イカロスの翼
「発病した」
「ついさっき病院を抜け出した。見かけたら保護してほしい」
弟の病状を告げる親父からの電話は、簡潔なものだった。
PPS。それが弟の発症した病気の名前だ。本人が憧れたとおりの姿になるという、原因不明の奇病。憧れが叶う代償に、本人の頭の中は憧れそのものになってしまう現代病の一種。
治療方法は目下不明。発症原因も不明とされているが、非現実への強い願望が姿を変貌させるというのが一般の見解だ。
直接死に至ることはないが憧れ以外のことを気にとめない患者の行動はとかく事故を起こしやすい。
「これで、太陽まで行くんだ」
そして弟は今、背中に生えた真っ白な翼を俺に見せて得意げに語っていた。病院を抜け出し、そのまままっすぐ俺の部屋まで飛んできたそうだ。
おかげでこいつが何に憧れてPPSになったのかは判った。
「ああ、それで鳥の羽根なんだな」
「そう。勇気ひとつを友にして」
蝋で固めた鳥の翼で空を飛んだ少年は、しかしあまりにも太陽に近づいてしまったため翼の蝋が溶けてしまい、そのまま海へと落ち命を失くした。
そんなギリシャ神話を基にした学校唱歌。弟ははじめてこの歌をうたったとき、ぽろぽろと涙を流して泣き出してしまったと先生から聞いたときはあまりにもらしくて思わず笑ったものだ。
だから俺はすぐさまギリシャ神話の本を買ってきて、弟に読み聞かせてやった。
つまり弟は哀れなイカロスになってしまったというわけだ。太陽を目指して飛んでいきたい自分。それが今の弟の全て。
「大丈夫。だってこの羽根は蝋で出来てなんかいないから」
だから太陽まで飛んでいけると、胸を張る。本当に飛んでいけるわけがないのに。行けるものだと信じて疑わない。
ぎり、と奥歯を噛み締める。冗談じゃない。飛んでなんかいかせるものか。隙を見て親父と病院に電話をすると、どちらもものの30分でやってきた。
これで大丈夫、そう思ったのはしかし全くの間違いだった。
生えた翼で本当に飛んでしまったのは珍しい症例だと、まるで実験材料のように語る医者ども。
どうせ治せないならせめて願いを叶えさせたい。飛んでいくのを見届けたいと言い出す親父。
「この病気を解明するには多くの症例を調べる必要があるんです」「治る保証もないのに人の息子をモルモットみたいに言うな」「息子さんを治すことにも繋がるんですどうかご理解を」「息子の願いを親が叶えて何が悪い」「自分の息子が可愛くないのか」「可愛いからこその親心だ」
ひとんちの前で勝手な言い分をし、勝手に争奪戦をはじめたこいつらに段々と腹が立ってきた。
「お兄さん、弟さんのためにも私達に預けてください」「渡すんじゃない。俺達があいつの門出を祝ってやるんだ」
双方が双方の理屈で俺に同意を求めてきたとき、ついに頭の中のなにかがぶちっと音を立てて切れた。うるせーぞてめーら。人の弟を勝手に取り合ってんじゃねえ。
恐る恐る様子を伺っていた弟の羽根を引っ掴むと部屋の奥へと引きずり込む。んなもんこの羽根がなくなりゃなんの問題もないんだろうが。
「に、兄ちゃん?」
戸棚からハサミを取り出すと、そのままバチンと弟の翼を切り取った。俺以外の全員が悲鳴を上げる中、続けてもう片方の翼も切り落とす。これで文句ないだろう。いい加減バカなこと言い合うのをやめやがれ。
ばたん。
そして気を失った弟が倒れた音で、俺はやっと我に返った。
「と、とにかく弟さんを病院へ」
「ひゃ、119番119番っ」
慌てる医者と錯乱する親父、散乱している弟の羽毛。で、俺は今なんてことやっちまったんだおおおおおー?
フェードアウト。
そんな騒動から一ヶ月が経過。
翌日にあっさり目を覚ました弟はなんと正気を取り戻していた。翼さえなければ、弟はいつもどおりの可愛い弟。だが、困ったことに問題が全くなくなったわけでもなかったりする。
「兄ちゃーん、ちょっと太陽まで行ってくるねー」
「おー、ちょっと待て待てー」
うんざりしながら戸棚からハサミを取り出す。なんつーか一週間もすれば弟の背中には立派な羽根が生え揃い、そしてまた太陽まで飛んでいこうとする。そのたびにこうしてバチンバチンと羽根を切り落としているわけだが。
おかげで今晩の夕食は、また鳥ガラスープになったようだ。