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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

ぽんこつスパイとその仲間たち

作者: #ラティ
掲載日:2026/08/04


 大きな国のある場所に私は生まれた。

 スパイの母と父。10にんきょうだいの、したから3番目。

 小さい頃から訓練を受けて、組織の役に立つ。それが仕事。

 私は一番の役たたずだった。

 スパイの子供たちが受けるテストでは、赤点ばっかりで、実践ではミスをして。歳下には追い抜かされた。

 辛いとすぐに涙が溢れて、弱くて。ムチで叩かれしつけをされた。

 失望されるのが、仲間外れにされるのが怖くて、私は頑張った。


「逃げ足と耳の良さだけが取り柄なのに、それすらも活かせないなんて、ゴミ娘だな」


 私がなんでもできる娘になれば、認めてもらえる。褒めてくれる。だから私は頑張るしかない。


 17歳の誕生日。

 両親が私に言った。「今回の任務を成功させることができなかったら、お前はもう家族ではない、消えてもらう。最後のチャンスだ」


 冷たい視線だった。必死に頷いて、笑顔を浮かべる私には目もくれず、スタスタと去っていく。

 大きな背中に、声をかけることは出来なかった。


 ***


 機密情報を集めてこいと送り出された場所には、巨大な建物があった。偉い人がいるところに向かうため、隠れながら中へ入った。途中、人と鉢合わせそうになり、天井裏によじ登った。

 心臓がバクバクとうるさい。見つかってしまったら、全てが終わる。

 隙間を、這いつくばりながら進んでいたら、自分がどこにいるのか分からなくなり、持ってきた地図を見る。

 けれど、暗くて何も理解できない。内ポケットに入れていたライトも、狭くて取り出せない。

 このままここで死んでいくのかもしれない。そう思ったら、悲しくなってきて視界が滲む。目元に、黒い髪の毛先が張り付いてきて不快だ。瞼をきつく閉じ、顔を伏せる。

 その時、遠くから、微かな話し声が聞こえてきた。低い、男の人のもの。手がかりが掴めるかもしれないと、私は少しずつ近づいた。


 会話内容は徐々にはっきりしてくる。


「マージで勘弁してくださいよー、あれは私だけのせいじゃないじゃないですか。たしかにボスにベタベタしようとしてましたけど、その前に私が取り押さえましたし。ひろい心で見逃してくれません?」

「人差し指が俺の腕に触れた。おかげであの服はゴミ箱行きだ。だから行きたくないと言ったんだ。あんなメスがうじゃうじゃいる場所には」

「でも、あの女は私が始末しましたし、もう良くないですか? というか、私的にはこの前の場所は最高でしたけどねー、おっぱいでかい女がたくさんで」


 小さな隙間から明かりがもれているが、様子は見れない。ただ、会話からして、野太い低音ボイスの方が偉い人だということはわかった。

 迷子になって良かったかもしれない。

 雑談ばかりしていて、重要な情報が得られないなと、耳を傾けながら思う。

 じっとしていたら、突然、「ネズミだ」と低い声で言い出した。私は、え? と首を振る。

 そして次の瞬間、バンバンと銃声が響いた。

 数秒してから、体が前に傾き始める。疑問に思っているあいだに、眩しい光が目に突き刺さった。

 気づいたら、天井から落ちていた。


「うわっ、ちっこ。ガキじゃないですか」

「刺客かなんかだろう、捕まえて尋問しとけ」


 お腹を見せた犬のポーズの状態になっている私に対して、先程の声の主たちは冷静に見下ろしてくる。

 私は慌てて飛び起き、壁の隅に寄った。

 視界には、黒くて短いかき上げヘアで、真っ黒なコートに、首元まできっちりしめた黒いネクタイ。彫りが深い顔の、墨色の目の男がいた。口角は下がっていて太い眉毛はつり上がっている。座って腕を組んでいるから、正確な数値は分からないけれど、多分身長が2メートルくらいある。

 隣には、180センチ後半くらいの男の人。こちらは、かっこいいより綺麗な容姿だった。すらっとして高い鼻と、つり上がった橙色の目。後頭部を刈り上げた、ベージュのマッシュヘア。ネクタイはなく、黒いスーツを身につけている。

 こちらに銃口を向けながら、首の後ろをかき、うへぇとめんどくさそうな表情。


 絶体絶命。

 私は壁の端から端を全力で走り、両手足を使って、壁によじ登り逃げ回った。


「うわ、すばしっこ。ゴキブリみたいなんですけど、こいつ」

「おい、やめろ。汚いもの思い出させるな。そいつがこっちにこないように早く仕留めろ。多少怪我させたところで死にはしないんだから早くしろ。できないならお前の荷物を倉庫に移すからな」

「え、それはガチで嫌なんですけど、今もただでさえ狭いのに。というか、何発か弾外しそうなんですけどいいですか?」

「なんでもいいから早くしろ」

「へいへい。そう言って外したら怒るんでしょ」


 引き金をひかれる。

 温度のない瞳。


「ボス、さすがにそろそろその潔癖治した方がいいと思いますよ。まぁ……、無理か、知ってますけど」


 連続で撃たれた。

 最初はギリギリで避けたが、ふくらはぎと太ももにあたり、痛みに動きを止める。

 ギリギリと奥歯を噛んだが、ひっ、ひっと、息が漏れ出る。


「はーい、確保ー」

 

 足を抱えながらうつ伏せになる私を、マッシュヘアの男は、しゃがみながら掴んでくる。にやりと胡散臭い顔を向けられ、ぶわりと目から涙が溢れた。


「うっ、ひっ……ひっぐ……、じ、じにだぐないでず、ごごのままだっだら、み、みどめでもらえない」

「え、えぇ、ガチ泣きされてもなぁ。なんのことか分からないし。それに、死にたくないならこんなことしなきゃ良かったのに。とりあえずまだ殺しはしないけどさー、一旦泣きやめない? 今ボスちょ〜機嫌悪くて、私も首きられそうなんだよね」


