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「一体何なのかしら」
棘が刺さらないように手袋を嵌めた手に持った剪定ばさみで、アリスが薔薇の枝を一本切り落とす。
続けていくつも枝を切り落としていく。
蕾のついた枝を落とすのは少し心が痛むけれど、美しい花を咲かせるために絶対に必要な作業だ。
どの枝を落としてどの枝を残すのか。
迷いのなく的確に剪定していく流れるようなアリスの手つきは、彼女がどれほどの年月それらの世話してきているのかを物語っていた。
この間は少し近づいたかと思ったけれど、次に会った時にはもう頑なに戻っていた。
かと思えば不意に見せる柔らかい笑みの優しさに動揺させられたり。
少し掴んだと思ったらするりと抜けていく不可思議な間隔に、アリスは毎回翻弄され戸惑っている。
「しかも、人使い荒すぎだし」
いくら身分とか気にしないで!と自分から宣言したとはいえ、普通は年頃の女の子に肥溜めを運ばせたりするだろうか。
アリスにとっては慣れた作業だったが、それでももう少し気を使うべきではないかと考えてしまう。
取り繕ってばかりなくせに、変なところで考えなしだ。
-----カミーユ・ベクレルの元に通い始めてからすでに1か月。
大体3日に一度程度の間隔で彼に会っていて、すでに10日程度一緒に過ごしているが、あまりの進歩の無さに、大好きな薔薇を世話しているにも関わらず、思わず盛大なため息を漏らしてしまう。
「そんなに厄介な坊ちゃんには見えなかったけどなぁ。にこにこ笑って良いやつじゃないか」
アリスの近くで手伝っていたライトがアリスの落とした枝を広い集めながら言う。
その言葉にジョウロで水を撒いていたグローリアが顔を上げて、サイドに流している前髪をかき上げてから口をはさむ。
「ライトは単純すぎ。あれはそうとう面倒な人種だよ」
「どの辺が?」
「笑っていながらも笑っていないのが」
「は? 何意味不明なこと言ってるんだお前」
本気で分かっていない風のライトに、グローリアは胡乱げな目を向けて首を横に振った。
「ほんとに…アリス以外には鈍感すぎる」
主人が相手だと指先のささくれさえ見逃さず直ぐさま手当に走る観察眼を発揮するのに。
ちょっと大丈夫かと心配になるほどにライトはアリスを気にかけている。
「まぁまぁ、グローリア」
二人のやりとりを見てくすくすと可笑しそうにアリスが笑いを漏らし、近くに置いていた小さな籠を手に取った。
「あのね、これを根元に埋めていってほしいの」
薔薇の間を縫って2人に近づき、籠の上に被せていた布を取り払い中身を彼らに見せる。
半透明の、一見すればキャンディのような色とりどりの小さな丸い球がいくつも入っている。
不思議そうな面持ちでライトが一つつまんだ。
彼が大きな手で太陽に翳してみると向こう側がぼんやりと透けて見えた。
「何だこれ」
「新作になる予定」
「綺麗な色だな。普通にキャンディだと思って食べてしまいそうだ」
「このままだと食べた瞬間に失神して、3時間後にはあの世行きね」
ライトの顔が一瞬にして青く染まった。
「恐ろしい。一体どんな毒薔薇を作るつもりなんだよ」
「このまま食べるとって言ってるでしょう? そもそも食べ物じゃないから。これを近くに埋めて育てれば砂糖菓子みたいな甘い味の薔薇が育つ。…かも」
「かも…?」
グローリアもひとつ摘まんで指先で転がしながら、アリスの言葉に首を傾ける。
アリスは気まずそうに視線をさまよわせた後、不満気に口をとがらせてそれを一掴みした。
「まだ開発途中だもの。この前に作ったのは何故かカレー味になったわ」
「カレー味の花、か…」
「面白いが。ちょっと売れそうには無いな」
乾いた笑いを漏らす側近たちに、アリスは一掴みずつ渡して肥料を押し付けて根元に埋めるように指示をする。
アリスを間に挟んで3人並んで薔薇園に腰を下ろした。
「ところでこのままだと死ぬものを植えて育った花がどうやって食用になるんだ?」
「企業秘密です」
「……俺にも秘密なのか?」
「ライトが寂しそうな顔しても可愛くないし。そうじゃなくて、色々複雑で説明が面倒なだけよ」
それぞれがキャンディのような物体を地中に埋めていく。
