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少し流れの出ている前髪。
肩までは伸びていない髪の毛。
薄い化粧。ピンク色の口紅。
僕は、ドキッとした。
大人の女性と目を合わせたのは初めてだった。しかし、よく見るとその瞳は少しだけ赤い。
シネコンの、たくさんの人がいるフロアの、四角いソファーの上で。
僕は、大人の女性の手の甲に(偶然にも)触れてしまった。
「ご、ごめんなさい!」
僕は大きな声で女性に謝る。
女性は、何も言わずにその場を立ち去った。ピンク色の革のカバンと、細長い柄の傘を持って。
去っていく女性の後ろ姿を見つめていると、ハルがやってきた。
「なにしてんの田井中」
僕は、一瞬口が詰まる。
何をしているのかと聞かれれば、『綺麗な大人の女性の甲を触って、少し軽蔑されてた』と簡潔な文章で表現出来る。
でも、実際は、故意ではなかったし、偶然だ。決して痴漢の類ではない。
もし、これが人生の終わりであるならば僕は痴漢の冤罪でしばらく刑務所ぐらしであるともいえるが。
「まぁ、いいやそんなことより、ほらチケット。お前の分な」
僕は、彼から映画のチケットをもらった。
「あれ、映画のチケットってこんなのだっけ」
僕は、もう一度映画のチケットをマジマジと見る。
「ちぎれるような切れ込みとかないし……」
「おまえ、いつの時代の話をしてるんだよ。まさか、最近映画とか見てないの!?」
ハルは、驚いたような顔をしている。
確かに、僕は最近映画を見ていなかった。最後に見たのは……小学生の頃かもしれない。中学生の頃は一度も映画を見に行かなかった気がした。
昔見た映画は、変な中国人が、意味不明なスーツだか、タキシードだかを着ることによって超人的な力を得て悪の組織と戦う痛快コメディアクションだった気がする。
特に面白かったわけではないのだけれど、仲の良かった友達たちが、見たがっていたから付いていったような思い出である。
こんな風に昔を振り返ると、僕はあまり自分から映画を見に行くような人間では無いようである。
映画の始まる時間まで少し時間があったので、僕は彼と一緒にハンバーガーショップで時間を潰すことにした。
ポテトのMサイズと100円のコーヒーで時間を潰せるのは高校生だからであると僕は思っている。
「最近、なんかおもしろいことあった?」
ありきたりな切り込みでハルは話しかけてくる。
「いや、特になんも。そっちは?」
まぁ、天気の話をして話題を振られるよりかはマシか。
「俺か……。俺は、バンドでも始めようかと思ってる」
ポテトをつまみながら、ハルは僕の方を見た。
「バンド?バンドってあのバンド?ヘアバンドとかじゃなくて?」
僕は、驚きを隠せなかった。確かに、ハルくらいのルックスであれば多少歌が下手であっても、ギターが下手であっても、クラス中の女の子はライブを見たいと思うであろう。
やはり、モテることも天性の才能だ。彼は、自分がどうすれば『かっこよく見える』のかよくわかっているようだ。
「そのまさかだよ。音楽やりたくてさ」
ハルは少しだけ照れている。でも、その心境を僕に打ち明けてくれるだけ、僕は彼からの信頼も厚いということであろう。
ハルにやりたいことがあったなんて、僕には驚きだった。
僕はやりたいことがあるのだろうか。
僕の趣味は終わりを考えることであるが、目の前にいる人間は今まさに『始まり』を考えている人間だ。
対極にいる人間に対して僕はどんな言葉をかけてあげれば良いのだろうか。僕には言葉が思いつかなかった。
僕は、ふとハンバーガーショップの外に目をやった。
雨は依然として降り続き、雨粒がコンクリートの上にポタポタと落ち続けている。
しかし、先ほどと違う点が一つあった。
窓の外で、雨を歓迎するかのようにはしゃぎ回る小さい黒い人形のような影が僕の視界には居た。
どういう理由で彼が現れるのかは知らないが、確実に僕に気があるのだろう。
黒い影は、雨乞いをしているかのようにも見えた。『もっと、降れ!もっと、雨よ降れ!』と野太い声が僕の頭の中で脳内再生された。
「田井中?」
ハルは、僕の顔の前に手を出して、僕の意識を気にした。
「な、なに?起きてるよ」
僕は慌てて、意識を戻す。
「なんか、今日のお前ちょっと変だな。俺の知ってる田井中じゃない」
「いつも通りだよ。おまえの知ってる僕の話はとても気になるけどね」
僕は、ブラックコーヒーを口に入れて目を覚ました。
もう一度、窓の外を見たが、そこに黒い影はいなかった。