 泣きやみたいが、恐怖と痛みで止まらない。

 数秒してから、ギッと音がして、ボスと言われている人が立ち上がった。

 距離をあけ、無表情に私を眺めながら口を開く。


「血も涙も流すな、床が汚れる。声も出すな、気持ち悪い。殺すぞ」


 あまりの圧に、一瞬、体の力が抜ける。

 そして、気づいたらズボンを濡らしていた。


「あら〜、漏らしてますけど」

「おい、ふざけるな……! とっとと連れ出せ、着替えさせてから牢にぶち込め。俺は風呂に入ってくる。部屋も掃除させろ。最悪だ。ろくな事がない」


 鬼の形相でボスらしき人は立ち去って行く。残された私は固まったままだ。マッシュヘアの人は、はぁとため息をついてから立ち上がり、伸びをした。


「……じゃあ、とりあえず着替えましょっか」


 ***


 黒い服を着た女の人たちが何人かやってきて、着替えさせられた。傷も軽く止血されたが痛みは続いている。

 そのまま牢屋みたいなところに連れていかれて、両手首を鎖で拘束された。腕を上げている状態だ。

 涙は止まったが、目が腫れぼったい。

 俯いて時間を過ごしていると、足音がひとつ近づいてきた。


「まだ意識ある〜? あるね、良かった良かった。まぁ、骨には当たらないように撃ったから、喋れるでしょ?」


 下唇を噛み、顔を向ける。

 立っていたのはマッシュヘアの人だった。


「はい、じゃあまず、どうしよっかなー、ガキをいたぶる趣味はないんだけどね。仕方ないか」


 男は眉を下げながら、ためらいなく持っているナイフで私の太ももをプツリと刺した。風船みたいに、丸く血液が溢れ出す。

 

「どっからきた? 名前は? さっさと答えないと、足使いもんにならなくなるよ」


 肩が震える。

 答えたくない。でも、歩けなくなったら私はどうやって基地に帰ればいいんだろう。

 沈黙が流れる。

 ブチりという衝撃がそれを破った。


「いっ……ぁ……!」


 たまらず喉を逸らし、口を開ける。


「早く言ってくれないかな〜。そうしないとボスがきちゃうよ。ガチ切れだったから、尋問する前に殺されちゃうかも」


 勘弁してほしいんだよねー、後処理は私がやらされるんだから、と、続けて喋っている。

 殺されちゃうかも。

 その言葉が頭の中で反芻する。拷問は辛い。怖いことも避けたい。でも何より、家に帰れなくなることの方が嫌だ。

 私は任務を遂行しないといけない。達成したら、家族に認められて、褒めてもらえるから。

 死なないために自分の良いところをアピールしなければ。

 小さな脳みそで私なりに考える。震える唇で、懇願した。


「わ、わた、私っ、み、耳がいいんです。足もはやいし、まだ。まだ死にたくない! だ、だから私を仲間にしてください!」


 目の前の男は、一瞬口をぽかんと開け、その後すぐにニッコリと笑った。

 太ももからナイフが抜かれる。安堵する間もなく、もう一度、違う箇所を刺された。


「ひっ……ぅ」

「私は情報を聞いたんですよ、命乞いしろとは言ってない。それに、足が早いはまぁさっきのゴキブリみたいな走り方で何となくわかるけど、耳がいいって、どうせ大したことないでしょ」


 何回も同じ部分をえぐられ、目の前がぼやけてなにも見えない。


「ほっ……ほんとです! う、あ、え、えっと……上からは、ガチャガチャした音が聞こえて、人が、じ、銃が一個なくなったって、しゃ、喋ってます。あ、あとは、えっと……もっと奥からは、物音とかはないけど、時計が動いてる音がします」


 溢れ出た涙と鼻水が口の中に入るのも気にせず、私は耳に入ってくる全ての情報を1個1個説明していった。

 軽薄な笑みを浮かべていたマッシュヘアの人の表情が、だんだんと無にかえっていく。


「……は? 武器庫は2階で、ここは地下だよ? そんな適当言われても、信じられるわけないでしょ」

「あ、あと、他には……えっと」

「私の話聞いてる?」


 眉間にシワをよせ睨まれる。

 拷問してくる人の後ろ、数十メートル先から、カツンカツンと重厚な音が響いてきた。

 聞き覚えがある。

 殺すぞと脅してきた、背の高い男のひと、この組織のボスらしきひとのものだ。

 こちらにやってくる人物の正体に気づいた私は、口を開け、声を絞り出した。


「うっ……あ、あの! い、今、怖い男の人がこっちにきてて、私、仲間になります。な、仲間になるので、言うこと聞くから、殺さないでください! 私を殺さないように言ってください!」

「……いや、怖い人ってだれのことですかぁ〜? てか、なんも聞こえないんですけど、そういう病気?」


 マッシュヘアの人は、ため息をつきながら立ち上がった。頭を乱雑にかきながら、めんどくさいなぁー、とか、もう殺しちゃった方がはやいな、とかぶつくさ喋っている。私は身をよじりながら逃げられないかと考えた。けれど、ガシャガシャと鎖がぶつかるだけで腕が外れる様子はない。


「あー、ちょっとちょっと、暴れないでもらっていい?」


 しゃがみ、私の顔を正面から見てくる。腕が伸びてきて、反射的に瞼を閉じた。

 その時、不機嫌そうな低い声が響いた。


「ルカ、もう終わったんだろうな」

「げっ……」


 この場所のボス……怖い人が、辿り着いてしまったということが、姿を見なくてもわかった。空気が重い。指が震える。俯いたままでいる私の耳には、2人の会話が入ってくる。


「やば、マジで怖い人じゃーん……」

「あ? なに無駄口叩いてんだ。さっさと入手した情報出せ」

「いやぁ……それがですね、こう、調子が悪くて、情報がぜろ〜、みたいな?」


 バンという突然の衝撃音に、私は視線を向けた。


「ちょ、酷くないですか!? 急に撃つことあります? 仲間ですよ!」

「仕事が遅い部下の教育だ。わざと外してやったんだから感謝しろ」

「えぇー、それはどうも……って、ちょっと、私の言い訳も聞いてくださいよ」


 ボロボロの姿で震えたまま見つめていると、ボスが私を横目で睨んできた。


「言い訳? つまんないもんだったら承知しないからな」

「つまんなくなくても承知しなさそうですけどね……」

「なんか言ったか?」

「いいえーなんもー。で、このちっこいのが、尋問中に質問に答えなくて、何回かナイフでぶっ刺したんですよ。そしたら、自分は耳がよくてすばしっこいから、仲間にしてって言い出して、頭いかれて適当いってんのかと思ったんですけど。よく考えたら、捕まえる時、逃げ足は早かったなと思って、あと」