土に空けたくぼみに肥料を置き、そっと土をかぶせながらアリスは話題をもとに戻した。
「-----でね、信頼ってつまりどうしたら得られるのかって問題よね」
「人それぞれだろー」
「そうだけど…」
もうひとつ、スコップで土に穴を空けながらアリスは考える。
最初はカミーユの興味を引くために持ちかけた条件。
ここまで不確かで難しいものを得るのに、何をどうすればいいのか。
「ぶっちゃけ興味をひければ良かっただけで、方法まで考えてなかったのよ。簡単なのは時間をかけてじっくり相手と知り合う方法だけど。ガード固いし、信頼してもらうまで何年かかるのよって感じ。…でも今のようなただ通って研究を手伝ってって状況だと半年ではとても足りないわ------って何にやにやしてるのよ、ライト」
隣を見るとライトが頬を緩ませてアリスを見つめていた。
なんだかものすごく嬉しそうだ。
「いやいや、お前が人間関係で悩むなんてな」
「普段は他人なんて気にもかけないもんね。」
反対を向くとグローリアも微笑を浮かべている。
必要に駆られてとは言え、他人と関わり「どうすれば仲良くなれるか」なんて悩む様子が嬉しくて仕方ないらしい。
2人のまなざしにアリス小恥ずかしくなって耳元を赤く染め、顔を隠すようにうつむいてしまう。
「もう、まじめに考えてよ」
「そうは言ってもな。俺たちはほとんど会話もしていないし」
「アリスが一番傍でずっと手伝っているんだから。どうしたらいいのか分からないの?」
「…まったく思いつかない」
今日何度目かわからないため息を吐きながら、ころりとキャンディもどきを土に転がした。
人と仲良くなるのは、アリスにとってとても難しい議題だ。
この世に正を受けて18年。
いまだ親しい友達が一人も居ないと言うこの状況が人付き合いの下手さを物語っている。
しばらく3人でうんうん唸って考えていたが、グローリアが思い出したかのように口を開いた。
「何かきっかけが必要だよね。たしか、今度城下で植物関係を集めた大きなバザールが開かれるはず」
「あぁ、あるな」
「バザール? お店が並ぶやつよね」
アリスはあまり馴染みのない響きに不思議そうに首をかしげてみせた。
王族や貴族の買い物は買いに行くのではなく商人が家まで売りに来るのが一般的だ。
たまにある店まで行かなければ手に入らない品物は、下の者に言いつけて買いに行ってもらう。
だから店に赴いての買い物はアリスはほとんどしたことがなく、しかもバザールなどと大規模な市場には足を踏み入れたことさえないのだ。
「アリスの好きな薔薇もあれば、カミーユ様の好きな薬学関係のものも沢山あるはず。誘ってみれば?何かきっかけになるんじゃないかな」
「バザール…」
自室と薔薇園、最近増えたベクレル伯爵邸以外の行動範囲がないアリスには未知の場所だ。
(…………)
グローリアの提案に、しばらく無言でアリスは考え込むように作業を続けた。
側近たちも習って無言のままで手伝った。
10分ほどして最後の一粒を埋め終えたとき、おもむろに立ち上がったアリスは2人を見下ろして口を開く。
彼女らしくはない、小さな、少しの不安を含んだ声で。
いつもは凛とした強い印象を与えるエメラルドグリーンの瞳が、わずかに揺れていた。
「行って、いいかな……」
それは、初めての体験に対する大きな戸惑いと、ほんの少しの期待を含んだ台詞。
側近2人は1歩を踏み出そうとする主にやさしく笑みを返し、姿勢を正して片膝をつく。
「「御意」」
主の望む場所に彼らは付き従う。
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----その日の夜。
王宮内に用意してもらっている部屋で、ライトは窓辺で月を眺めて一人で酒を飲んでいた。
すでに結構な量を飲んでいるのか、目元が赤らんでいる。
彼はさらに琥珀色の液体が入ったグラスを傾け、喉を鳴らして中身を全部飲み干してしまった。
「それにしても…」
ボトルを持ち上げてグラスにまた酒を注ぎながら、誰もいない空間で独り言をつぶやく。
アリスが出かけたいなんて言い出すのは初めてのことだった。
いくら好きなものがある場所であっても、自室と己の管理する薔薇園以外には寄りつこうとしなかったのに。
