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海の上の駅  作者: 名瀬薫
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第一話

この世界に人はどれだけいるのだろう。


たくさんの人がいる場所もあるだろう、人が全くいない場所もあるだろう。


この場所には私一人。


生まれたときからこうなのだ。


世界はこういうものなのだ。


私は海の上の駅舎で生まれた。


私は生まれたときから「私」として完成していたがそれはこの世界がそういうものだからだ。


今日は少し寝すぎてしまったらしい。


ドアを開け駅のホームに足をつけるとジリッとサンダルの底が焼けた気がした。


太陽はとっくに海から顔を出しもうすぐ私の真上まで上がるころだ。


家に隣接する線路は昨日の雨で増えた海のせいで水の中を走っている。


太陽の日差しに誘われ日向ぼっこするかのように魚は線路の上で漂っている。


今日は列車が来る気配がない。


きっと何もしないのが今日の私の仕事なのだ。


私はいったん家の中に戻ると水着に着替え窓から海に飛び込んだ。


太陽は相変わらず私を焼いていたが魚はもうそこにはいなかった。


この海は線路に乗せて運び、また連れてきては、連れていく。


しかし私をどこかに運んではくれない。


私の意味はここにしか存在しないから、ここにいることで私は肯定されるのだ。


なにを羨むわけでもない。


私は与えられた意味その通りに生きていく。


…そう生きてきたはずなのになぜだか最近頭の中が重たい。


海を行く魚を見ると、空を高く飛ぶ鳥を見ると。


なぜだか重たく感じるのだ。


今日は雨。


線路は海に沈み駅のホームぎりぎりで水面を雨粒が叩いている。


雨粒が作った波紋はいつもよりも黒いホームに吸い込まれていた。


こんな日は電車は線路を走れない。


逆を言えば今日は電車が走る意味はないのだろう。


雨の日はすることがなくなる。


読書が普段の雨の日の過ごし方だが今日はなんだかそんな気分でもない。


朝ごはんの皿も片さずにぼーっと窓から外を眺めていた。


どんどん強くなる雨脚を窓や屋根をたたく音で感じ、聞き入っていると遠くから何かが聞こえた気がした。


それは海をかき分け進む音、今日聞くはずのなかった音だった。


しかし、どんなに不思議に思っても事実、音は近づいている。


私は急いで部屋を片付けなければならなかった。


この世界で生きるには与えられた役割を、自分の意味を果たさなくてはならないのだから。


私の役目は、この駅を訪れた人を迎え出発の日に見送ること。


私は幾度となく繰り返してきた。


いままでこんな日に電車が来ることはなかったがそんなことは関係ない。


今日の私に意味が与えられるなら、仕事があるのならこなすだけだ。


やがてホームに電車が滑り込む。


電車によって裂かれた海はホームを濡らすがそれはまるで吸い込まれたかのようにホームの色を一瞬変えただけですぐに消えていった。


ドアが開くと乗っていた男はゆっくりとホームに降りた。


雨が降っているというのに走って私のドアを叩くわけでもなく、ゆっくりと近づいてきてそのまま自然な動きでドアを自分で開けた。


「長い間お疲れ様。君がしたいことは何かな?」


男は部屋に入りながら私に問いかけた。


不意な問いかけに私は頭が回らない。


また頭が重たく感じられる。


考えることを放棄しろと言わんばかりに頭の中の私は瞼を下ろそうとしている。


と、男が私の頭に手を置いた。


その瞬間、不思議な虚脱感に襲われる。


同時に今にも眠りに落ちそうだった頭の中の私はどこかに消えていた。


男はまた繰り返した。




「君がしたいことは何だい?何かに決められたことじゃない君自身が選ぶんだ」




私はまた答えられない。


今までは客人の荷物を受け取り、部屋に通し、短い間のお世話をしていた。


しかし、私は動けない。


こんどは頭の中で思考が渦巻いている。


今までこんなことはなかった、こんな自分がやってきたことに疑問を持つなんて。


そう、疑問なんてないだろう?


私は何を考えている…。なぜお世話をするのか?それが私という存在だからだろう?


なぜ私はここに留まり続けているのだろうか…。この場で客人をもてなすのが私の意味、価値だからだろう?




本当か?




