1.由希視点*駐車場に土をばらまいてしまい
今年の春から、桜ノ花田男子高校に通っている。この高校は、歩く速さが平均的だといわれている人を基準にすると、バスと徒歩合わせて一時間ぐらいの距離にある。八時半までに登校しなければならなくて、できれば時間に余裕のある始発の六時五十分のバスに乗りたいのだけど、とある事情で七時二十分のバスに乗っている。
早く歩くのが苦手で、教室の中に入るのが毎日ギリギリだ。走ればいいのだけど、朝はまだエネルギーが下の方にあるからあんまり走れない。自転車は、疲れやすい僕には不向きだし。
雪がない今でさえこんな感じなのに、雪が降ったらバスが遅れるし、どうなるんだろう――
入学早々から不安を抱えた状態で、僕の高校生活は始まっている。
今日も、教室の中に足を一歩踏み入れた瞬間にチャイムがなった。僕が教室に来たからか、チャイムのせいなのか分からないけれど、ざわめいていた声は静かになった。そして朝の読書タイムの準備を終えていた二十五人の男子生徒たち全員の視線を浴びる。
注目されるのは苦手だ。小学校の発表会で声が震えて笑われたことが、今も頭から離れない。教室中の視線を感じると、あの時の恥ずかしさがよみがえる。
――注目を浴びるのは、きっと生まれた時から苦手だった。記憶はないけれど、生まれた瞬間に泣いたのは、きっと周囲の視線に怯えたからかもしれない。お母さんのお腹の中から出た時の、一気に世界の色が変わる驚きよりも、きっと、視線が怖かった。
朝から憂鬱だ――。
『なんでこいつ遅刻ギリギリなんだ?』とか『こんなにギリギリになるぐらいなら、学校休めばいいのに』とか、今も思われているのかもしれない。
律くんの視線と僕の視線が一瞬交わったけれど、ぷいとそらされた。律くんの視線はすでに開かれていた彼の本にいく。冷たさを感じて、胸の辺りがチクッとした。
僕は下を向いて誰とも視線を合わせないように縮こまりながら、一番後ろの窓側の席に着いた。
クラスメイトたちの視線を感じたまま僕は、大好きな青春ボーイズラブの小説〝キミと手をつなぎたい〟を鞄の中から出した。この小説は両片想いのふたりが少しずつ気持ちを伝えあってラストには「キミと手を繋ぎたい」と、攻めが告白して結ばれる、尊い男の子ふたりの物語だ。僕はもう、何回も読んでいる。僕は本を開くと現実世界を遮断した。
***
高校生活は、クラスメイトとあたりさわりのない会話だけをして、朝の時間以外は可もなく不可もなくな雰囲気で過ごしていった。だけど新しい人間関係だからか、中学の時よりも気を使いすぎていて精神的な疲労は溜まっていた。元々、人と仲良くなるのは得意な方ではないし……。
そんな中、ゴールデンウィークが、やってきた!
土を耕す時期であり、僕にとっては癒しの時間。土をいじっていると精神的な疲労は解放され、気持ちがすっきりとする。
今日の天気は快晴で、心地よい風がふわりと流れてきた。
*
家庭菜園との出会いは、小学一年生の時だった。
ホームセンターで親の買い物について行った時に、赤いミニトマトがなる苗ポットを買ってもらった。一緒に買ってもらったうさぎの模様が入っている白色の大きい鉢に苗を移し、支柱を立てた。あっという間に苗は成長し、真っ赤なミニトマトがたくさんなった。学校から夏休みに持ち帰ってきた朝顔の鉢植えと並んでいる姿もとても可愛くて、トマトの虜になってしまった。
トマトを食べるためにもぎ取る瞬間は、トマトが可哀想な気がして、心が痛くなって。何時間も泣いていた。
結局お母さんに「トマトは由希に食べられたがっているんだよ」と説得され、トマトの似顔絵を描いて、当時の気持ちを長々と似顔絵の横に綴ってから、食べた。泣きながら食べていたけれど、とても甘くて美味しかった記憶が微かに残っている。それから毎年トマトに会いたくて、鉢植えで育てるようになる。
*
トマトを育てる場所が進化し、同時に悲しい事件が起きたのは、小学四年生になった時だった。
うちで経営して住んでいるアパートの敷地内の右側に小さな畑を近所に住む農家のおじさんに作ってもらった。そこにホームセンターで買ったトマトの苗を植えてみた。
――トマトだけじゃ寂しいかな?