乗り気なのが物凄く稀で、驚いた。
それはとても喜ばしいことだが。
しかしライトやグローリアがどれほど言葉をつくしても、態度で示してもアリスは変わらなかったのに。
「あいつが一緒だからか…ちょっと複雑だなぁ」
自分に出来なかった事をあっさりとしてのけるカミーユを脳裏に思い描いた。
主を変える人物が、ひょっとすると現れたのかもしれない。
それはずっと願っていたこと。
しかしいざとなると手放すことが惜しいような。
様々な複雑な感情が混ざった心境で、ライトは苦々しく笑った。
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分厚い本を閉じて、凝り固まった背筋を伸ばしたカミーユはバルコニーへと続く大きな窓の外を見る。
満月。 月明かりも普段より明るく思え、机上に置いたランプ一つでも個人的には事足りた。
今夜は執務室兼研究室への立ち入りは禁じているので、ここだけは灯りは自分で灯さないと今以上に明るくなることは無い。
しかし執事が気づけば小言を言われるのが予想できるので、椅子から席を立って室内のランプへと一つ一つ火を灯していく。
(…面倒なことになったな)
カミーユは橙色の火の揺れをぼんやりと目に移しながら、近頃よく見る第三王女の顔を思い浮かべた。
「まさかこんなに頻繁に通って来るなんて。もう1か月だぞ?」
そう、1か月。
アリスは3日と空けずカミーユの元に通い、薬草園の仕事を手伝ったり、薬品棚や資料の整理を手伝ったりとカミーユの助手のようなことをしていた。
王女殿下が伯爵子息に使われるなど、公になれば問題ではないか。
一度訪ねたものの、誰も気にしないと一笑されてしまった。
たしかに彼女は王女にしては母親の身分の低さから愚弄されていて、守りになる有力者は本当に少ない立場だが。
「でも可笑しいだろう…」
王女としても、令嬢としてもおかしすぎる。
カミーユの人並外れた運動能力を見ても、驚きも泣きも騒ぎもせず、あっさりと受け流してしまったところも、何だかずれまくっている。
見た目はどこか冷たさを感じる、冷静沈着で抜け目ない印象を受けるのに。
土いじりが本気で好きで、薬学にも興味津々で、興味深くカミーユの資料を読む彼女のきらきらと輝く目は子供のように無邪気で楽しそうだった。
なによりも変に踏み込みすぎることはしない。
一定の距離を絶対に崩されないのに気づいた時、どれほど安堵したか。
(本当に、いろいろと変な王女殿下だ。)
だから調子を崩されて、ことあるごとに自分から素を出してしまっているのにもカミーユは気づいていた。
貴族社会で身に着けた社交辞令も笑顔の仮面も、彼女の前で崩れていっている現状が歯がゆかった。
にこやかに受け流せずに、ムキになってしまうのも一度や二度では終わらなかった。
「半年って宣言した以上、半年間は遠ざけるわけにも行かないし。厄介すぎる…」
5つあるランプすべてに火を灯し終ったカミーユは、窓へと足を向けてバルコニーへの扉を開ける。
「さっさと渡してしまった方が得策なのかもしれないな」
カミーユには、本当に薬を出し惜しみするつもりはなかった。
ただ最初に交渉にきた王子がものすごく鬱陶しく、気分をそがれてしまっただけだ。
アリスならばきちんと正しく使ってくれると思えるくらいにはなっている。
バルコニーへ出ると昼間より低い空気が頬を冷やした。
風が吹き、背中から冷たい感触が這い上がる。
手すりに手を添えて外を見渡すと、小高い丘の上に王宮がみえて、灯火をぼんやりと目で追いながら彼女は今頃寝ているのだろうかと想像してしまう。
手すりに擦れた上着から小さな音がして、カミーユは内ポケットから紙片を取り出す。
広げると風に煽られた紙片の端がゆらゆらと揺れた。
カミーユは紙片を持っていない方の手で文字を辿った。
--それはアリスからのバザールへの誘いの手紙。
(一国の女王がのんきにバザールにお買い物?)
のんきにでは無くアリスにとって一大決心だったわけだが、カミーユはもちろん知らない。
「まぁ、もう少しくらい」
もう少し、くらい。付き合ってみてもいいかもしれない。
この関係が終わることが少し寂しいと思う程度には、気に入ったのだと。
認めたくはないけれど。
認めるしかなかった。