8.由希視点*恋人になるということ。
湖のど真ん中、ふたりきりの世界で律くんに愛の告白をされた。
こんな、僕の好きな漫画の世界のような出来事がリアルに起こるなんて、全く想像していなかった――。
律くんの真剣な眼差し。僕はどうしたら律くんに満足してもらえるだろう。こんな時、漫画では告白された側はなんと答えるのだろう。と、考えが一瞬頭によぎる。だけど、それは何か違う。
「困らせてごめん、急に困るよな……」
律くんが謝ってきた。絶対的な自信はないけれど、多分、正直に気持ちを伝えるのが僕の中での正解だ。
「あのね、律くん……」
胸の奥をざわめかせながら僕は言葉を探した。
なんとなく、自分を含めて周りが平和でいられるように。
なんとなく、当たり障りのないように。
ずっと僕は周りに合わせて生きてきた。
――だけど律くんに対してだけは、正直にいたい。
「律くん、僕は恋をしたことがなくて恋人の感覚は、漫画でしか分からない。毎日律くんのことが気になるから、僕も律くんに恋をしているかもしれないし、してないかもしれない。正直、律くんと恋人になるのは、今は何も想像できない……だから、どうやって返事をすればいいか、分からない」
正直に伝えられたけれど、律くんが喜んでくれそうな言葉が言えなくて、僕は下を向いた。
あぁ、なんだか僕が振ってしまった感じになっている。律くんは僕にとって王子様のようで、誰にも媚ずに孤高でかっこよくて。いつも堂々とした立ち振る舞いをしている。振られるのはむしろ僕の方なのに――。
「別に俺は、由希くんと恋人としてどうこうなるとかは考えてないから。今言ったこと、気にしないで忘れて?」
律くんはそう言うと、ちょっと無理したような切ない笑顔を見せた。その笑顔の裏に、僕を気遣う優しさが隠れているのが分かった。ずっしりと胸の奥に刻まれ、忘れられるわけがないと思いながらも僕は小さく頷いた。
「由希くん、ずっと、これからも一緒にいてくれる?」
「もちろんだよ! 律くんとずっと仲良しでいたい!」
「ありがとう」
静かに風が頬に触れ、さーっと音を立てて流れていった。湖面はキラキラと光を反射し、遠くの木々がそよぐ音が聞こえる。僕たちは見つめ合って、それから微笑み合った。そしてお互いに前を向いた。
「もう、時間だ」と、律くんが腕時計を確認する。キラキラと輝く湖面を眺め、名残惜しさを感じながら僕は律くんと一緒に漕いで、陸に向かった。
陸に着いてからは公園内を散歩して、向日葵や、夏の色とりどりな花が咲いている花畑も回れて充実した時間を送れた。
遠足は終わり、貸切バスが学校前に着くと解散した。
「由希くん、これ持ってくれる?」と、家に帰るバスが来るバス停にふたりで向かう時、律くんのボディバッグを渡される。
僕が律くんのバッグを手に持つと「俺はこれ持つから」と、僕が背負っていた重たくて大きいリュックを律くんが背負った。更に僕の鍋が入っているエコバッグまで持ってくれた。
「な、なんで?」
「俺の方が荷物持つの得意だから。俺のバッグ、よろしく」
「ありがとう」
僕は律くんに何回ありがとうと言ったのだろうか。数え切れないくらいにありがとうと思わせてくれる行動を律くんはしてくれる。
僕はとても大切な律くんのバッグを背中ではなく前に荷物が来るように背負った。
アパートに着くと、玄関の中まで入ってくれて僕の重たい荷物を置いてくれた。僕が律くんにボディバッグを返すと律くんはバッグの中をあさって、何かを取り出した。
「由希くん、これ、お土産」
小さな紙袋を僕は受け取る。
「お土産? いつ買ったの? 遠足で? ありがとう」
「さっき公園で、トイレに行く途中に買った」
「そうだったんだ、ありがとう!」
「じゃあ、また明日」
律くんはドアを開けようとする。
「律くん、待って?」
僕は律くんを呼び止めた。呼び止めた理由は――。
「律くん、僕は昔からプレゼントや何かをもらうと、くれた本人の前で開けるのが……なんて言えばいいのか、もらったプレゼントを見て反応するのが苦手で開けられないんだけど、でも律くんの前では開けたいなって思って……」
律くんは何も言わずにじっと話を聞いてくれている。
「あのね、今、律くんがくれたこの袋を開けても、いい?」