 ルカ、と呼ばれていたマッシュヘアの人が、人差し指を立て、上に向ける。


「2階にある武器庫から話し声が聞こえる。さらに奥からは物音がする」


 続けて通路を指さした。


「数分前には、足音がする。怖い人がくる。って言い出して、そしたら、ガチでボスがきたからびっくりしましたよ。いやぁ……建物内の地図でも頭に入れてんのかと思ったら、そういう訳でもないっぽいし」


 面白くないですか? とルカさんがヘラヘラしながら問いかけている。

 そして、2発、足元を銃で撃たれていた。


「えっ!? ちょ、ひどっ、なんでですか!」

「お前の顔がつまらない。癪に障る。笑うな。唾が飛ぶ」

 

 私のことを放っておいて、言い争いを始める。しばらくしてから、喧嘩が終わったのか、ふたりが私を見てきた。


「こいつはめんどくさいから殺せ」

「え〜……後処理とか諸々、めんどくさいのは私の方なんですけど。それに、情報収集手こずってたじゃないですか、このガキちょうどいいと思いますよ。嘘の情報だったとしてもないよりマシですし、弱っちいからいざとなったらすぐ殺せますし、誰かが見てたら何とかなるんじゃないですか?」


 ルカさんのフォローに(実際には都合が良かっただけだけれど)、私は涙が乾いて引きつった顔で、首を縦に振った。

 私を見ながらボスは眉根を寄せる。まるで虫を見るような目だ。


「ルカ、お前がめんどう見ろ、俺に近づけさせるなよ。役にたたなかったらすぐ始末しろ」

「へーい、了解です」


 踵を返し去っていき、残ったのは私とルカさんになった。小さな声で「あの」と話しかけると、ルカさんは私の

髪を勢いよく掴んできた。私が呻いたのと同時に、ブチりと音がして、毛がズレる。


「……あれ、カツラ?」


 地毛である、ブロンドのボブヘアではスパイ活動ができないため、私は黒いショートヘアのカツラを被っていた。染料ではそまりにくく、苛立った母が私に被せてきたもの。それが引っ張られた拍子に、地毛を数本巻き込んでカツラが外れた。

 私の髪をみたルカさんは、口をぽかんと開け、次の瞬間、苦虫を噛み潰したような顔をした。その表情の意図が読めず、今度は私が呆気にとられる。


「なにそれ地毛? ……はは、似合ってないね。てか、よりによって金髪かよ」


 ぎりりと唇を噛み、長いため息をつかれる。

 私は外れかけたカツラを慌てて戻し、何も言えず俯いた。


「金髪嫌いなんだよね〜、……はぁ、最悪なもん見た。本当にさいあく、まぁいいや。うん。どうでも、あ、ねぇ、名前は? 聞いてなかったよね」


 ルカさんもベージュのマッシュヘアだし、大して変わらないのでは、と口にするよりも先に、質問された。まだ少し機嫌が悪そうなルカさんに、小さく「ニナです」と答える。


「あ〜、にな、ニナね、了解。じゃあチビって呼ぶわ」

「え、え……?」

「いや、なんか呼びにくくて、チビのがよくない? 身長も私より30cm以上低いし。あ、私のことはルカさんって呼んでね、呼び捨てにしたら承知しないから。ボスにも、クロウって本名があるけど、ボスって呼ばないと、多分ボコボコにされるよ。あの人誰に呼ばれてもブチ切れるから」


 勝手に進んでいく話に、何とか相槌をうつ。それから、手首の拘束を外され、髪を掴まれながら立たされた。

 今日からは、常にルカさんの傍にいなければならないらしい。逃げないようにと、GPS付きの犬用首輪を巻かれた。私の仕事は、耳の良さを活かして情報収集をすること。

 とりあえずいまはやることがないみたいだったから、空き部屋に連れていかれた。

 犬小屋くらいの大きさだと思っていたら、想像以上の広さで、嬉しかった。


「窓とかはないけど、我慢してね、食事もたいしたもんじゃないけど、それに……なんでソワソワしてんの」

「え、あ、えっと、う、嬉しくて! こんな部屋初めてだから……!」

「いや、この広さで嬉しいってなに? 同情させようとしても無駄だからね」


 フッと、鼻で笑われた。一通りの説明をして、ルカさんは部屋から出ていく。ガチャリと鍵もしめられ、ひとりになってしまった。

 残された私は、最初はぐるぐる室内を徘徊していたが、やることがなくなってしまい隅っこにうずくまった。

 今のままじゃ、抜け出すことは不可能だ。たとえ逃げられても、得られた情報がないから、家族に認めて貰うことはできない。

 だからしばらくは大人しく捕まってるしかない。

 膝をかかえ顔を埋める。

 そして私はいつの間にか眠っていた。


 次の日の朝、ルカさんに首根っこを掴まれながら、よく分からない場所に連れていかれた。ルカさんが言うには、敵対組織のアジトらしい。

 安全な場所にいるルカさんに監視され、私はなんでもいいから聞こえたことを伝える、という役割をもらった。

 数十分ほどの間、じっと聞き耳を立てる。その後、聞いたままのことをルカさんに教えれば、どこかに電話しはじめた。


「誰と喋ってるんですか……?」


 暇になり尋ねれば、鬼の形相で顔面を鷲掴まれた。もごもごと口が動かせない。

 数秒間そのままの状態だったが、ルカさんは誰かと話終わったのか、端末を胸ポケットにしまった。そして私の顔から手を下ろした。


「はぁ……電話してる時、普通喋りかけないですよ。誰かに習わなかったんですか? それと、チビの声は高めなんだからもう少し小さく喋ってください。まぁ今のはギリギリセーフかな。でも一応ね」

「ご、ごめんなさい」

「あー、いい、いい、反省会したいわけじゃないんで、早く帰りますよ」

「え。そ、それだけですか? 折檻とかって……」

「はぁ? わざわざそんなんするわけないでしょ? チビは元からへにょへにょしてるみたいだし、毎回罰与えてたらキリがない、早く行くよ」


 強引に腕をとられ、目立たない場所に停められていた車に乗り込む。

 基地にもどってからも、叩かれたり、ご飯を抜きにされることはなかった。

 ホッとしたけれど、同時になんで何もないのか疑問だった。

 もしかして優しい人なのかな? 自分の部屋の壁に寄りかかりながら考える。けれど答えは見つからなかった。


 ***


 それから数週間が経った。色々なところに連れ回され、その度に私は耳の良さを活かして情報を集めた。

 ある日の夜、いつもと同じように大の字になって床で寝ていたら、扉の外から複数の銃音がした。次に、バタバタと何人もの靴音が響き、焦ったような声がした。

 何かあったのだろうか。体を起こし、扉に近づく。鍵がかかっているから、外に出て状況を把握できない。

 しばらくじっとしていたら人の気配が近づいてきた。足の歩幅的にルカさんだ。

 いつもはノックがあるから、今回もそうだと思って待っていたら、突然ドアが開かれ、扉と頭をぶつけた。べちゃりと尻もちをつけば、私の姿を見たルカさんに「何ぐうたらしてんの?」と怒られた。


