にしてはならないのだ。
ゲームで遊びたいなら、明日までの宿題を早く終わらせる。
何かを買ってもらいたいなら、親の手伝いをしてご機嫌を取ってみる。
勿論霞桜学園に通っている身だからそんな庶民的なことはしないが、つまり自分で対価を払うべきだということだ。
それは空にとっては当然のこととして自分の中にあった。
でもそれを、海に口に出来ないでいた。
二人はわざとお互いを似せている面もある。
それ故に、もし空が海に違う意見を言ったらどうなるのか。
この関係が壊れてしまったら、本当に一人になってしまう。
それだけは、嫌だった。
空は再びため息をつく。
そして過るのは、あの鮮烈な赤色。
食堂で間宮と共に居た、学園最恐と言われる神山司。
その姿を見た時、双子の片割れとしての自分が崩れそうだった。
自分たちのしわ寄せで大変なのに、あの神山にまで絡まれているのかと思ったからだ。
『近付かないで』と井川に言った言葉は、間宮に対しても言ったようなものだった。
神山は危ないから、近付いちゃダメだよ、と。
きっと誰にも伝わらなかっただろうと思うけれど、あの中で出来る精一杯の言葉かけだった。
でも、その考えは間違っていた。
神山は、間宮のために、怒った。
神山と話す時の間宮もどこか楽そうで、人知れず安堵した。
勝手だということも分かっている。
どう言い訳しても悪いことをしているという自覚もある。
でもやはり。
自分が、大事なのだ。
空はトイレの扉を開けて廊下に足を踏み出した。
「あーぁ…どうしよっかなぁ…」
「何がだ?」
「!?」
その瞬間、真横で声が聞こえた。
それはあの食堂で、生徒会役員と井川を静かに一喝した声で。
ばっと身体を離して、壁にもたれかかっているその人物に目を見開く。
「か、神山司…っ!?」
「よぉ、双子の片割れ」
赤髪の不良が、まるで友人であるかのような気楽さで挨拶を口にした。
突然のことに固まっていると、神山が一歩足を踏み出してきた。
それを見て空は反射的に一歩退く。
神山はピクリと眉を動かして足を止めた。
こいつも会計みたいな反応しやがって。
「…お前らは俺が一歩進んだら一歩下がれ、みたいなことを習ってんのか」
「う、うるさいなっ。背中見せたら襲われそうだからだろっ」
空は怖がっていることを悟られてしまって、虚勢を張りながら叫んだ。
食堂で間宮のために怒ったから神山は実は優しい、なんてことは思わない。
あれは間宮が相手だったからであって、仕事もせずしかもサボリの罪を間宮に擦り付けている自分たちは良い感情を抱かれていない。
そんなことはあの食堂での一喝で身に染みている。
目の前の不良は空の言葉に呆れた息を漏らした。
そもそも何故こんな所にいる? 偶然か?
いや、でも話し掛けて来たのだからわざわざ空を待っていたのか。
じゃあ一体、何の用で…?