律くんが「ふふっ」と口に手をやりながら笑った。
声を出して笑うのは本当に珍しい。その仕草にドキドキして息苦しくなった。告白されてから、律くんに対しての感覚が以前よりも敏感になっている気がする。
「今の僕、何か変なこといっちゃった? 話しているうちに何を言ってるのか分からなくなってきちゃって。もう本当に説明するのが苦手で……」
「いや、変じゃないよ。開けてみて?」
どんな反応でも受け入れてくれるような、優しい眼差しで僕を見守ってくれている。僕は封をしている袋のテープを紙が破れないようにドキドキしながら丁寧に剥がした。
中を覗くと薄紫色の小さくて可愛い巾着と、向日葵の種が入った小袋が見えた。そしてさっき公園で嗅いだラベンダーの香りもしてきた。ラベンダーのポプリと向日葵の種だ。
「ラベンダーの香り、癒されて好き。向日葵の種も、黄色い野菜の花に似合うし、畑に植えたい」
僕は自然に笑みが零れてくる。
「嬉しい反応と感想ありがとう。好きって言ってもらえて、良かった」
とてもシンプルすぎた気がするけれど、感想を律くんにきちんと伝えられた。
「僕も律くんにお土産買えば良かったな。ごめんね」
「いや、謝らなくてもいいから。一緒の場所に行ったんだから、普通はお土産買わないだろ。俺はただ、由希くんに渡したくて買っただけだから」
「律くん、ありがとう! 僕も今度お土産買うね」
「ありがと。また明日な」
律くんはそう言うと、帰って行った。
――律くん、本当にありがとう。
向日葵の種を植えるのは来年かな? 畑にいっぱい咲いて、律くんと一緒に眺めている風景が浮かび上がる。ラベンダーのポプリは、今日枕元に置いて寝ようかな。律くんと一緒にラベンダー畑にいる夢を見そうだな。
全部に律くんが出演しているなと思いながら僕は、お土産をぎゅっと抱きしめた。
**
遠足の日から一週間が過ぎた。最近はお昼ご飯の時間になると、律くんが僕の席に来てくれる。
「今日も由希くんの弁当、美味しそうだな」
「ありがとう。卵焼き作りすぎちゃったから、食べる?」
「欲しい、ありがとう」
律くんは卵焼きを箸で摘んだ。
作りすぎたなんて、嘘だ。ただ律くんに食べてほしいから、いつも多めに作っている。
あんまり会話はないけれど、居心地が良くて幸せな時間だ。だけど、僕の気持ちが揺れてしまうことが起きた。
「律、前にカラオケで会った、一番派手だった女子覚えてる? サラちゃんって名前の子。今さらだけどさ、その子が律のこと気になってて、また遊びたいって。いつ暇?」
「いや、何も覚えていないし。遊ぶのもめんどくさい」
律くんらしい答えだなと思うと同時に、胸の奥がスッと軽くなった。それは潔く断ってくれたから。って僕、なんてことを思ってしまってるんだろう。まるで恋人みたいな反応だ。胸がざわついて、箸を持つ手が少し震えた。
「お願い! 遊ぶメンバーの中に俺が気になってる子もいてさ、律がいないと女子たちが遊ばないって。ほら、清純な雰囲気で可愛い女の子いたじゃん、ユメカちゃんって子……」
「誰なのか全く分からないし、覚えてない」
「マジかよ。綿谷もその時カラオケにいたけど、覚えてない?」
「……分からないな」
しつこいよ、袴田くん。もう律くんのことは諦めて欲しい。って言いたい。だけど内気な僕はそんな強めな言葉を言えない。
気持ちをモヤモヤさせていると、律くんがなぜかこっちをチラ見してきた。
「由希くんは、どう思う?」
「何について?」
「俺がカラオケに行くことについて」
なぜ律くんは僕に質問を……。
断って欲しいけれど、僕が断ってとお願いするのも変だし。
「い、一回だけ行ってみても、いいんじゃない?」と、心にもない発言をしてしまった。
「……そっか」
律くんの声は低くなる。
「袴田、いつでも……今日でもいい」
「いいのか!? 律、ありがとな。今すぐに伝えるわ」
袴田くんはスマホをいじりだした。
僕は一気にどんよりとした気持ちになってきた。もしもその子と律くんが恋の仲になってしまったら? 考えただけで寂しくて、苦しくて。どうしようもない気持ちになる。だけど僕と律くんはただの友達だから、僕は何も出来ない……。