わからない…疑問に対する答えにまた疑問が浮かぶ、終わりのない思考の迷路…。



不意に頭の上にあった手が下ろされた。




「今、答えを出さずともいいさ。そうだねぇ、この雨がやむまでじっくりと考えるんだ」




男は柔らかく微笑みながらそう言った。


呆然と立つ私の横をすり抜け男はキッチンで冷えた水を飲むと羽織っていたコートを椅子の背もたれにかけ


窓の外をぼーっと眺め始めた。


窓をたたく雨は勢いを弱めたが雲は厚みを増し夜がいつもより早くこの駅を覆っていた。


翌朝、布団の中で半覚醒状態の私の鼻を何かの香りが撫でる。


急速に頭が回転を始める。


体を起こし窓の外を見ると未だ雨は降り続いているが部屋に漂う香りが鼻を通るたびに微かな温かみを感じる。


ふと、頭の回転が止まる。とほぼ同時にベッドを出て扉を開けると、


予想通り男が朝ごはんを作っていた。


それは私の役目だったはずだ。


ありえなかった。今まで一度もここを利用する人が料理を作ることなどなかった。


そして私が役目を忘れ寝過すことなど。


しかし混乱する私に男は優しい動作でホットミルクを差し出した。


何かを他人から受け取ったのは初めてだった。


湯気がふわりふわりと立ち上るマグカップにぎこちなく口をつける。


初めて他人から受け取ったミルクは普段より暖かく甘い気がした。


「甘いのは蜂蜜がほんの少し溶けてるからだよ」


男は頭の中を透かして見ているかのように私の思考に返事をした。


「僕はこの世界のシステムみたいなものだからね、考えていることぐらいわかる」


システム?


