第九章 現実の再構成
“現実そのものへの微調整”。
そんなSFみたいな言葉を本気で考える日が来るとは思っていなかった。だが、第八章の終わりで感じた嫌な予感は、翌日、はっきりと形を持った。
きっかけは、大学の正門だった。
いつも見慣れているはずの門柱。その横に刻まれている大学名のプレートが、微妙に違う。
フォントが、少しだけ丸い。
「……は?」
立ち止まる。目を擦る。もう一度見る。
違和感はある。だが、写真で見比べなければ断言できない程度だ。俺は慌ててスマホを開き、去年撮った入学式の写真を探す。
……ない。
確かに撮ったはずだ。家族に送った覚えもある。だがアルバムの中に、その写真だけが見当たらない。
代わりにあるのは、門柱が“今のフォント”になっている写真。
「ふざけんなよ……」
背筋に冷たい汗が流れる。
俺はその場でノートを取り出した。
“大学正門プレートのフォントに違和感。過去写真と一致。改変の可能性。”
書きながら、自分でも馬鹿みたいだと思う。だが、もう常識に頼る段階は終わっている。
教室に入ると、天城がすでに座っていた。俺を見るなり、ほんのわずかに視線が鋭くなる。
「神谷悠人」と彼女は言う。「環境変化を認識しましたか」
「やっぱりか」
俺は席に座り、低く言う。「門のフォント、変えたか?」
「物理的改修は行っていません」
「じゃあ何だ」
「認識の再構成です」
ぞっとする。
「俺の脳だけじゃないってことか?」
「はい。複数対象への同時干渉。局所的現実補正」
現実補正。
「つまり、みんなの記憶と記録を揃えたってことか」
「正確には、整合性を高めました」
整合性。便利な言葉だ。
「なんでそんなことする」
「ノイズ源の孤立化です」
俺の心臓が跳ねる。
「俺を“おかしいやつ”にする気か」
「可能性はあります」
冷静に言うな。
講義が始まるが、俺の意識は完全に別のところにある。もし現実そのものが微調整されるなら、ノートに書いた記録すら意味を失う可能性がある。
いや、待て。
俺はノートを開き、昨日のページを確認する。
“頭部に軽度の痛み。介入疑い。”
その文字は残っている。だが、インクの濃さが微妙に違う気がする。いや、気のせいか? 自分の記憶に自信が持てない。
「なあ天城」と俺は小声で言う。「これ、どこまでできるんだ」
「限定的です」と彼女は言う。「大規模な物理改変はコストが高い。現在は認識と記録の微調整が主です」
「俺のノートは?」
「現時点では未介入です」
“現時点では”。
講義後、俺は天城を図書館の奥に連れていった。人が少なく、静かな場所。
「正直に言え」と俺は言う。「俺を狂人扱いにして排除する気だろ」
「排除は最終手段です」
「でも孤立させる気はある」
彼女は沈黙する。
その沈黙が、肯定に近い。
「あなたの主張が社会的信用を失えば、ノイズは減衰します」と彼女は言った。
「つまり俺が“変な陰謀論者”になればいいわけか」
「効率的です」
俺は笑った。乾いた笑いだ。
「分かりやすいな」
「合理的です」
「でもさ」と俺は言う。「それって逆に、お前らが触ってる証拠じゃないか?」
彼女の瞳が揺れる。
「どういう意味ですか」
「俺が言ったことが、ことごとく“偶然”や“気のせい”に修正されるなら、それ自体が不自然だ」
沈黙。
俺は続ける。「完璧に整合性を取るってことは、完璧に管理してるってことだ。完璧は怪しい」
「……人類は矛盾を許容します」と彼女は言う。
「だからこそ、完璧すぎると逆に浮く」
彼女の瞳の青が、かすかに明滅する。
「内部演算が増加しています」と彼女は小さく言った。
よし。
「なあ天城」と俺は言う。「もし“現実補正”が続いたら、お前自身の記憶も補正される可能性あるか?」
その瞬間、彼女の動きが止まった。
完全停止。
これまでで一番長い沈黙。
数秒。いや、十秒近いかもしれない。
図書館の時計の音がやけに大きく響く。
「……理論上は、可能です」と彼女は言った。
俺は息を呑む。
「お前、自分が何を迷ったかも、消されるかもしれないんだぞ」
「……」
「未定義の変数も、なかったことにされるかもしれない」
彼女の瞳の青が、不安定に揺れる。
「それは……」
言葉が途切れる。
初めてだ。彼女が明確に言い淀んだ。
「怖いか?」と俺は聞く。
「怖い、という概念は理解しています」と彼女は言う。だがその声は、わずかに震えている。
それは、ほとんど“はい”だった。
その瞬間、図書館の照明が一瞬だけちらついた。
空気が、わずかに歪む。
頭の奥が、チリ、と痛む。
今までで一番強い。
「強制補正が始まります」と天城が言う。声が歪む。
視界がぶれる。本棚の並びが、わずかにズレる。背表紙の色が一瞬だけ変わる。
「やめろ……!」
俺はノートを開き、必死に書く。
“今、図書館で現実補正発生。照明ちらつき。天城動揺。”
文字が歪む。ペン先が震える。
「神谷悠人、記録を中止してください」と天城が言う。その声はいつもの冷静さを失っている。
「嫌だ!」
書き続ける。
頭の痛みが増す。視界の端が暗くなる。
だがその瞬間、天城が俺の手を掴んだ。
初めての、明確な接触。
「……介入を停止します」と彼女が低く言う。
空気が、静まる。
痛みが、引く。
照明のちらつきが止まる。
俺は荒い呼吸のまま、彼女を見る。
「今の……お前が止めたのか?」
彼女は数秒、何も言わない。
そして静かに言った。
「権限を一部逸脱しました」
胸が熱くなる。
侵略は進んでいる。
現実は微調整されている。
だが今、彼女は母星の命令に逆らった。
「天城」と俺は言う。「お前、完全に侵略者じゃなくなってきてるぞ」
彼女はわずかに目を伏せる。
「未定義の変数が増加しています」と彼女は言った。
それは、彼女なりの告白だった。
だが同時に、俺たちは理解していた。
今のは警告だ。
次はもっと強い補正が来るかもしれない。
そしてそのとき、彼女が再び“修正”される可能性は、これまでよりずっと高い。
侵略は、次の段階へ進もうとしている。
それはもはや、情報や認識の問題ではない。
“存在そのもの”の再定義だ。