そう思った僕はきゅうりと、橙色と黄色のマリーゴールドも一緒に植えた。全部に対して愛おしさを感じていた。
四月の末辺りにはもう暖かい日が続いたから、大丈夫かな?と思って苗を植えたのに――。急に寒い日が現れ、しかも続いてしまい、きゅうりの苗が枯れてしまった。苗が伸びて成長し、きゅうりがなるものだと信じていたから結構、落ち込んだ。その年は冷夏で、トマトも青い状態の実が多いまま枯れていき、冬が来た。
きゅうりが枯れたりトマトが不調だったりしたのは、寒い夏のせいだと後から農家のおじさんに教えてもらったけれど、当時の僕は自分の育て方が悪かったからと、しばらく反省する日々だった……。
それからは早めに苗を買ってもまだ畑には植えないで、ポットの中で時が来るまで玄関、時々外で過ごしてもらっている。僕が住んでいる北の地域では、僕、独自の判断だけど、五月の下旬辺りに苗を植えるのが良いのかな?と思う。
厚めの長袖をしまったのに、五月の下旬にも冷える日がたまにあるから油断は出来なくて、心配になる。だからうちでは風に当たりすぎないように、米袋やゴミ袋を被せて、苗が寒がらないようにする。そして日々こまめな観察もし、枯れないように気をつけていた。
*
話は現実に戻り、これから雪の下で凝り固まった土をふかふかにして、トマトたちの心地よい寝床を作ります! そう、大事な部分だから何度も繰り返したい。植える前には土をふかふかにする作業をする。苗たちの居心地が良くなるように、土を耕す作業だ。
今年は「いい土だから、足して使えばいいべさ~。栄養も蓄えた土だ~」と、ここの畑を作ってくれたおじさんが、ギュウギュウに土が入っている大きな袋を五袋も置いていってくれた。今、それらはアパートの左側にある物置に入っていた。
もらった土をアパートの物置から畑に移動させる作業から始まる。左から右へ――。
朝の長ネギ納豆ご飯を食べ終えて、中学の時に着ていた紺色ジャージと白Tシャツに着替え「よし、頑張るぞ!」と気合いを入れた。
「由希、ひとりで大丈夫かい?」と、玄関で長靴を履いていた僕に、お母さんが質問する。
「大丈夫だよ! もう高校生だし。畑仕事は腰にくるから……お母さんはゆっくりしていて?」
「分かった。ありがとね! でも無理はしないで、助けて欲しいことが何かあれば、すぐに呼ぶんだよ」
「うん、分かった。じゃあ、畑作ってくるね」
明るい笑顔を作ってそう言うと、外に出た。
僕はお母さんとふたりで暮らしていて、昨年はお母さんとふたりで畑を耕した。その時にお母さんは腰を痛めて動けなくなってしまった。今はもう治ったけれど……お母さんには無理をしてほしくないし、僕ひとりで今年はやるんだ!と、意気込んではみたものの――。
「あ、ばらまいてしまった……」
土の袋を運ぶ途中に通る駐車場の上に、おもいきり土をばらまいてしまった。しかも、うちのところではなく、一〇二号室の住人が使う駐車場に。
よりによって一〇二号室は律くんち……。
僕は立ちすくみ、ただぼんやりとばらまいた土を眺めた。眺め続けていると、一〇二号室のドアが、静かに開いた。
ドアの隙間から顔を覗かせたのは、律くんだった。瞳の中に光のない状態で、ばらまかれた土をじっと見ている律くん……。呆れすぎているように見えるその表情。
「ご、ごめんね。今すぐに土を拾うから」
慌てながら僕は軍手をはめた両手で土をすくって袋の中に戻した。何回も何回もその作業を必死に繰り返す。繰り返すが、かなりの量をばらまいていて作業の終わりがみえない。段々と、ばらまいてしまった土が、永遠の蟻地獄のように見えてきた。
ふと一〇二号室のドアに視線を向けると、僕を見ていた律くんの姿が消えていた。
