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アリスはライトの後ろへ身を隠し、彼の服の裾を強く握った。
いつだって守ってくれる絶対の信頼を置ける広い背中。
どんなに怖い場所でも、ここ居れば安心できる。
だからアリスはかろうじでパニックにはならなかった…が、この動揺は隠せなかった。
(なななな何事?!)
両側にはずらりと並ぶ数えきれないほどの店々と、大通りを埋め尽くす人。人。人。
店主との値引きが決裂したらしい男の怒声。
集まる女性グループから突如あがる甲高い歓声。
耳に届く人の言葉は、アリスには聞きなれない乱暴な言葉づかいだ。
雑多すぎる庶民の世界に、静寂な籠の中で育ったアリスは完全に気おされていた。
夜会や舞踏会さえ騒がしいと倦厭しているアリスには相当な衝撃だ。
「大丈夫ですか?」
どことなく涙目になっているアリスに、さすがのカミーユも気を使った言葉をかける。
普段より質素な裾と襟にレースがついた白いワンピース姿のアリスは、恰好で言えば裕福な農民の娘か、もしくは下級貴族の令嬢に見える…はずだ。
生まれ持った気品や人並み外れた容姿などはもう繕いようがない。
「え、えぇ。…カミーユ様は慣れた様子ですね?」
「私はむしろこう言う場の方が落ち着きます」
「……本当に?」
こんな雑多な場所で、どうやって落ち着けと言うのだ。
疑わしげな目をアリスはカミーユに向けるが、残念ながら本心なようで相手は苦笑を浮かべていた。
「身分や栄誉、生まれや血などなく、ただありのままでいても良い空間ですからね」
「………」
(ありのまま)
アリスはエメラルドグリーンの目を瞬かせ、カミーユの言葉を頭の中で繰り返した。
隠れていたライトの背中から、そうっと顔をだして周囲を見渡してみる。
活気に満ち溢れた市場で誰もが生き生きとして映った。
----ほぼ全てが平民なこの場では誰がどれほど偉いかなど気にする必要はない。
不作法も無遠慮も、誰も気にはしないのだ。
たとえ意見が食い違って喧嘩が起こったとしても、数時間後には酒を飲みかわして笑いあう。
そんな気の知れない人たちの集まりがこの場所だ。
「………あっ!」
ぼうっと辺りを観察していたアリスが、突然声を上げて握っていたライトの服の裾を離してしまう。
側近たちが止める間もなく、彼女は数歩先の店の軒下まで走って行ってしまった。
色取り取りの花が並ぶ可愛らしい小さな店だ。
「花屋、か」
「殿下らしい」
ライトとグローリアは思わず吹き出す。
阿吽の呼吸で言葉で確認するまでもなくライトが迅速にアリスの後を追う。
グローリアは残り、呆然と立ち尽くすカミーユに声をかけた。
「とにかく緊張が解けたようで何よりです。-----カミーユ様、もし目的の店などあるのでしたら遠慮なく申し上げてください。主張しなければ殿下に引きずられて一日を終えることになりかねませんから」
「私は下町は歩きなれているので特に…。あぁ、でも他国の商人が珍しいものを売りに来ていないかくらいは見てみたいですね」
「かしこまりました。アリス王女殿下が落ち着いた頃に促してみます」
「お願いします。-----それにしても、王女殿下はいつもああなのでしょうか」
「ああ、と申しますと?」
首を傾けるグローリアに、カミーユはわずかに眉をひそめる。
「普段はこう…王女らしく冷静沈着な自信家ですよね。なのに植物や薔薇など興味のあることに触れるときはもう子供みたいにはしゃいで目を輝かせて」
そして今日は、人の波におびえて不安そうにする弱さも垣間見てしまった。
---カミーユの台詞に、グローリアは平常を保ちつつも内心驚いていた。
アリスがカミーユの屋敷を訪れて2人で過ごすとき、グローリアもライトも彼女の希望で同席していない。
だからそれ程までにアリスが気を許して、カミーユの前で王女の仮面を脱いでいるのを知らなかったのだ。
「……ライトが動揺するわけだ」
最近酒の量が明らかにふえた相棒の心中を思って複雑に笑う。
「あの?」
「アリス王女はカミーユ様のことをとても気に入ってらっしゃる様子。どうかこれからも気にかけて差し上げて下さい」
「……半年の、約束ですよ」
カミーユの呟きに、グローリアは何も言わなかった。
何とも表現しがたい空気が流れ始めたとき、ライトに引っ張られてアリスが戻ってきた。
ライトの手には茶色い紙袋が抱えられている。
どうやら早速何か見つけたらしい。
---しばらくして、バザールの雰囲気にも慣れてきたころ。
昼食にと選んだのは、紙に包まれた小麦粉の生地に肉と野菜を挟んで撒いたルターノと言う食べ物だ。
「---美味しい!」
それは大衆向けの軽食で、アリスには初めてのものだ。
王宮では手でそのまま食べるのはサンドイッチなどのパン類くらいだった。
慣れていないアリスは野菜の切れ端をこぼしてしまったりと手間取ってはいたけれども喜んで大口を開けて口へ運ぶ。
「王宮の料理もこういう片手間で食べれるの増やせばいいのに」
歩きながら片手で持って食べられる。
なんて気軽な食事方法なんだろうと関心さえした。