 すぐに立って頭を下げようとしたら、勢いよく二の腕を捕まれ引っ張られた。


「えっ……あ、あの、ルカさん?」

「今、なんか侵入者がいるみたいだから、全員1回集まってるの」

「し、侵入者?」

「馬鹿な組員のひとりが、後つけられてるの気づかなかったんだって」


 早口で説明をするルカさんの髪の毛はボサボサしていた。少し息が荒いから、たくさん動いたのだろう。

 イライラが空気感から伝わってくる。


「どこ探してもいないし、こき使われまくってまじ最悪」


 私に向けてか独り言なのかは分からないが、そうなんですね……ととりあえず相槌をうった。

 早足でついていってる時、ルカさんの頭に目が止まった。何かがいる。モゾリと動いている。見間違いかと数回瞬きするが、やっぱり変わらない。

 じっと見つめれば、だんだんシルエットがはっきりしてきた。

 黒いモサモサとした毛をはやし、体と足の長さが同じくらいの、蜘蛛。

 私は一瞬悲鳴をあげそうになったが、唇を噛み耐えた。

 私の声は少し高めだから叫んだりなんてしたら怒られてしまう。


 黙ったまま観察していたら、蜘蛛が徐々に埋まり始めた。

 このままではやばいと私は手を伸ばした。


「……何ボケっとして——」


 ルカさんが喋りかけてきたが気にせず動く。するといきなり、腕に衝撃を受けた。

 何が起きたのか分からなかったが、視線を左右に動かしてやっと理解した。

 叩かれたのだ。


「さわんなっ!」


 ルカさんが言う。

 なんだか泣きそうな、悔しそうな表情をしている。

 謝罪の言葉を発さなければと考えてる間にとり残されてしまった。


 なんで怒らせてしまったんだろう。


 もしかしたら、私が汚いから嫌だったのかもしれない。それとも、やっぱり声が気持ち悪かったのかな。

 

 たくさん連れ回されたりはしたけれど、叩かれたり怒鳴られたりはしなかった。

 だから、ルカさんにはそんなに嫌われてないのかもしれないと思ったけれど、違うのかもしれない。

 怒らせちゃう私は役たたずだし、やっぱり殺されちゃうのかな。

 

 どんどん最悪な方に思考が引っ張られていく。

 とにかく謝りに行かなきゃと、重たい足を引きずりながら歩いた。


 どこに向かってるのかも分からないまま数分、見知った後ろ姿があり、少し離れた距離から声をかけた。


「……ご、ごべんなざい」

「うわっ……え、何、その顔」

「さ、さっぎはごめんなざい。ひぐっ……えど、あの、ぞの、ち、ちゃんど体はあらっでるので、きたなくないでず……ひっく……」

「いや、なんのはなし?」

「わだしが汚いから、ルがさんおごらせちゃって」

「あぁ……」

「ごめんなざい」


 鼻が詰まって息がしづらい。目も腫れぼったいし、声もくぐもってしまう。ルカさんは最初、私の顔にドン引いていたが、すぐに下を向き少し気まずそうにした。


「いや……別に、私も、まぁ悪かったんで。ただ髪の毛触られんの嫌なだけです。べつに汚いとか思ってないし関係ないです」

「か、かみのけ?」

「……嫌いなんですよ自分の髪。ほら、分かりません? 私、本当は地毛が黒で、染めてるから今こんなんなんですけど、汚いでしょ? そんだけの理由です。はい。こんなとこで喋ってる場合じゃないんですから早く行きますよ」


 再びひとりで歩きだそうとするルカさんを「なんでですか?」と呼び止める。

 

「は?」

「全然汚くないのに、すごく綺麗なのに」

「なに、バカにしてる?」

「違います! 本当にそう思うし……それに、羨ましいです。私、本当は黒髪になりたかったから」

「あぁ、それでカツラ?」

「はい……私だけ金髪だったから昔からバカにされてきて、カツラはそのせいで」


 私の話を聞いたルカさんは、片眉を上げ唇をもごもごと動かしたあと、腕を組みながら口を開いた。


「ぽやぽやしてるから、甘やかされて育ったのかと思ってたけど違うんですね」

「甘やかされてる、とかは分からないです……けど、やっぱ私、ぽやぽやしてますか? ちゃんと頭使えってよく怒られちゃうんです。1回も褒められたことがなくて、毎回叩かれたりしつけばっかりで、頑張ってるつもりだけどどうしてもうまくできなくて……」


 続く言葉が出てこない。重たい空気に耐えきれずわざと声をはりあげた。

 

「ルカさんは、凄いですね! テキパキ動けて、すごい、かっこいいです! 私もルカさんみたいになりたい……。家族に、よくやったすごいなって褒められたい……だから、完璧なルカさんが羨ましいです……」


 声がしりすぼみになっていく。

 下を向き視界に映ったコンクリートの地面は、薄汚れていた。

 私はこんなところで何をしてるんだろう。本当はスパイなんて向いてない。ずっと前からわかってた。ただ家に帰って、みんなと楽しく暮らしたいだけ。なのに全部上手くいかない。


 ルカさんは無言で距離を詰めてきた。ポケットから取り出した黄色のハンカチを、私の顔に押し付けてくる。


「……いい加減拭いてくださいよ。涙と鼻水でぐしゃぐしゃですよ」


 勢いが強くて正直痛い。抵抗という抵抗もできないまま一通り拭われた。


「完璧って、私のこと高く見積もりすぎです。まぁでも……褒められるのは悪くないですね」


 視界が開け、目の前のルカさんを見ればにんまりと笑っていた。

 数回瞬きしていると、突然おでこにデコピンをされた。


「すぐメソメソするのやめてください、うっとおしいんで。それに、あなたから見た私が完璧であっても、私的に自分は欠点だらけなんですよ」

「え?」

「母親が金髪で、私だけ黒だったから家の子じゃないとか言われて捨てられて、まぁ、実際実の子でもそうじゃなくてもどうでもよかったんでしょうけどね、ホイホイまた開いて、どの男との子かなんて分からなかったみたいだから」


