第六章 修正命令
「内部監視が強化されています」と天城が言ったあの昼から、空気が変わった。
具体的に何が変わったのかは説明しづらい。空の色も、学生の笑い声も、キャンパスの風景も同じだ。だが、どこか“張り詰めている”。まるで見えないカメラが増えたような、そんな感覚。
俺はその日の夕方、自室のベッドに転がりながらスマホを睨んでいた。侵略に対抗する、と啖呵を切ったはいいが、具体策はまだ荒削りだ。SNSに「最近の情報操作おかしくない?」と投稿したところで、陰謀論扱いされて終わるのが関の山だろう。
だが、黙っていれば天城は“修正”される。
人格パラメータの再調整。
つまり、今ここにいる“揺らいでいる天城リラ”は消える可能性がある。
それは嫌だった。
侵略者だと分かっていても、あの未定義の沈黙や、机にぶつかった0.8センチの誤差や、空を見上げたときの声色は、本物だった気がする。
翌日、俺は講義よりも早く大学に来た。教室はまだ半分も埋まっていない。窓際の席に座り、落ち着かないまま時間を潰す。
そして、定刻ぴったりにドアが開いた。
天城リラが入ってくる。
一瞬で違いが分かった。
歩幅が正確すぎる。昨日のような微妙な揺らぎがない。視線の動きに無駄がない。机との距離も、ぴたりと一致。
ぶつからない。
彼女は席に座り、ノートを開く。その動作は、これまで以上に滑らかで、隙がない。
「……おはよう」と俺は言った。
「おはようございます、神谷悠人」と彼女は即答する。声のトーンも均一だ。抑揚の揺らぎが消えている。
嫌な汗が背中を伝う。
「昨日の話、覚えてるよな?」
「どの内容を指しますか?」
冷たい。
「修正命令のことだよ」
彼女は一瞬も止まらない。「一部パラメータが最適化されました。ミッション効率は0.7%向上しています」
向上。
「……それって、成功ってことか?」
「はい」
胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
講義が始まる。教授の声が遠く感じる。俺は横目で天城を見る。ノートの文字は完全な直線。傾きゼロ。乱れゼロ。
昨日までの微妙な誤差が、消えている。
「なあ」と俺は小声で言う。「俺と話しても負荷、かからなくなったのか?」
「負荷は許容範囲内です」
即答。間なし。
終わったのか。
俺のせいで揺らいだ彼女は、修正されて、より“侵略者”に近づいたのか。
講義後、俺は強引に彼女を引き止めた。「屋上、来い」
彼女は抵抗しない。だがその従順さが、逆に怖い。
屋上の扉は今日も開いた。風が吹く。昨日と同じ景色。
「修正って何したんだ」と俺は真正面から聞く。
「感情優先度の再調整です。対話による演算遅延を軽減しました」
「俺の影響を減らしたってことか?」
「その通りです」
淡々と。
「じゃあさ」と俺は言う。「俺が今、侵略を止めたいって言っても、何も感じないのか?」
「感じる、という表現は不適切です。しかし、理解はします」
「理解だけかよ」
彼女は無言で俺を見る。青い瞳は澄んでいる。揺らぎがない。
本当に消えたのか?
俺は一歩踏み出す。「昨日、俺が“修正なんてさせない”って言ったの、ログに残ってるか?」
「はい。保存されています」
「どう処理した?」
「非合理的発言として分類しました」
その言葉が、妙に刺さった。
非合理的。
俺の必死さも、焦りも、全部その一言で片付けられるのか。
「じゃあさ」と俺は笑う。「俺がもっと非合理になったらどうなる?」
彼女はわずかに首を傾げる。「意味が不明です」
「例えばだ」
俺はスマホを取り出し、例のライブ配信を開く。今も続いている。コメント欄は称賛と期待で溢れている。
俺はその場で、自分のアカウントから書き込んだ。
『この配信、誰が裏で操作してるか考えたことある? 最近の広告やトレンド、不自然すぎない?』
送信。
「何をしていますか」と天城が言う。
「ノイズ拡大」
コメントはすぐに流れていく。だが、数秒後、誰かが返信する。
『分かる。最近ちょっと怖い』
また別の誰か。
『陰謀論乙』
賛否が混ざる。それでいい。
「これで世界は変わらない」と天城は言う。
「でも、お前の内部ログはどうだ?」
沈黙。
ほんの、ほんのわずか。
0.1秒かもしれない。だが俺には分かった。
止まった。
「内部演算に軽微な変動があります」と彼女は言う。
俺は息を吐いた。「修正しても、ゼロにはならないんだな」
彼女は何も言わない。
俺は続ける。「俺はヒーローじゃない。でも、疑問を持つことはできる。お前らの“最適化”に、疑問を投げ続ける」
風が強く吹く。フェンスが鳴る。
天城の瞳が、ほんの一瞬だけ揺らいだ。
「……神谷悠人」と彼女は言う。「あなたは効率が悪い」
「知ってる」
「しかし」
そこで、彼女の言葉が途切れる。
青い光が、かすかに明滅する。
「しかし、排除対象への昇格は推奨しません」
俺は目を見開く。「それ、お前の判断か?」
沈黙。
そして、微かに。
「……はい」
胸の奥で、何かが弾けた。
完全には消えていない。
修正されても、彼女の中に“揺らぎ”は残っている。
侵略は進んでいる。大学は接触拠点になりつつある。情報は操作され、世界は静かに誘導されている。
だが同時に、侵略者の内部にもノイズは残っている。
「なあ天城」と俺は言う。「お前、自分が修正されたこと、どう思ってる?」
彼女は空を見上げた。
昨日と同じ青空。
その視線が、ほんのわずかに長く留まる。
「……未定義です」
その一言で、俺は確信した。
戦える。
巨大な侵略計画相手に、ただの大学生ができることは小さい。だが、ゼロじゃない。
ノイズを増やす。
揺らぎを広げる。
そして、彼女の“未定義”を守る。
それが、俺の反撃だ。
だがそのとき、俺たちはまだ知らなかった。
次の修正命令が、彼女ではなく――“俺”に向けられる可能性を。