「いや、そこは下品だと嫌がるとこだと思いますが」
食べ歩きをよろこぶ王女殿下っておかしくないかと呆れた様子を見せるカミーユに、アリスがルターノを頬張りながら視線を向ける。
「---カミーユ様ってそう言うところありますよね」
「そういうところ?」
「王女ならこう言う反応をするべきだ、とか。私が王女らしさから少し外れただけで変な顔してらっしゃいます」
「……否定したわけではありません」
「ですね。ただ想像と違って戸惑っているだけって風で、だから私も嫌な気持ちにはなりません」
アリスの言葉を聞きつつも、彼女のように四苦八苦することなくとても綺麗に食べ終え、包み紙を丸めて近場の屑箱に投げ入れるカミーユ。
その動作をアリスは口を動かしながらもなんとなく観察していた。
(すごく…馴染んでる)
「そもそも伯爵子息であるカミーユ様自身が下町に慣れていたりと普通から外れていますから、他人をどうこう思うほうが私的には疑問ですけど」
こう言う雑多な場が落ち着くとは聞いたばかりだが、そんなに頻繁に来ているのか。
どうやら見た目に反してアクティブな行動派のようだ。
「……?どうしました?とても変な顔でこちらをみて」
「いえ、…観察眼に驚いていました」
「それは、えーっと、ありがとうございます?」
間違った返事のような気がしたが、なんとなく流れで礼を言ってしまった。
こてんと首を傾ける、冷たい容姿には似合わない幼い動作にカミーユが小さく吹き出す。
そして後ろを歩くグローリアやライトには聞こえないくらいの小声で彼は呟いた。
「あなたには、知られたくないことばかり知られていますね」
「?」
「王女ならこうあるべき…と言うのは、私が自分自身に対して伯爵子息ならこうあるべきだろうと思って行動しているからでしょう」
「っ……」
まるで----、伯爵家の子息を意識して演じているような言い方だ。
アリスはルターノを食べるのも忘れて、カミーユを凝視した。
何か言わなければと口を空けるが、刺激すればどんな反応が返ってくるか予想もつかず、間抜けにもぱくぱくと口を動かすだけになってしまう。
「あの! って、え…?」
それでもなんとか言葉を発した。瞬間、どうしてか衣服が下へ引っ張られる感覚がした。
一体なんなんだと下を見ると、アリスのワンピースの裾を引っ張る小さな手。
「……はい?」
くすんだ金茶の髪をした5・6歳と思われる少年だ。
目に涙を浮かべていて、いまにも溢れ出しそうな状態。
想定外の相手に対人スキル平均以下のアリスは動けず、エメラルドグリーンの眼を少年に向けたまま固まった。
そんなアリスの前に素早く出て、腰を下ろし少年と同じ高さになって話しかけるのは、アリスの保護者役でもあるライトだ。
彼は大きな手で少年の頭を乱雑に撫で、安心させるように優しく問うた。
「どうした坊主。母ちゃんは?」
「---かあ、ちゃ…」
くしゃりと少年の顔がゆがみ、大きな目からぽろぽろと涙が流れる。
「あー…これは迷子決定だな。アリス殿下どうしましょう?」
「うーん」
(これが噂に聞く迷子と言うやつか)
なんてタイミングで都合よくやっかいごとに巻き込まれるのだろう。
(普通は可哀想とか、思うべきなんだろうなぁ)
残念ながら少年の泣くほどに不安な気持ちはアリスには分からない。
人間らしい気持が麻痺してしまっている自分に、改めて気づかされた。
「…ライト、この子の親を探してきてくれる?」
「え?いや、でも」
ライトはアリスの護衛だ。
出来るならば離れたくないと彼の表情が物語っていたが、アリスは苦笑してグローリアを振り返る。
「グローリアがいるから大丈夫」
「よほどの人数で無い限り、グローリアが守りきれないなんてありえないでしょう?」
「---わかりました。急いで行ってきますから、くれぐれも大人しくしていて下さい」
「わかったわ」
アリスがしっかりと頷くのを確認して、ライトは少年の手をとってその場を離れた。
-------十分後。
「あぁ、もう。抜かったわ!」
自分の考えの浅さにアリスはひとつため息をついた。
カミーユも前を見据えたまま、アリスと同じように息を吐く。
「あなたが悪いわけではありません。…こんなこと、誰も予想していませんから」
「ですね。お二人とも気を抜かないでくださいね」
アリスとカミーユの前に出たグローリアが、なめらかな動作で腰から剣を抜きながら言った。
「なんだなんだ、お姉ちゃんが相手してくれんのか?」
「ははっ!多少は慣れているようだが、この人数じゃなぁ!」
「いたぶるのも面白そうだ!」
彼女たちの目の前には下品な笑いを浮かべる数十人の屈強な男たち。
すでに逃げ場のない路地裏に追い込まれた。
地理的に有利な彼らは、もとよりここにアリスたちを追い込むよう計算していたのだろう。
「ライト抜きでこの人数。少し厳しいわよね」
「………」
小声で指摘するアリスの声に、グローリアが剣を握る手に力を込めて悔しそうに奥歯を噛みしめる。
側近二人の力量などアリスは十分すぎるほど知っている。
そのうえで、この人数はまずいと判断した。