 ルカさんはそこで口を閉じ、私の頭をわしゃわしゃと撫でてきた。

 困惑して言葉を漏らすと、小さなつぶやきが耳に入ってきた。


「なんか、似てんなーって、仲間はずれ同士。世界一不幸な人間だって思い込んでた私がばかみたいじゃないですか」


 自分を貶す言葉を発しているのに、ルカさんはなんだか機嫌が良さそうだった。しばらくしてやっと手を離される。私の髪は鳥の巣みたいにボサボサになっていた。


「うまくできないとかチビは言ってますけど、私的には全然、よくやっ——」


 ルカさんが喋っている途中、コツコツと早足で音が近づいてきた。私がじっと奥を見つめていると、ルカさんも顔を向けた。


 だんだんあらわになる人影。

 正体はボスだった。いつにもましてオーラが暗い。汗は1粒もかいてないが、黒いネクタイが少しだけ乱れている。


 私とルカさんの姿を発見すると、少し距離を空け、「こんなとこで何をやってるんだ」と怒鳴ってきた。


「あらー、違いますよ、さぼってたとかじゃなくて、作戦会議です」

「こんな虫けらみたいなやつと作戦会議? 言い訳はいいからさっさとしろ」

「ボスめっちゃ機嫌悪くないですか? まだ見つからないんですか?」

「あぁおかげさまでな。どっかの野郎がヘラヘラして仕事をしないから、侵入者が全く見つからない」


 バチバチと火花が散りそうなくらい言い合いをする2人。大人しく縮こまっていると、ギロリとボスに睨まれた。


「お前はなにをしてるんだ、ボサっとしてないでさっさと動け」


 いつの間にか手に持っていた銃を突きつけてくる。ひっと、小さく声が漏れた。


「まぁまぁ、そんなかっかしなくてもいいじゃないですか、すぐ見つかりますって」

「ルカには話してないだろ、なんでそんなに機嫌よく庇ってるんだ? こいつが役に立たなかったら始末するのはお前だぞ」

「いや……べつに……、機嫌よくはないと思いますけどね〜」


 ルカさんが私の前に立つ。お陰でボスの怖い顔は見えなくなったが、心臓はバクバクしたままだ。

 何か役に立たなければ、このまま殺されてしまう。

 瞼を閉じながらぐるぐると考える。


 そうだ、足音を聞けば犯人の居場所が分かるかもしれない。そう思って耳を済ませた。けれど、バタバタした騒がしい音やガサガサした物置がうるさくてどれが何か分からない。

 ボスとルカさんは未だに何かを喋っていて、私に関心を向けていないが、いきなりさっきのように銃口を向けてくるかもしれない。

 グダグダしてる時間なんてないのに。

 早く動かなきゃいけないに。

 だんだんと、怖くて体が震え始めた。

 もういやだと半ば自暴自棄になりかけていた時、ルカさんが振り返り、なんで震えてんの? と尋ねてきた。足音が全然聞こえなくて、雑音ばかりだということを説明すると、ルカさんはピタリと固まった。


「あの、ルカさん?」

「雑音……それって作業してたり、紙触ってるような音とかする?」

「えっと……はい、上の階の奥のところから」


 そのまま伝えると、ルカさんはボスに対して説明を始めた。

 ぴくりとも表情を変えず、ボスが歩き出す。ルカさんもついていったので、私も後をおった。

 

 それからの動きは驚くほど早かった。

 私が雑音だと思っていたのは、隠れながら情報収集をしていた侵入者のものだった。普段は物置として使われてる部屋に隠れていたのと、犯人の身長がだいぶ低かったので、余計見つけられなかったのだ。

 ポンポンと簡単に問題が解決していき、苦戦していたのが嘘みたいに全て片付いた。


「いやぁ〜、なんか大したことなかったですね」

「下のやつの教育をちゃんとしとけ」

「えー私のせいだって言いたいんですかぁ? ボスだって全然動いてなかったじゃないですか」

「俺が動いて侵入者と接触したらどうする。汚いだろ」

「あ〜……はいはい」


 周りが忙しなく動いてる中、傍観することしか出来なかった私は、特に何かをするでもなく、ただついて回っていた。

 一通り話を終えたボスが、ちらりと私に視線をおくる。反射で体がビクリと揺れた。


「使えないと思ってたけどな」


 何も手伝うことができなかったから、やっぱり叱られた。

 分かっていたけれど、いい気分ではない。背中を丸め、下をキョロキョロ見ていたら、続けてボスが喋りだした。


「まぁ案外使える。今回はよくやった」


 聞き間違いかと思い、勢いよく顔をあげた。視界に映ったボスの顔はいつも通りで、ふざけたりバカにしているものではない。ただ思ったことをそのまま口にした。という感じで、それがむず痒くて。

 なんだかわけがわからなくて。頭がぐちゃぐちゃとしてて。気づいたら泣いていた。

 初めて言われた。ずっと言ってほしかった言葉。家族ではないけれど、それでも嬉しかった。

 口角が自然と上がり、早口になる。


「あ、ありがとうございます!……わ、私……役に立ちまず! まだ……また、よくやったっでいってもらえるようにがんばりまず!」


 鼻づまりの声しか出ないけど、構わず宣言し近づいた。ボスは眉間に眉を寄せて、「おい、汚いから離れろ。こっちによるな」と言って、後ろに下がった。いったりきたりをくりかえしていたら、突然首後ろをぐいっと引っ張られた。

 首が圧迫され、ヴッと喉から音が出る。


「何遊んでるんですか。ボスの褒め言葉なんて適当にポンポン言ってるだけなんですから真に受けたらダメですよ。それに……そのくらい私も言えるっていうか、先に言おうと思ってたというか……別に……やっぱなんでもないです」


 唇を尖らせ、そっぽを向くルカさん。私の襟元を掴んだ手は緩めてくれないので苦しい。


「解散だ。俺はシャワーを浴びてから寝る」


スタスタと、ボスが去っていく。せっかく褒められたから、何か役に立ちたいのに。背中が遠ざかっていく。「何かお手伝いします! えっと、えっと、料理運んだりします! あ、あとは、着替えも手伝います!」と叫んでも、無視されてしまった。


「……なんで、あんな堅物ボスに懐いてんですか、おかしくないですか? ちょっと褒められただけでちょろすぎですよ」


 ルカさんはブツブツと言いながら、私の服を引っ張りどこかに連れて行こうとする。行先の予想がつかないが、大人しく従うことにした。


 最終的についたのは、ルカさんの部屋だった。


「え、え……? ここ、ルカさんの部屋ですよね」

「はい。まぁ? チビの部屋は狭いし居心地も良くないだろうし、私の部屋のソファ貸してあげますよ。人がふたり寝ても余裕なくらいでかいんで、チビのいつも寝てる寝具より居心地は良いと思いますよ」


 たしかに、ルカさんの部屋は私が与えられた部屋の3倍以上はあるし、家具も比較的新しい。けれどなぜ急に?

