迷惑
ある朝の電車内での風景。それは日常的な出来事になりつつあった。その日も車内は通勤、通学の乗客で満員の状態だった。
その中で、一人の女性がシートに座っていた。それも、ただ座っていたのではない。寝坊でもしたのか、それが習慣化しているのかはわからない。彼女は、コンパクト鏡を片手に持ち化粧をしていた。隣の席の者や周囲の者は彼女を迷惑そうな表情でみつめている。しかし、他のぎゅうぎゅう詰めになっている乗客など、気にも止めないといった感じだ。
その中で、一人あきらかに周囲とは異なる視線を彼女に向ける者がいた。その前には若い男性が立っていた。彼の職業はテレビ局のアナウンサーである。就職して一年目の新人で、まだ実際にテレビで彼は放映される番組には出演したことはない。いわゆる見習い研修中の身であった。
彼は、意を決したように深呼吸をすると、話始めた。
「私の前には、今まさに変身を遂げようとする一人の女性が座っております。左手には鏡を右手にはペンシルを握りしめ、ほとんど剃って無くなっている眉に線をひくかのごとく、それはまるでなぞり絵でもしているようです。おっと、隣の人に肘が当たってしまった。ラインがずれたようだが、果たして修正は可能なのでしょうか。」
化粧をしていた女性は、きっと彼を睨み返した。周囲の者からは失笑が漏れる。だが、彼は構わずに話続けた。
「さあ、今度はマスカラを取り出しました。短かったまつ毛が魔法にでも掛かったかのごとく長く伸びてゆきます。」
女性はさすがに、たまりかねたように口を開いた。
「ちょっと、あなた失礼でしょ。なんで、いちいちそんなことを言うのよ。」
すると、彼はこう言った。
「私は、新人のアナウンサーなのです。テレビの前であがってしまわないように、大勢の人の前で度胸を培う練習をしていたのです。この混雑した状況でも動じることなく悠然とお化粧をされているあなたなら、このくらいのことでお気にされるとは思わなかったものですから。それにしても大した度胸ですね。こんな大勢の前で自分の素顔から化粧して別人のようになるのを見せられるのですから。私にもその度胸を分けて欲しいくらいですよ。」
女性は、こう言い返した。
「気にするに決まってるでしょ。それに恥ずかしいじゃない。はっきり言って迷惑よ。人のことはほおっておいて。」
彼は不思議に思って訊ねた。
「迷惑? 私がですか? 私は、周囲の方々に迷惑を掛けているつもりはありません。
その証拠に、みなさん私には好意的な視線を向けていらっしゃいますよ。むしろ、迷惑そうな視線を向けられているのは、あなたの方でしたけど。」
周囲の者達から、そうだ、そうだと言う声があちこちから聞こえてきた。そして、隣に座っていた男性から女性に、こんな言葉が返ってきた。
「迷惑なのは、あなただよ。化粧をする度に肘が私に当たって痛いったら、ありゃしない。この人には、よくぞ言ってくれましたと感謝したいくらいだ。」