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緑豊かな平穏な国、オティーリエ。
土壌の豊かさに恵まれたこの地は、多種多様な植物を品種改良により生み出す事で諸外国から知られており、薬用効果の高い薬草や、観賞用の華やかな花々や種、美味な果樹などの輸出で栄えた国である。
この産業の発展の為に王宮の一角には大規模な試験用の農園や薬草園がもうけられ、国内より厳選された王宮付きの学者達が日々研究を行っていた。
そんな王城深くに設けられた、よほど王族に近い人間で無いと入れない区画にある第三王女の居室を、20歳前後であると思われる男が許可も無しに勢いよく開けた。
「アリス!おい、アリス!」
男は声を上げながらも室内を見回して鼻をひくひくと動かしてから、何とも言えない渋面顔を作って首を振る。
彼が嘆くのも無理はない。
残念ながらそこは、本来あるべき『優雅なお姫様の部屋』では無かった。
世の乙女たちが夢見る姿とは、ぐるっと180度ずれてしまった世界が広がっている。
机上に山となった実験道具。
室内のあちこちに散らばった分厚い書物や資料。
得体の知れない粉や液体の入ったガラス瓶や小袋。
そんな物に占領された第三王女の居室は、なんとも言えない薬品臭さが充満していて、慣れているものでも鼻をつまみたくなるのだ。
男に続いて、同じ年頃の長身の女も室内に入って来た。
赤毛を頭上高くで纏めた彼女は、女性ながらズボン姿で腰には長剣を佩いていて、背筋の伸びた凛とした佇まいだ。
先に室内にいた男と同じように周囲を見回したものの、しかし無表情なまま腕を組んで壁に凭れてしまう。
「おいおい。俺に任せた、みたいな態度はやめてくれるか、グローリア。」
「こう言う時のアリスの扱いはライトの方が巧いでしょ。」
そっけなく言い放ち、壁際から微塵も動こうとしないグローリアに、ライトと呼ばれた男は小さく舌打ちをして主人の座る大きな執務机まで歩を進めた。
彼ら2人の主人である第三王女は、側近2人が室内に入ったことにも未だ気づいていないようだ。
身の丈より大きいだろう白衣を羽織り、何やらぶくぶくと泡立つ深緑色の入ったガラス瓶を、王女は微動だにせぬまま見つめ続けている。
その目元にはありありと薄黒い隈が出来ていて、長い黒髪は乱雑に後ろに纏められていた。
「アリス」
「……ぅん」
一応の生返事はするものの、第三王女アリス・オティーリエのエメラルドグリーンの目は一心にガラス瓶に注がれている。
そんな彼女の様子にライトは苛立った様子で、短く刈り上げた己の茶髪の後頭部をかき乱した。
あからさまな溜息を吐いてから、主人であるアリスの襟元を力強く掴みあげ、勢いのまま持ち上げる。
さながら首根っこを掴みあげられた猫のようだ。
アリスが小柄な少女で、反してライトが国王付きの近衛隊長である彼の父親にそっくりのごつい体格だから成り立つ状況だろう。
「何するの、今いいとこなのに!」
ここで初めてアリスはライトを振り向き、地に付かない足をバタバタとさせて足掻くのだった。
「いいとこだと? ほーう。」
ライトの口調の色の変化に気付いたアリスは、足掻くのを止め彼の顔を窺い見た。
扉近くの壁に凭れているグローリアが、小さく噴き出す音が聞こえた。
ライトは眼を細めて口端を上げている。
表情は笑っているのに明らかに怒っている。
それはもう。もの凄く怒っている。
「あ、あの…。」
「俺が昨夜ここに来たときも、お前はまったく同じ姿勢で、同じことをしていたな。」
「えーと、そう…かも、ね。」
「確実に寝てない、食べてないのはもう分かりきっている。我らが王女殿下は一晩中ずーっとひたすら、この煮え立つ液体を見つめ続けてたんだろう?」
「う……。」
「…っ、このアホ!!!」
臣下が王女に向けていい言葉で無いことは確かだった。