それからずっとどんよりとした気持ちのままで、午後からの授業は集中できなかった。そして遂に、放課後がやって来た。律くんが、律くんのことが好きな女の子と会う時間が近づいてきている。
「律、今日もカラオケエターナルで待ち合わせな」
袴田くんは先に出ていく。
律くんもすぐに出ていくのかなと思ったけれど、僕の席の方に向かってきた。
「由希くん、また明日の朝な。じゃあ……」
「うん、ばいばい!」
僕は無理やり口角を上げて、軽く手を振った。
律くんの背中を見送る。
「はぁ、帰ろっと」
しょんぼりと落ち込みながら僕は帰宅した。
家に帰ると、すぐに部屋の中に閉じこもった。
律くんと、その子はもう会ってしまったのだろうか。話が弾み、親しくなってしまったのだろうか。袴田くんは僕たちがカラオケに行った時にいたと言っていたな。あの時は歌いたくない気持ちで余裕がなくて、人を見ていなかった。顔を全く覚えていないけれど、その子のことが憎くなってきた。なんか自分の性格が歪んできて自分のことも嫌になってきた。もう、何もかも、嫌だ――。
とりあえず僕は、ふて寝した。
目覚めると少し薄暗くなってきていた。
寝たら若干気持ちは落ち着いたものの、律くんたちが気になりすぎて落ち着かない。
そんな時は、畑に行こう。
ため息をつきながら外に出た。
律くんの家の中には、誰かがいる気配はない。
まだ帰ってきていないのか……。
心がモヤモヤする時はミニトマトのお世話になる。そして気持ちをミニトマトに向かって吐き出すと気持ちが少し落ち着く気がしている。一種のおまじないのような感じだ。ミニトマトの前に来るとしゃがんだ。夕暮れ時の畑は静かで、赤い空の色と似ている色のミニトマトは他の花たちよりも目立っていた。
「あぁ、律くんたちが今、漫画でよくあるふたりで抜け出そう展開になっていたらどうしよう。僕がもしも律くんと恋人だったら『行かないで』って言えて、こんな嫌な思いしなくても良いのかな? というか恋人って何? もしも律くんが今日、その人と付き合い始めたらどうしよう。その人が律くんの一番になって、僕は二番目になるのかな。そんなの耐えられない。嫌だな、嫌だ……本当に嫌だ。僕の律くん――」
「由希、くん?」
ちょうど僕が律くんの噂をしていた時、律くんの声が背後から聞こえた。
振り向き律くんの顔を見た途端、涙が勝手に溢れてきた。
「律くん……僕、律くんに言いたいことがあるけれど、何から話せば良いのか分からない。気持ちを伝えた方が良いのか、ふたりの幸せを祝えば良いのかも分からない。本当は、祝いたくないよ」
「えっ、待って? 落ち着いて?」
律くんは僕の隣でしゃがむと、僕の背中をトントンとして、落ち着かせようとしてくれた。
「ごめんね、律くん」
「いや、謝る理由も分からないし、というか祝ってもらえるようなこと何もないし」
「だって、律くんは律くんのことが好きな女の子と……」
「いや、何もないし! 本当に俺、由希くん以外には興味がないから」
「本当に……?」
僕以外には興味がないと言われてほっとする。
「あっ、そうだ! 由希くん、これあげる」
律くんはグルグルするところが虹色の小さなかざぐるまをカバンから出した。僕は両手で棒の部分を持つ。
――僕がいない時でも、僕のことを考えながら可愛いかざぐるまを選んで買ってくれていたんだ。
ふーっと息を吹きかけると勢いよく回った。
「可愛いね、うちの畑に似合いそう! ありがとう」
回っているかざぐるまを眺めていると気持ちが落ち着いてきた。落ち着いてからふと気がつく。
「律くん、もしかして僕の話、全部聞いてた?」
「うん、聞いてた。ねぇ、もう俺ら、お試しでもいいから、付き合おう? 恋人がどんな感じか試してみて、由希くんが嫌だなって思ったらもう、何もなかったことにしても良いし」
まっすぐに僕を見て、真剣な声で律くんは言った。その眼差しに僕はドキッした。
律くんが他の人と付き合うのは嫌だ。
律くんが僕以外の人を一番にするのも嫌だ。
今断れば、律くんはモテるから僕はすぐに二番になってしまうかもしれない。そうなるくらいなら――。
「分かった。どんな感じか、試してみる」
そうして僕たちは、お試しの恋人になった――。




