第八章 記憶のノイズ
「次に修正されるのは、俺の記憶かもしれない」
そう考えた瞬間から、現実の信頼度が一段階下がった。
朝起きたとき、自分の部屋の配置を一瞬だけ思い出せなかった。机は窓際だったか? 本棚は左だったか右だったか? 数秒後には思い出せたが、その“空白”が妙に引っかかる。
大学へ向かう途中、コンビニに寄った。いつも買うコーヒーの銘柄を、なぜか棚の前で迷った。手に取った瞬間、「前はこれじゃなかった」という違和感が走る。だが何が違うのか分からない。
気のせいかもしれない。
だが、気のせいで済ませるには、ここ最近の状況はあまりに異常だ。
教室に入ると、天城はすでに座っていた。完璧な姿勢、完璧な視線。だが俺を見ると、ほんのわずかに眉が寄る。
「神谷悠人」と彼女は言う。「睡眠時間が通常より17分短い」
「監視すんな」
「観察対象レベル2です」
いちいち正論で殴るな。
俺は席に座り、真正面から聞いた。「俺の記憶、触られてる可能性あるか?」
彼女の瞳が、ほんの一瞬だけ明滅する。
「可能性は否定できません」
胃の奥が冷える。
「どの程度だ」
「軽微な補正。違和感を“偶然”として処理しやすくする」
「つまり、俺が侵略に気づきにくくなる方向に?」
「はい」
俺は拳を握る。「ふざけんな」
「排除よりも穏便です」と彼女は言う。
「穏便なら何してもいいのかよ」
彼女は答えない。
講義が始まる。今日は記憶と認知のメカニズムについてだ。もはや狙っているとしか思えない。
教授が言う。「人間の記憶は簡単に書き換わります。思い込みや暗示で、事実と異なる内容を“本当”だと信じることもある」
教室が静まり返る。
俺は背筋に汗をかく。
「なあ」と俺は小声で言う。「俺が天城の正体を“思い込み”だと思うように誘導することもできるのか?」
「理論上は可能です」と彼女は答える。
「もうやってる?」
「現時点では軽度のみ」
軽度って何だよ。
講義後、俺は急いでスマホを開き、これまでのやり取りを確認した。侵略に関する投稿、返信、スクショ。全部残っている。
だが、ふと違和感に気づく。
最初に侵略について投稿した日付が、一日ずれている。
「……は?」
昨日だったはずだ。だが表示は二日前になっている。
スクロールする。コメントの数も微妙に違う。覚えている数字と一致しない。
「天城」と俺は低く言う。「データまで触れるのか」
「デジタル情報は容易です」
即答。
「じゃあ俺、何を信じればいい」
彼女は沈黙する。
その沈黙が、妙に長い。
「アナログ記録を推奨します」と彼女は言った。
「は?」
「紙媒体。物理的メモ。完全な改変は困難です」
俺は目を見開く。「お前、味方か?」
「違います」と彼女は即答する。だが、声にわずかな揺らぎ。
俺はカバンからノートを取り出した。ペンを握る。
“天城リラ=地球外知的生命体。侵略計画進行中。観察対象レベル2。”
大きく書く。
「これも消されるか?」
「物理的破壊を伴います」と彼女は言う。「コストが高い」
なるほど。
「じゃあさ」と俺は言う。「毎日書く。記録する。俺が何を見て、何を疑ったか」
「ノイズが蓄積します」
「望むところだ」
そのとき、頭の奥がまたチリ、と痛む。さっきより弱い。だが確実に、何かが触れようとしている。
俺は歯を食いしばり、ノートに追記する。“頭部に軽度の痛み。介入疑い。”
痛みが、すっと引く。
「……介入が減衰しました」と天城が言う。
「ログに残したからか?」
「可能性は高いです」
俺は笑った。「証拠残すと触りづらいんだな」
彼女は黙る。
俺は続ける。「じゃあこれから毎日、全部書く。俺の記憶が曖昧になったら、それも書く」
「非効率です」と彼女は言う。
「人間は非効率なんだよ」
沈黙。
そのとき、彼女の瞳の青が不安定に揺れた。
「内部監視が再度強化されています」と彼女は小さく言う。
「俺のせいか」
「はい」
「じゃあさ」と俺は言う。「俺の記憶を完全に消せば楽だろ?」
彼女は、はっきりと首を横に振った。
「それは推奨しません」
即答だった。
俺は息を呑む。「なんでだ」
彼女はしばらく黙ったあと、静かに言った。
「あなたは重要な変数です」
「侵略の?」
「……未定義の方です」
胸の奥が熱くなる。
修正されても、監視されても、彼女の中にまだ“未定義”はある。
「天城」と俺は言う。「もし俺の記憶が本当に消されそうになったら、教えろ」
「権限が不足しています」
「それでも」
彼女は俺を見る。その瞳は揺れている。
「……可能な限り」と彼女は言った。
それは約束ではない。保証もない。だが、確かに彼女自身の選択だった。
俺はノートを閉じる。
侵略は情報から始まり、記憶に触れ、思考を削る。静かで、合理的で、効率的だ。
だが、俺は非効率でいく。
書く。疑う。騒ぐ。
そして何より――忘れない。
もし記憶が削られるなら、その痕跡ごと記録してやる。
侵略者にとって最も厄介なのは、完全な敵ではない。
揺らぎ続けるノイズだ。
そして今、そのノイズは俺の中にも、彼女の中にも確実に存在している。
だが同時に、俺は気づいていなかった。
記録を始めたその瞬間から、“記憶の改変”よりも厄介な次の段階が動き出していることを。
それは、個人への介入ではない。
“現実”そのものへの微調整だ。