 全然思考が追いつかない。


「チビと私は似た者同士みたいなんで、チビも私に聞きたいこととか話したいことがあるでしょうし、ボスより私の方がちゃんと話聞いたりしますし」


 グイグイと腕を引かれ、強制的にソファに座らせられる。ルカさんの距離の近さに頭の中はハテナだらけだ。別に話したいことなどないのだが、なんでこんなに会話をしたがっているんだろう。

 とりあえず絞り出して、ルカさんはなんでここで生活しているのかを聞いた。


「んー……昔捨てられたって行ったでしょ? その後はまぁ全部どうでもよくなって、頭いかれてる奴らの仲介人みたいなのばっかやって、その時ボスにとっつかまったんですけど、私の慣れた手さばき見てスカウトされて、今に至るって感じです」


 答え終わったルカさんは、チラチラとこちらの様子を伺ってきた。

 私は首を傾げながらも感想を伝える。


「スカウトされるくらい仕事ができるなんて凄いですね!」


 ルカさんはにっこりと胡散臭い笑みを浮かべて、私の肩に腕をのせてきた。

 「褒めたって何も出ないですよ」とか「仕方ないので、ソファじゃなくてこっちのベッドで寝ても許してあげます」とか色々喋りながら、腕の中に引きずり込まれた。


 そして、ほぼ独り言のようなセリフをずっと聞いていたら、だんだん瞼が重くなってきて、いつの間にか眠りについていた。


 ***

 

「うぅ……」

 

 息苦しさで目が覚め、体を見る。

 誰かの手足が、私の四肢に巻きついていた。首を後ろに捻ったら、寝息を立てているルカさんがいた。

 ゆっくりと動きながら何とか抜け出すことに成功した私は、身なりを少し整えてから、ふーっと息を吐いた。

 

 不快感からは脱却したが、特にやることもない。目が冴えていて睡眠の気分でもない。

 近くにあるベッドに腰かけようとした時、部屋の外から唸り声がした。

 気になった私は、早足で出入口へ向かう。音は、今いる部屋より遠くから聞こえた。何かあったのかもしれない。

 ゆっくりと近づき、着いたのは重そうな扉の部屋だった。誰かの苦しそうな様子が耳から伝わる。誰か怪我をしているのかもしれない。もしかしたら死にかけだったりして。

 両手で扉を引っ張り、できる限り気配を消しながら隙間から中に入った。

 部屋はほぼ真っ黒で、棚の上の小さなあかりしか周りを照らすものがなかった。

 うめき声は部屋の角にあるベッドから聞こえる。大きな塊が確認できるから、誰かが寝ている。

 私は上から見下ろすような形で覗き込んだ。


「っ……は……ぅ……」


 心臓を掻きむしるように握り、歯ぎしりをしている。

 少しだけ見える表情は、とても辛そうで、大粒の汗が額や頬を伝っていた。

 その人物の姿が信じられず、瞬きをする。

 唸り声を上げている張本人。今前にいる人物はあのボスだった。

 普段からは想像がつかないが、威圧感のあるこの顔はどう見てもボスだ。

 

 なんでこんな状況に? 怖い夢でもみてるのかもしれない。


 何か手助けできないかと、一旦私は部屋の外に出た。

 服の裾を、壊れかけの鍵の部分に引っ掛けちぎる。近くにあったトイレの蛇口から水を出し、切れ端を濡らした。

 水滴が出ないくらいまで絞ってから、部屋に戻った。

 ボスは未だに唸っていて、息も荒い。異様な汗の量だし、風邪をひいてしまうかもしれない。手に持っていた布をつかって、額に触れた。

 その瞬間、ガバリと勢いよくボスが起きた。


「……誰だ!」


 いつもよりさらに低い声。私は咄嗟に「わ、私です。ご、ごめんなさい」と謝った。


「こんなところで何をしてる。勝手に入っていいなど誰が言った! 近づくな!」


 ベッドの上にあった枕やその他よく分からない物など、ボスは全てを投げつけてきた。ギリギリで避けながらも、「でも、く、苦しそうだったので」と小さく講義する。


「お前がいるから気分が悪いんだ、早く出てけ!」

「は、はい! で、出ていきます。でも、汗だけは拭いた方がいいです。ぬ、濡らしてきたやつあるので使ってください」


 後ずさりながら、まだ手にある布を腕をのばして渡す。しかし、ボスは眉間の眉はそのままに、大きく目を見開き、呟いた。


「俺に触ったのか?」

「え……あ、さ、さっきちょっと拭いただけです」

「変わらないだろ! 最悪だ!」


 ボスはフラフラとしながら立ち上がり、部屋から出ようとしている。怒らせないように端に寄っていたら、ボスが突然立ち止まった。

 じっと見ていたら、肩が少し震えていることに気づいた。そして次の瞬間、「ヴぁ……」という音と共に、吐きだした。


「え?」

「ぐっ……うっ……がはっ」


 座り込みはしないものの、前傾姿勢で咳き込んでいる。予想外の展開に、私の頭の中はパニックだ。

 