でも長年の付き合いである彼との間に変な遠慮は無用で、ライトが幾ら不躾な態度をとろうともアリスが罰することの無いのはお互い分かりきっている。
そしてライトが怒るのは、夢中になると寝食さえも忘れてしまうアリスの身体を心配してだと言うことは、もちろん分かっていた。
「…ったく。」
怒鳴った分落ち着いたのだろうか。また溜息を吐きながらも、ライトはアリスをそっと地へと降ろす。
普段は剣を振るう大きな手で机の上に落ちているいくつかの花弁の一枚を指でつまむ。
「今度は何を作っているんだ?」
「色が変わる薔薇よ。蕾のうちは赤色で、少し膨らんだ頃には桃色に、咲く直前は橙色…っていう風に変化するの。素敵だと思わない?」
語るアリスの目は輝いている。
アリスは薔薇専門の植物学者だった。
とある淡く光る薔薇は暗い夜をロマンティックに演出してくれる。
またある薔薇風呂用の薔薇は湯につけると1輪で極上の香りが浴室内全体へ広がった。
その他の様々な品種の薔薇を生み出し世に出していて、とりわけ年頃の令嬢達からの評判は上々だ。
「あぁ、成功するといいな。だが今は…ほら、侍女に食事を用意させるから。」
食器を乗せる余裕も無い机の上を開けるため、ライトがおもむろに片付けを始める。
しかも止める間もなくぐつぐつとガラス瓶を煮立たせていたアルコールランプにも蓋をして火を消してしまった。
「ああー!まだ途中なのに!」
「時間切れだ。今日は国王陛下に呼び出されているだろう。食べて湯浴みして着替えてギリギリ間に合うかどうかだな」
「あー…そっか。それでライト達が呼びに来たのね。ありがとう」
「どういたしまして。…しかし本当に一睡もしてないんだな。そんなクマ作った顔で陛下の御前に出るつもりか」
「あら、女には化粧と言う魔法のアイテムがあるのよ」
「なるほど。確かにあれは魔法だな」
「……」
文句を言う代わりに、ライトの足を思いっきり踏みつけてやった。
「っ…!」
もんどり打ち足の小指を抑えて床に座り込む側近の頭に、脱いだ白衣を乱暴に放り投げてやる。
行儀悪く鼻を鳴らしてから、未だ扉近くで壁に寄り掛かって傍観したままのもう一人に視線を送った。
「先に湯浴みしてくるわ。グローリア、来て」
アリスは後ろ髪を結んでいた結い紐をするりとほどくと、長い黒髪を翻して隣にある寝室から続く湯殿へと向かうのだった。
グローリアに呼んできて貰った侍女たちに身支度の準備を頼んでからアリスは湯殿に入った。
脱衣場には警備の為にグローリアが立っている。
けれど、ゆったりのんびり湯に浸かりたい派のアリスの意向で、グローリアも他の女官たちも中まで入ってくることはまずあり得ない。
衣服を脱ぎ、丁度良い温度に調節された湯につかり、アリスは安堵の息を吐く。
「はぁー。気持ちいい…」
何せ一晩中同じ姿勢で同じものを見ていたのだ。
身体も目も凝り固まっていて、湯の温かさにほぐされていく感覚が心地よい。
手のひらで掬ってみた湯はほのかに紫色を帯びていた。
鼻をくすぐる香りに、アリスの好きな花の入浴剤を入れてくれているのだと気付き、これを入れるよう指示をしてくれただろうグローリアの心遣いに頬が緩む。
時折響く水音に耳を傾け、静かな水面から立ち上る湯気をぼんやりと目で追った。
湯気が天井近くで消えて行くのを見送りつつ、アリスは一人思考を巡らせる。
「お父様からの呼び出し、ねぇ…」
改まって呼び出すからには何か用事があるのだろう。
しかし一応は王女と言っても、アリスの母親は側室で身分の低い女で、娘であるアリスの王族としての価値はかなり低い。
だから父がアリスに何かを望むことはとても珍しいのだ。
-----薄赤色の唇が小さく動く。
「優秀なお兄様やお姉様が動く価値も無いことかしら」
薔薇の彫刻が施された白い石造りの空間に、鈴を鳴らしたような凛とした声が放たれて消えた。
声の主である彼女の表情からは、一切の感情もうかがい知れなかった。




