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生きてゐるタワーマンション  作者: 葉方萌生
第三話 承認欲求

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36/69

6

 映画を見終わったカタルシスに浸りながら、夕飯の準備をして食べ終えるころには、すっかり昼間の鬱憤も消え去っていた。


「なんだ、楽しそうじゃん。何かいいことでもあった?」


 鼻歌混じりに食器を洗っている私を見て、夫がそう言う。ここ最近、仕事のことも育児のこともあり、忙しさにカリカリとしてしまうことが多かったので、私が“楽しそう”なのを見て安心したのだろう。


「やっぱりこの家って最高だなって思って」

「まあ、そうだな〜。休日に何もせずに家にいたいと思うのは初めてかも」


 夫も私も、新しく住み始めたこの家が大好きだ。

 外で嫌なことがあっても、「あの家に帰れる」と思うだけで、心がすっと軽くなる。今日だって、ママ友たちと微妙な空気の中逃げるように帰ってきて、行き着く先がボロアパートじゃなくて良かったな、なんて思う。


 その後、夕飯を食べ終えた私は亜衣をお風呂に入れて、寝支度を整えていた。

 夫婦二人暮らしの時は、二人で夜中までビールを飲んでテレビを見て……という生活をしていたが、子どもが生まれてからは、ぴったり二十二時にはみんなで布団に入るようにしている。亜衣が、私たちと一緒じゃないと寝てくれないからだ。

 

 夜、私たちは三人で寝室のベッドに寝そべる。ふかふかのマットレスの上に身を沈めると、どっと身体から疲れが解き放たれるような感覚に陥った。


「さ、あーたん、みんなでおねんねしようね」

 

 夫が亜衣のお腹をぽんぽんと優しく撫でる。それで亜衣は満足した様子で、すーっと寝息を立て始めた。

 良かった。今日はあっさり寝てくれて。

 日によっては寝かしつけるのに三十分とか、一時間とかかかる日がある。

 毎日こんなふうにすっと寝てくれたら、どれほどありがたいか。身をもって痛感した。

 

 亜衣が眠りについてから三十分ほど経過したくらいだろうか。

 寝つきの良い夫は亜衣の右隣でぐうぐういびきをかいている。

 対して私は、まだ眠れずにいた。

 映画を見たことで気分は上がったのだが、布団に入るとどうしても一日の中で嫌だったことがフラッシュバックする。星名さんや宮脇さん、一条さんが変わる変わる頭の中に現れては、「承認欲求マウントなんて面倒な人」と私を罵ってくる。

 はっと飛び起きて、呼吸を整える。


 自分の想像の中の人物の言うことに、ショックを受けるなんて馬鹿馬鹿しい……。

 きっと疲れているのだ。 

 明日はお休みだし、早く寝てしっかり休もう。

 と、なんとか気持ちをなだめて再び寝転んだ時だ。 


 ピンポーン


 インターホンが、鳴った。

 思わず目をカッと開いてしまう。

 時刻は二十二時三十分を過ぎている。

 こんな時間に、一体誰……?

 背中に寒気を覚えつつ、無視して再び目を閉じた。


 ピンポーン


 しかし、インターホンは二回目の音を立てる。

 こんな時間に宅配……なんてことはないよね?

 そもそも最近宅配で何かを頼んだ記憶もないし、誰かからの贈り物なら連絡が来るはず。 

 それとも、夫が何か頼んだのだろうか?

 そうだとしても、こんな時間に玄関に出るのはなんとなく怖い。宅配業者を装った不審者ということも十分ありえる。

 やっぱり無視して寝よう——。


 ピンポーン


 ピンポーン


 ピンポーンピンポーンピンポーンピンポーンピンポーン


「ああっ、もう、何!?」


 思わぬインターホンの連打に、さすがに黙っておくことはできなかった。

 私は眠っている夫を起こそうかと一瞬迷ったが、さすがに申し訳ないと思ったので、一人でリビングのモニターの前までやってくる。


「は、玄関前……?」


 インターホンは、一階エントランスから鳴らされているのではなかった。

 玄関前に佇むのは、自分の母親と同年代ぐらに見える女性だ。

 玄関の前にいるということは、マンションの住人だろうか。

 それなら、非常識ではあるが、夜遅くに訪ねてくるのも分からなくはない。

 

 ピンポーン


 さらにインターホンの音を聞いて、とうとう限界が来てしまった。

 私は玄関まで小走りで向かうと、ガチャリ、と扉を開ける。ただし、防犯用のドアガードはつけたままだ。


「夜遅い時間ですが、うちに何か用ですか?」

「“何か用ですか”じゃないわよ! 真下に住む者ですけどね、おたくの家、何時まで子どもが遊んでるの!? ドタバタドタバタうるさくて眠れないじゃないのっ。夜遅い時間まで悩まされてるのはこっちのほうです!」


 ドアの隙間から、突如がなり立ててくる声が耳にキンキンと響く。

 RESIDENCE SAKAE ONEに引っ越してきてから、完璧な防音壁の中で静かに暮らしていた私にとっては、あまりにもうるさい声で、思わず耳を塞ぎたくなった。


「ちょっとあなた、聞いてる? 毎日十時過ぎても走り回る子ども、なんとかしてくれないかしらっ。今だって、うるさくてうるさくて。頑張って我慢してたけどもう耐えられないと思って来たの!」


 女性は完全に頭に血が昇っていて、隙間から唾が飛んできそうな勢いだった。

 私は心臓がドクドクと早鐘のように鳴るのを感じながら、ぎゅと胸を抑える。


「は、はい……。でも、うちの子は毎日十時には寝ています。十時以降起きてる日もベッドの上にいるので、下に音が響くほどではないと、思います」

「そんなの嘘でしょう。あなた、私に迷惑かけておいてよくそんなことが言えるわね!」

「いや、嘘じゃないですよ。本当です。なんなら今も子どもは寝ていますが、見て行かれますか?」


 彼女の主張があまりにも荒唐無稽すぎて、ムッとしてきた。


「いいわよ、そんなのっ」

 

 チッ。

 寝ているところを見てもらったら分かってくれるかと思ったのに。

 

「じゃあなに? 私がいつも聞いてる音はなんだっていうの?」

「知りませんよ、そんなの」


 はあ、もういい加減解放してほしい。

 と心の中でため息をつきつつ、以前エントランスの掲示板に『騒音についての注意喚起』という貼り紙がされていたのを思い出す。

 確か、騒音についての住民同士のトラブルが発生しているとなんとか……。

 常に急ぎ足で歩いているので、普段は掲示板になど目もくれない。でも、その時は吸い寄せられるようにして視線が『騒音についての注意喚起』に向かったんだっけ。

 このマンションは防音設備がしっかりとしているのに、騒音トラブルなんて変だと思って。

 不思議に思っていたが、今目の前で「音がうるさい」とがなり立てる人を目にすると、あの貼り紙で“トラブル”を引き起こしていたのはこの女性ではないかと思い始めた。


「もういいわっ。あなたに話しても何も解決にならない! 管理人に言っておくわ!」

「どうもすみませんでした」


 なぜ私が謝らなくちゃいけないのかは分からなかったが、これ以上身に覚えのないクレームを浴びる気にもなれず、私は玄関扉を閉めた。

 というか、管理人に相談できるなら最初からそうしてほしい。

 寝る前に嫌な出来事があるものだ。

 昼間のママ友会でのことがかわいく思えるぐらい、不快な気持ちのまま床につくのだった。

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