 こういう時はどうすればいいんだろう。私が吐いた時はどうしたっけ。床を汚したのを叱られて、早く掃除しろと怒鳴られたから。今回も綺麗にすればいいのだろうか。

 破けて既に結構ボロボロな自分の服を脱ぐ。中に薄い下着があるので裸ではないから大丈夫だろう。

 ボスの背中に触れ、さする。

 早めに全部出してもらい、その後汚れているシャツや口元ら辺を服で拭った。

 また何か言われるかなと思っていたが、それどころではなさそうだったので抵抗もされなかった。

 しばらくしてからある程度綺麗になり、ボスも呼吸が落ち着いてきた。


「……やめろ……汚い」


 手で制され、動きを止める。

 ワイシャツのボタンだけ勝手に外し、座った方が楽ですよと伝えれば、無言のまま腰を下ろした。

 既にぐちゃぐちゃだが、ないよりマシだろうと布で床を拭く。

 しばらく擦り続け、服を洗い直そうと思い、立ち上がると、ボスが俯いていた。

 スースーと微かな息の音がするから多分寝ている。


 その間に外と中を行き来して、掃除を終わらせた。

 ちょっとだけ休憩をしようと座り、私は壁に頭を預けた。


 ***


 意識が浮遊する。どうやら私はあのまま眠っていたようだ。

 口元を腕で拭い、おもむろに顔をあげると、ベッドに座りじっとこちらを見ているボスと目が合った。服装は綺麗なものになっている。部屋も、電気がついていて明るい

 特に何かを言うわけでもなくただこちらを眺めている。

 私は身動きもできず、かといってかける言葉もなかったので黙っていた。


 しばらくしてからボスが口を開いた。


「お前はなんだ」

「え……え?」

「女じゃないだろ、特有の変な気持ち悪さがない」

「お、女です」

「性別の話をしてるんじゃない、まぁいい」


 立ち上がり、こちらにやってきたボスは私に向かって手を出した。


「立て、汚いだろ、シャワーを浴びてこい」


 掴めということだろうか? 本当に? 疑問に思いながら指先から顔に視線をいったりきたりさせる。今まで触れたら怒っていたのにいいのだろうか。


「ふん。なんだその顔。俺の吐瀉物がついてるだろ、だからお前は実質俺だ。名前で呼ぶのも特別に許してやる」


 急な名前呼びの許可と、意味の分からない理由だったが、まぁいいかと私はボスに触れ、立たせてもらった。

 言われてみれば下着もズボンも汚れていて不快だ。


「あの〜ボスー? チビしりません? なんか脱走したんですけど」


 突然聞こえた声に扉を見る。

 隙間から、ルカさんが部屋を覗いていた。


「あっ! いた、全然探してもいないんで焦りましたよ……って、え? さ、触ってる?」


 ルカさんは真顔になり、何故か一瞬居なくなったあとにまた顔を出した。


「誰ですか? ボスってどこにいます?」

「やかましい。静かにしろ。こいつは無機物であり、実質俺だから触れるんだ」

「え、何言ってるんですか?」

「そのムカつく目をやめろ。今日からこいつは俺の身の回りの世話係だ」

「はぁ! なんですかそれ、今まで全部ひとりでやるって聞かなかったくせに、急にチビ使うとか意味わかんないんですけど。ていうか、チビの教育は私が担当って話だったじゃないですか、今更変えるとか困るんですけど」

「仕事が1個減るんだ、問題ないだろ」

「いや、そういうことじゃなくて、教えがいっていうか、責任がありますし」

「金しか興味のないお前が責任? お前こそ何言ってんだ」


 ルカさんは口を尖らせ、ムスッとしながらこちらにやってきた。私の肩を引き寄せて「まぁ、じゃあチビは私の部屋で寝るって昨日なったので、家具増やすのだけ組員に言っといてくださいよ」と、初めて聞いた内容をボスに伝えた。


 それからは相変わらずボスとルカさんは喧嘩をしながら話していたが、途中でルカさんが私が汚いことに気づき、シャワー室に押しやられた。


 

 この日からルカさんとボスの態度は変わった。

 任務とは関係のないことをよく喋ってきたり、美味しいご飯を食べさせてくれたり、私にとって全部が新しいこと だった。

 楽しくもあったけれど、ずっとモヤモヤとした気持ちが残っていた。私はスパイであり、ここに侵入した敵だ。そして何より、私まだ、家族からの任務を達成できていない。

 今この瞬間も、家族は首を長くして待っているかもしれない。だから、情報を持って帰らなきゃならない。

 私を褒めてくれたボスは好きだけれど、1番褒められたいのは家族だ。だから、たとえここが楽しくても家に帰りたい。


 そう考え、私は、ボスの世話係として昼間に片付けをしている時に、重要な情報がないかを探ることにした。誰もいない時に棚や机の中を確認して、書類などを読む。

 1週間経った頃、私はやっと、証拠になりそうな紙を見つけた。

 難しくて断片的な内容しか分からないけれど、きちんとボスの印が書かれている。だから少なくとも、役には立つはずだ。


 あとは、GPSつきの首輪さえ外せれば抜け出して家に帰れる。

 自力で外すには鍵が付いていて無理なため、鍵か道具が欲しいのだが、怪しい動きをしたらバレてしまいそうでどうにもできない。

 触っていたら取れないかと、一日中触れていたら、ルカさんに「なんでそんな触ってんの?」と尋ねられてしまった。


「そ、その……苦しくて」

「ふーん」


 さすがにバレてしまったかとヒヤヒヤしたが、ルカさんは軽いノリで言葉を続けた。


「まぁたしかに、なんか色も黒いしダサいですもんね。いいですよ外してあげます。ボスに頼んだらリボンついた大きめのやつとか買って貰えると思うんで」


 あっさりと首元に手を伸ばされ、カシャンという音をたてて解放された。唖然としていると、なんでそんな驚いてるのかと聞かれ、慌てて誤魔化した。

 

 思っていたよりも簡単に物事が進んだ。


 深夜、ボスとルカさんが寝ている間に、私は手に証拠をいくつか持って抜け出した。私は嘘をつくのが苦手だから、行動は早い方がいい。

 見張りの組員の隙をついて、駆け出し、建物から離れた。

 家族がいる場所までは、なんとなく覚えているが、結構な距離がある。何時間かかるか分からないが、歩き続ければいずれは着くはずだ。


 全力で走りながら、家に向かう。

 途中の分かれ道で迷ったり、次第に足が痛くなってきたが、それでも構わず走り続けた。

 喉がカラカラで焼けるように痛い。でも、水を買うお金も、時間もないから、我慢するしかない。

 途中、かつらが蒸れて頭が痒くなり、外して抱えながら足を動かした。髪も服もボサボサで、咳き込んだりして顔も汚い。けれどひたすら進んだ。

 そしてやっと、見慣れた基地が見えてきた。

 立ち止まると、足がガクガクと震える。軽く深呼吸をし、家族がいるであろう場所に向かった。


 中に入り階段を登ると、地味な扉がある。その扉の奥から、話し声がした。

 母と父ときょうだいのもの。

 懐かしさに胸が締め付けられる。

 ドアノブを握り、ゆっくりと回し中に入った。


「……た、ただいま」


 小さくつぶやくと、部屋の中の人物が一斉に私を見た。

 数秒の沈黙。そして、誰かが言った。


「え、だれー?」

「あ〜なんだっけ名前」

「ほら、ニナだよ。あの役たたずの」

「なんでいんの?」

「わかんなーい」

「てか、めっちゃ汚くない?」

「わっ、ほんとだ」

「もう死んだと思ってたわ。それか、死体が動いてるから汚いとか?」

「え、めっちゃうける」


 次々と浴びせられる言葉。

 

 私は忘れられていたの?

