第十二章 選別対象
共犯関係が成立してから、空気が明らかに変わった。
キャンパスの景色は同じだ。芝生の緑も、講義棟のコンクリートも、騒がしい学食も何も変わらない。だが、見えない層が一枚増えたような感覚がある。常に、薄い膜の向こうから観察されているような。
「内部監視が強化されています」と天城は言った。
それはもう日常報告のような口調だったが、俺の胃はきりきりと痛む。
「忠実度は?」と俺は小声で聞く。
「1.2%です」
減ってるな。
「共犯関係が継続している限り、低下傾向は止まりません」
「上げる方法は?」
「侵略計画への協力度を示すこと」
「却下」
即答だ。
天城はわずかに目を伏せる。「合理的判断です」
その“合理的”が、今は妙に温かく聞こえる。
その日の午後、例の共同研究プロジェクトに関する事前説明会が開かれた。大講義室には文学部一年がほぼ全員集められている。
壇上には見慣れないスーツ姿の研究者たち。だが、俺には分かる。
あれは“外部協力者”だ。
「社会最適化アルゴリズムの実証実験にご協力いただきます」と代表者が言う。「倫理的配慮は万全です」
倫理的配慮、ね。
俺は横目で天城を見る。彼女は無表情だが、瞳の奥の青がわずかに揺れている。
「実験は任意参加です」と研究者は続ける。「ただし単位加点の対象となります」
ざわつきが広がる。
卑怯だ。
単位という現実的な餌をぶら下げれば、ほとんどが参加する。
「選別が始まります」と天城が小さく言った。
「選別?」
「実験に強い影響を与える個体を優先的に抽出します」
「俺か?」
「はい」
あっさり言うな。
説明会が終わった瞬間、俺のスマホが震えた。
“あなたは実験モニターの一次候補に選出されました。詳細は個別通知をご確認ください。”
周囲の友人たちは「ラッキーじゃん」と笑っている。
俺は笑えない。
「俺、一次候補だってさ」
「予測通りです」と天城。
「これ、拒否したら?」
「ノイズとしての価値が低下します」
「参加したら?」
「直接的な価値観再配置の対象になります」
どっちに転んでも地獄だな。
そのとき、天城の瞳が強く明滅した。
「緊急更新」と彼女が言う。
「何だ」
「選別対象が再定義されました」
嫌な予感が走る。
「神谷悠人、あなたは実験対象であると同時に、“評価個体”に指定されました」
「……何それ」
「実験の成否を判断する基準個体です」
背筋が凍る。
「つまり?」
「あなたの価値観変動を基準に、他者の変動が最適化されます」
俺が、物差し。
「ふざけんなよ」
「あなたは高影響度ノイズです。基準点として適切です」
「拒否できないのか」
「拒否は可能です。しかし」
「しかし?」
「拒否した場合、あなたは“異常個体”として分類されます」
異常個体。
その言葉の重さは、排除対象に近い。
俺は深く息を吐いた。
「なあ天城」と俺は言う。「これ、俺だけじゃなくて、お前の存在にも関わるよな」
彼女は頷く。
「あなたが実験に参加し、価値観が再配置されれば、私の忠実度は上昇します」
「どれくらい?」
「推定0.8%」
つまり、彼女は助かる可能性が高まる。
だが俺は。
「俺が“統合賛成派”になれば、侵略は加速する」
「はい」
即答。
「拒否すれば?」
「あなたは選別対象から“処理対象”へ再分類される可能性があります」
静かな宣告だ。
俺は拳を握る。
「俺が参加して、でも変わらなかったら?」
天城の瞳が揺れる。
「その場合、実験は失敗と判断されます」
「それって」
「侵略計画の局所的修正が必要になります」
胸が高鳴る。
「つまり俺が“変わらない”ことが証明できれば?」
「ノイズが理論値を超えます」
彼女の声が、わずかに震えている。
「しかし」と彼女は続ける。「価値観再配置は強力です。あなたの思考が、あなたでなくなる可能性があります」
「俺が俺じゃなくなる?」
「はい」
沈黙。
選択肢は三つ。
拒否して異常個体になるか。
参加して侵略に加担するか。
参加して変わらないことを証明するか。
三つ目は、成功確率が最も低い。
だが。
「天城」と俺は言う。
「はい」
「俺、参加する」
彼女の瞳が大きく揺れる。
「推奨しません」
「でもさ」
俺は笑う。
「俺が変わらなきゃいいだけだろ?」
「人間の価値観は容易に変動します」
「知ってる」
だからこそ怖い。
「でもな」と俺は続ける。「俺、自分で選ぶって言ったよな」
彼女は黙る。
「侵略に反対するのも、参加するのも、全部自分で選ぶ」
その言葉が出た瞬間、頭の奥がチリ、と痛む。だが今回は弱い。警告のようだ。
「忠実度が1.0%に低下しました」と天城が言う。
「ギリギリだな」
「はい」
だが彼女の瞳には、はっきりとした揺らぎがある。
「神谷悠人」と彼女は言う。「もしあなたが変わってしまった場合」
「そのときは?」
「私はあなたを観察対象から除外します」
胸が少しだけ痛む。
「それ、切り捨てるってことか」
「……あなたがあなたでなくなれば、共犯関係は成立しません」
正直すぎる。
俺は頷く。
「いいよ。それで」
大講義室の外では、他の学生たちが楽しそうに話している。単位加点、最新AI、未来の社会。希望に満ちた言葉。
俺はその中心に放り込まれる。
実験は三日後に開始される。
俺は“評価個体”。
侵略の成否を左右する、分岐点。
だが同時に、失敗すれば俺自身が消える可能性もある。
「なあ天城」と俺は言う。
「はい」
「俺が変わらなかったら、そのときは」
彼女の瞳が、静かに揺れる。
「……未定義の変数が、計画全体に拡張されます」
それは、侵略の根幹が揺らぐということだ。
実験開始まで、あと三日。
侵略者と大学生の共犯関係は、ついに直接的な試験段階へ進む。
次に試されるのは、忠実度でもノイズでもない。
“俺という存在の強度”だ。