空は神山の背後に見える『生徒会室』というプレートに目を一瞬向けた。
皆が居るあそこに戻るには、神山を正面突破し尚且つ神山以上の速さで走り抜けなければならない。
そしてそれは不可能であると、空は即座に判断した。
走るのは苦手ではないが、学園最恐と噂される神山に勝てるとは到底思えない。
空は覚悟を決めたようにぐっと力を入れて神山の正面に真っ直ぐ立った。
その姿に神山は一瞬目を見開き、ニヤァと口の端を上げた。
これは神山の中で、立ち向かうような態度を見せた空への印象が良くなった反応なのだが、傍から見れば獲物を見付けたソレであり、「あ、やっぱ死ぬかも」と思わせるには充分だった。
もう病院送りにでもどうとでもなれ、と半ば現実逃避しながら空は口を開く。
「…で? 僕に何の用なの? 一人の時狙ってボコボコにするつもりだったの?」
「…本当、お前らの中の俺はどんな奴なんだよ…。つーか、間宮が異常だったんだな…」
「…かいちょー?」
間宮の名に、空の目が探るように神山に向けられた。
間宮が何かしたのだろうか。
しかし神山はそれには答えずに首を振る。
「いや、今回間宮は関係ねぇ。ちょっと会計について訊きたいことがある」
「…え? ナオっち?」
「あ? 何て?」
「ナオっちでしょ? 会計の大塚尚輝…」
「…あの図体でナオっちか…」
180は超えている男にしては随分と可愛いあだ名だ。
まぁ良い、と話を本題に戻す。
「最近、会計と井川、何かあったのか」
「何でそんなこと訊くの。おま…か、神山も、優馬のこと気に入ったの?」
「違う。マリモはどうでも良い。会計は今も井川と一緒に居るのか?」
「僕が答えるわけないじゃん。何でそこまでナオっちのこと…、…まさか」
「ちょっと待て。何だ今の(察し…)みたいな表情ふざけんな何も察せてねーよ」
ハッと目を見開いた空に間髪入れずに入る神山のツッコミ。
意外と面白いかもしれない、神山とのこのやり取り。
「神山はどっちなの? ナオっち抱きたいの? 抱かれたいの?」
「恐ろしい勘違いしてんなよ。会計とは…少し縁があってな」
「縁って何? 意味分かんない。神山はナオっちの何なの? 友達?」
「…違ぇ。ダチなんざ俺には必要ない。ただ…会計が何か…辛そう、だったから」
どうにかしてやりたい、と瞳の奥に宿る何かを隠すように静かに目を閉じた神山に、空は違和感を覚えた。
何だか矛盾している気がする。
つまるところ神山は、大塚の様子が変だから心配で力になりたいと言っているのだ。
高等部からの外部生である神山が既にコチラ側なのかノンケなのかは分からないが、少なくとも大塚に恋心を抱いているわけではなさそうだ。
ということは、神山のその気持ちは友情に近いものなのではないだろうか。
なのに神山は『友達』を強く否定した。
訳が分からない、でも──面白い。
「ここ最近、ナオっちは僕たちと…優馬とは一緒に居ないよ」
「!! …何故だ?」
「優馬がね、ナオっちに言ったんだよ。『もっとハッキリ喋れよ、イライラする!!』ってね」
「はぁ? 何だそりゃ。会計は喋らなくても分かるって言われて井川に惚れたんじゃなかったのか」
確か、会計親衛隊長の羽川が言っていた。
それを言うと空が意外そうな表情を浮かべる。
「あれっ、知ってたんだー。そう、でも…何だろうね。機嫌悪かったのかな」
「理由も無しにキレられたらたまったモンじゃねぇな…」
「何て説得力の無い言葉…」
「あ?」
「うわっ、ごめんなさいっ」
短い訊き返しの言葉に空はビクリと肩を震わせて頭を咄嗟に庇った。
それを見て、神山はハッとして気まずそうに頭を掻く。
「…これはクセだ、怒ってるわけじゃねぇ。つーか、喧嘩売られない限り俺から手を出すことはねぇよ」
「そ、なの…?」
「現に双子の片割れに手ぇ出してないだろ」
「そうだけど…て言うか、僕、双子の片割れなんて名前じゃないんだけど」
「俺は自己紹介しないヤツの名前は呼ばない主義だ」
何それメンドクサイ。
思わず口に出しそうになって、空は慌てて口を閉ざす。
そう言えば、間宮と井川のことは苗字で呼んで、大塚のことは『会計』と役職でしか呼んでいない。
ということは、大塚は自己紹介していないのか。
ここで空の中に、悪戯心が湧き上がった。
「僕は──樋口海。双子の、弟だよ」
「海だな、分かった。引き止めて悪かった。話ありがとな、海」
去り際にポンッと頭を撫でられた空は、そこを押さえて俯いた。
どうせアイツも、僕たちを見分けられない。
そうして弟の名を騙った空は、足早に生徒会室へと戻って行った。