 死んだと思ってた?

 なんで? 任務を与えられていたのに?

 木の椅子に座っていた母が、ため息をついた。


「なんっで帰ってくるのよ! このゴミクズ女め! どういうことよ、あなた」

「俺に聞くなよ。任務っつって送り込んだ場所はここらでも有名なクロウの組織だぞ、死んだも当然だから大丈夫だと思うだろ」

「だったら先に殺しとけば良かったじゃない!」

「逃げ足が早くて本気で逃げられたら捕まえられねーんだよ」


 足がふらつく。

 たくさん走ったからかもしれない。

 痛い。

 喉が乾いてるからかもしれない。

 視界がボヤける。

 体の力が抜けそうだ。


「だ、大事な証拠を……持って、きました。任務、私、任務成功させました……」


 歯を食いしばって、手に持っていた書類を渡す。母は、それをちらりと見てすぐに顔を逸らした。父が立ち上がる。足音につられて見上げると、乱暴に紙をひったくられた。

 私が集めた証拠を、きょうだいのうちのひとりに渡している。

 認めてくれたのかもしれない。そう一瞬期待したら、父が私を指さして言った。


「こいつを殺せ。もういらないし、どっかに置いてまた戻ってきても困るからな」


 その言葉を聞いた途端、さっきまでニヤニヤと笑っていたきょうだいたちが、冷たい目で見てきた。

 私は考えるより先に、ドアを蹴破る勢いで部屋から逃げ出した。すぐに後ろからバタバタと足音が付いてくる。ここに来るまでひたすら走ったから、体は限界だった。


 信じた私が馬鹿だった。


 認められる可能性なんて最初からゼロだったのに。

 みんな私が嫌いで、早く死んでくれと思っていた。


 何度か躓きそうになりながら、外に出た。でも、体力は残ってないし、帰る場所もない。

 ルカさんたちの場所に戻ったって、逃げ出したことを怒られて殺されてしまうだろう。

 

 ふっ、ふっと、声が漏れそうになり、何とか飲み込んだ。もう無理なのかもしれない。最初から私は死ぬ運命だったんだ。

 グイと後ろから髪を引っ張られる。

 追いつかれてしまった。

 尻もちをつき、硬い地面に倒れ込む。

 手が顔に伸びてくる。

 ぎゅっと固く目を瞑った。

 

 あぁ……幸せになりたかったな。

 

 バン


「最近銃の腕鈍ってるんですかね〜、一発でしとめたつもりだったんですけど。にしても、汚い髪色ばっかでいやんなっちゃいますねー、ボス」

「逃げ出したチビなひよこはどこだ」

「チビなら、ほら、あそこにいますよ、なんかかつら外してますけど」

「なんだあの髪色。……本当にひよこだったのか?」

「何言ってんですか、最近ボス変ですよね。てか、知らなかったんですか? ……って、あ、それもそうか。俺が1番チビと付き合い長いですからね。そうなんですよ、チビの地毛は金髪なんです」


 ふたりで会話をしながらも、パンパンと銃声は鳴り響く。まわりにいたきょうだいは逃げ出そうとしたが、すぐに撃たれて倒れた。

 私は地べたに横になりながら、一瞬で片付いた周りを眺めていた。

 ルカさんは私のそばにくると、しゃがんで顔を覗き込んできた。


「ほら、帰りますよ。相変わらず逃げ足早いんですから。めっちゃ目腫れてますけど、大丈夫ですか?」


 指先を目元に当てられ、水滴を取られる。


「うわっ、結構しょっぱ。水持ってきたのでこれ飲んでください」

「おい、何勝手に俺の許可なく触ってるんだ」

「はぁ? 許可とか気持ち悪いこと言わないでくださいよ」

「誰に向かってそんな口聞いてる」


 言い合いをしながら、ボスは私を起こし、その後ルカさんに担がれ、車に乗せられた。

 その後はすぐにボスの建物がある場所に連れていかれた。

 まるで何事もなかったかのように振り出しに戻ってしまった。

 あんなに走ったのに、全く意味がなかった。

 てっきり叱られて殺されるのかと思っていたがそんなことはなく、体を綺麗にされ、清潔な服を着せられ、美味しいご飯を食べさせられた。


 料理を口に運びながら、涙が溢れてきた。


「え、ちょ、何泣いてんですか」


 慌てるルカさん。

 私はゴクリと口の中の食べ物を飲み込んだ。

 そして、仲間にしてくださいとお願いをした。


 そうしたら、ルカさんは小さく笑い、「もうとっくにそうでしょ」と言った。

 ボスは表情をかえないまま「世話係が居ないのはめんどうだから逃げ出すな」と言った。


 家族ですら受け入れてくれなかった私を仲間に入れてくれた。

 この気持ちをなんて言葉にすればいいのか分からなくて、私はさらに泣いてしまった。




 ***

 ————————

***




「チビ寝たみたいですよー」

「そうか」

「いやぁ、めんどくさかったですね〜、首輪外してほしそうなの丸わかり、なんか企んでるなぁって思いながら放置してたら逃げ出すからびっくりしましたよ。まぁ、家族にハブられてたんで、連れ戻す必要なかったのは良かったですけど。あ、そういえばずっと気になってたんですけど、あの、チビが持ってたっていう書類本物なんですか?」

「そんなわけないだろ、そっくり似せた偽物だ。それより、あのスパイの組織はちゃんと始末しただろうな」

「当たり前じゃないですかー、ちゃんと全員ぶち殺しときましたよ」

「ならいい」

「なんか最近、ボス、チビに甘くないですか?」

「そんなわけないだろ」

「へー、そうですか……まぁ、あんまりベタベタしてると嫌われますから程々にしといた方がいいですよ」

「お前に言われたくない」

「はぁ! 私がいつベタベタしたって言うんですか!」

「おい、静かにしろ、あいつが起きるだろ」

「……ちょ、話そらさないでくださいよ。まぁでも分かりましたよ、じゃあこの話は終わりです。私は部屋に戻りますからね、あ〜……やっとゆっくりできる」


***

 めでたしめでたし。

お読み下さりありがとうございました。

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