――ひと言も言葉を発することなく、いなくなってた律くん。相当呆れていると思う。自分の家の駐車場を汚されて、嫌な気分になっちゃったよね。
僕は涙目の状態で下を向き、ひたすら土をすくい続けた。少し経つと目の前に、見覚えのある砂場遊びの黄色いシャベルが、糸にぶら下がった蜘蛛のように、ぬっと降りてきた。
砂場遊びシャベル、シャベルを持っている誰かの艶やかで美しい手、そして腕を通り誰かの顔へと視線を繋げていく。顔を上げると、ばちっと目から音がこぼれるくらいな勢いで律くんと、目が合った。気配で律くんだと察してはいたけれども、こんな近くで目が合ってしまうと動揺しすぎる。風切音が聞こえそうな速さで目をそらした。そらしてしまった。
僕、感じ悪かったかな――。
ところで、律くんは何故僕が小さい頃に砂場遊びで使っていたシャベルを持っているの? たしかこれは、いつの間にかなくしていたやつ。ふわっと一瞬、律くんと小さい頃に公園で遊んでいた時の記憶が浮かび上がる。
「こ、これ、何で、持ってるの……?」
僕はシャベルと目を合わせながら小声で言葉を絞り出した。
「俺は、これ使うから」
律くんは、僕の質問を完全にスルーした。そしてアパートの物置の中にあって、畑のところに後から持ってく予定だった銀色のシャベルを右手に持っていてアピールした。律くんの言葉と同時に、タイミングよくキラリと輝くシャベル。
「て、手伝って、くれる、の――?」
僕の視界の端にいる律くんが「うん」と頷いてくれた。律くんの意思を確認した後、僕は砂場シャベルを受け取る。律くんの指が触れて心臓が激しく高鳴ったが、必死にそれを隠した。
律くんが銀色シャベルで土をすくいだしたから、僕も後を追い作業を再開させた。
土がほぼ袋の中に収まると、水まきのホースを引っ張ってきて、駐車場の微かに残る土を流す律くん。律くんの無駄と隙のない動きで作業は終わり、土をばらまく前よりも綺麗になった。
――はぁ、律くんのお陰で、永遠の蟻地獄から開放された。
僕はほっと息をなでおろし、開放感を得て自然と口角が上がる。
「ひ、光田くん、すごいね。光田くんのお陰であっという間に駐車場が綺麗になった!」
嬉しさのあまり、思わず律くんと目を合わせてしまう。一瞬だけ微笑んでくれたけれど。
いつものように無表情になり、クールに頷きながら目をそらす律くん。目をそらされて気持ちはすぐに現実へと戻っていった。
律くんは、僕に銀色シャベルを渡すと、土の袋を畑まで持っていってくれた。僕は律くんの背中を呆然と見つめながら、ひとりではしゃいだ恥ずかしさと、やらかしてもっと嫌われてしまったかな?と、喪失感に苛まれていた。
律くんは、ひとつだけではなく、物置にある五つの袋を僕と一緒に運んでくれた。それだけではなく、雑草を抜くのも手伝ってくれた。さらに、元々畑にある土と袋の土を混ぜて馴染ませる作業までしてくれた。全ての作業が終わると律くんは手についた土をほろいながら畑全体を確認し「じゃあ、戻るわ」とだけ言葉を残すと、自分の家、一02号室にそそくさと戻っていった。
どうしよう。たくさん手伝ってくれたのに、きちんとお礼を言えてない。チャイムを鳴らしてあらためてお礼を言うのも迷惑かも知れないし、直接話しかけるのも緊張する。手紙を書いて郵便受けに入れておこうかな。文章だったらきっと、上手く伝えられる気がするし。
外の片付けを済ますと、居間にいたお母さんから便箋と封筒をもらって、自分の部屋に行く。そして机に向かい、律くんへのお礼の文章を考えた。
手紙の文章と一緒に、嫌われているのに何で手伝ってくれたんだろうとも、たくさん考えた――。