「どういうこと?」


「そのままの意味さ」


頭の中で思考が渦を巻き始める。


昨日のような重さは感じないが終わりのない迷路は進む速度より早く道を伸ばし複雑にしていく。


「まあまあ今はとりあえず朝ごはんを食べようじゃない」


迷路からの緊急脱出ボタンを男が押した。


男は私と話しながらも手際よく調理を進めていたらしい。


テーブルには皿が並べられバターの甘い香りを立ち上げていた。


「ほら、できたから座りなよ」


男は最後にキッチンからフルーツジュースを注いで持って来ると席に着いた。


席に着くと二人の皿には柔らかく軽そうなスクランブルエッグにレタスとソーセージが添えられている。


「君が普段作るのに比べてどうかな?」


男はソーセージを一口大に切りながら訊ねる。


皮が弾けるようにパツッと切れ肉汁が流れるのをみてパンに手を伸ばそうとしていた私はソーセージに目標を変更することにした。


「頭の記憶を覗いたかのようにいつもの朝ごはんのメニューと一緒ね」


卵の焼き加減を見てわかっているこの男は料理がうまい。


あえて冷たい感想を返す。


「そう、良かった。なら美味しそうにできてるってことだね」


皮肉を返されるという会話を本の中でしか経験したことのない私は苛立ちという新しい感情と


楽しいという感情また同時に二つの感情が一人の心の中に存在することがあるということに気付いた。


思考の渦の迷路の中で錆びついた扉を開けた気がした。


「君は人に近づいているんだね…」


男がぽつりと漏らす。


食事を終え窓を一瞬覗き見ると


雨を降らす厚い雲のずっと先に切れ間から差す光が見えた。


朝ごはんの片付けを済ませエプロンを椅子の背もたれにかける。


男は窓から遠くを見通しているかのように外をひたすらに眺めていた。


私は扉を開け雨の降り続くホームに出る。


男はこちらを一瞥したがまた窓へと視線を戻した。


ホームは男が現れた時と同じく冷たい灰色で雨を飲み込んでいた。


雨が止むまで考えろと男は言った。


私はどうしたいのだろう。


ちゃぷちゃぷとなる水音を耳に溶けさせ思考の渦を自ら巻く。


ホームから水に沈んだ線路をのぞき込む。


ベンチも何もないホームで雨に打たれながら小さく起こる波から足を逃がして遊ぶ。


思考しながらふと始めた一人遊びは静かで大した面白味もない。


大した面白味のない単純意味無しの遊びにだんだんと思考をかき消されていく。


結局のところいつだって私はこうなのかもしれない。


考えるべき時、深い未知の世界に飛び込む時


手近などうでもいい目標にゴールをすり替えてしまう。


考えること、考えた末に出した結論への後悔


何もかもが怖くて半歩踏み込んでも見知った自室に踵を返してしまう。


しかし男が来てから未知の世界にかけていた霧が晴れてきたのだろうか。


私は微妙な意識の違いを感じていた。


ここから出たい。いつか見た魚たちが向かったであろう場所、男が見つめていた場所。


この場所からは線路など一本しか伸びてはいないのだ。


無限の選択肢から選ぶわけではない。


霧はだんだんと晴れていく。


雨はどんどん弱くなる。


選択肢は二つだけ。


みかんかオレンジかを選ぶようなものだ。


私はホームから線路の先に視線を伸ばす。


雨が上がった。


駅舎に戻ると男はまた勝手に料理を始めていた。


「あはは、ひどいね。傘をさせばよかったのに、びしょびしょだよ?」


男は笑いながらテーブルに置いておいてくれたのだろうタオルを指さす。


「とりあえず軽く水滴おとして、お湯張ってあるからお風呂入ってきな」


男はお風呂まで用意してくれていたらしい。


まるで私がお客さんになったかのようだった。


「ありがとう」


言いながら髪をタオルで拭く。


タオルが私の髪や肌を撫でると、やわらかな暖かさが体温の低下を感じさせる。


今まで自分がやっていたことをされる側になるのは照れるようなもやもやを感じるが


男にお礼を言って素直に甘えさせてもらう。


お風呂を上がると部屋には微かないい香りがふわふわと浮いていた。


「君好きでしょオニオンスープ」


この男は本当に人の頭を透かしているらしい。


「あんまり時間なかったから君が自分で作るものには負けるかもしれないけど美味しくできたと思うよ」


ついつい釣られて鍋を覗きにキッチンに入る。


鍋から立ち上る香りでわかる美味しい。


男は自分をシステムなどと言っていた。


きっと料理も最高にうまく作れるのだろう、ずるい。


「感想は味のことも含めて後で聞くから今はお皿運んでもらっていいかな?」


私の対抗心に火が付く。


明日の朝は私の本気の料理を食べさせてやろう。


「楽しみだね」


心の声を読むのはやめてほしい。


「君はあまり自分の考えていることを話してくれないからね」


「これからはなるべく話すようにしようと思うからやめて」


「そうだね。失礼だった、ごめんね」


男は何かに納得しながら最後の料理を運び席に着く。


テーブルの上には鶏肉とジャガイモのホイル包み、オニオンスープ、


生ハムとサラダに見たことないワインも並んでいた。


「「いただきます」」


スプーンを取りまずはスープを口に運ぶ。


やはりとても美味しい。


口だけではなく体全体にしみる優しい味だ。


「さあワインも開けようか」


男は栓を抜き私のグラスにワインを注ぎ始める。


「決めたんだろう?これからの自分を。なら今日は祝わなきゃね」


「そんなこと言ってあなたが飲みたいだけでしょう?ここにはお酒はなかったはずだし」


まあまあ、良いじゃないと男は適当にごまかした。


男がワインを注ぐ間にスープを急いで口に運ぶ。


男は二つのグラスにワインを注ぎ終えグラスを差し出してきた。


手で軽く制止しながらホイル包みを二口ほど口にする。


男は気づかなかったのだろうか、


私はお酒は嫌いではないがとてつもなく弱いのだ。


「どう?美味しいワインだろう?」


そうね、とても美味しい。


アルコールは私の舌と喉を刺激しながら体内に侵入する。


「とても、美味しいわね」


一口飲んだだけで思考から言葉にするまでのタイムラグが発生する。


二口目で私の体には翼が生え頭の中の花畑は咲き乱れていた。


「うぅ…」


とてつもない渇きを覚え意識を取り戻す。


テーブルではなくベッドだ。


自力でたどりついたのだろうか、男が運んだのだろうか。


外はまだ月と星が静かに海を照らしている。


ぼんやりする視界で窓からぼんやり入る月明かりを頼りにふらふらとキッチンに向かった。


水をコップに汲み一杯。


もう一杯飲んだところでシンクにもたれかかる。


頭が重い。


と、換気扇が回りっぱなしである。


男も酔っていたのだろうか。


人が泥酔しているのを見て普段通りにお酒が飲めたとは思えないが。


換気扇を止めるついでに立ち上がる。


さて、もう一度寝ようか。


私はベッドに再び入りながら体内時計をセットした。


翌朝、その日一番の海鳥が鳴くより少し前。


月は海に帰り太陽が顔をのぞかせるほんの少し前、静かに駅に列車は滑り込んだ。


押し分けられた水は音もなくホームに吸い込まれる。


音もなく開いたドアは冷たくも見える白い明りで照らされた車内に一人吸い込んでまた閉じた。


沈む月を追いかけるように列車は走り出した。


窓から入り込む太陽に顔を焼かれる寸前に私は起きた。


暑さと睡魔に負け顔まで布団を被るといった愚行をしなかったのは昨晩


男に本気の私の料理を作って見せると誓ったせいである。


体内時計はセットしたはずの時間から多少ずれ私の顔に太陽が覆いかぶさることになったが


男が料理をしている気配はしない。


結果良ければすべて良しである。


夜中起きたときになぜか部屋まで持ってきたコップを持ち部屋を出る。


リビングのテーブルの上には小鍋と封筒が置いてあった。


夜中起きたときにこんなものはあったかと鈍い頭を動かしてみるが記憶にない。


薄々と察した封筒はまだ開けずにまず小鍋を開ける。


中は昨晩のオニオンスープだ。


小鍋を火にかけ、その間にクロワッサンを一つだけオーブンで少し温める。


後はミルクをコップに注ぐだけだ。


「本気の料理はまた今度だ」


独り言というには大きすぎる発言で自分の決意を固める。


一瞬で胃袋に朝ごはんを収めた私は片付けもせずに荷造りを始める。


すでに遠くでは列車が波を切る音が聞こえる。


荷物は多くない、急がなきゃ。


最後に封筒をバッグにしまいドアの前に立つ。


ほぼ同時に列車は波しぶきを派手に上げながらホームに滑り込む。


「行ってきます」


一人の私から一つの歯車だった私への挨拶だ。


ドアを開けると私は振り返ることなく列車に乗り込んだ。

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