第95章:わずかな休息
サシャたちが温かい食事を囲み、談笑を楽しんでいたその時、宿屋の重厚な木製の扉が、ガラリと音を立てて開いた。
「いらっしゃいまし!」
看板娘が相変わらず元気な声で出迎える。
「おう」
そこに現れたのは、褐色の肌をした大柄なドラゴニア族の男だった。
彼の逞しい腕には、龍心会の紋章がはっきりと刻まれた腕章が巻かれているのが見て取れた。
「カウンターへどうぞ」
看板娘は、いつものように明るい声で、男をカウンターへと手際よく案内した。
「あぁ…ビールをくれ。飲み放題で頼む」
男はカウンターに座ると、顎を上げて看板娘に注文を告げた。
「ビールですね!分かりました!」
看板娘は、元気よく注文を受けると、近くの樽からジョッキにビールを注ぐ。
そして、泡立つビールが満たされたジョッキを男のテーブルに置いた。
「おかわりはカウンターにあるビール樽からご自由にお取りください!」
看板娘はビールのおかわり方法を告げた。
「…おう」
男はジョッキを掴むと、喉を鳴らしてビールを一気に飲み干した。
「っはぁ!仕事終わりの一杯…そのために俺は生きているんだ…」
至福の表情を浮かべ誰にともなく言葉を漏らす。
そして、間髪入れずにカウンターに置かれたビール樽から、新しいビールをジョッキに勢いよく注いだ。
「(お気楽なものじゃのぉ)そこの娘よ、豚そばをもう一杯じゃ!」
男の様子を横目で見つつ、トルティヤは看板娘におかわりの豚そばを注文する。
「あいよっ!」
看板娘はトルティヤの注文を受けると店の奥へと消えて行った。
「おいおい、まだ食べるのか?」
リュウは半ば呆れたようにトルティヤに尋ねる。
「当り前じゃ。腹が減っては戦はできぬ。というしのぉ」
トルティヤは、リュウの言葉に臆することなく応えた。
「もぐもぐ…リュウは意外と小食なんだね?」
アリアは、追加で注文したばかりの、湯気立つシナモンフィッシュのから揚げを、指でつまみ上げながら話した。
「食べ過ぎは胃に大きな負担をかけるからな」
リュウは、そう呟くと卓上の水を一口飲んだ。
「そんなの関係ないのじゃ。食べたいときに食べる。それが人生を楽しむ…コツじゃ」
トルティヤは、そう呟くと、アリアの皿からシナモンフィッシュのから揚げを一つ、器用に箸でつまみ上げると、躊躇なく口に放り込んだ。
「うむ。中々に美味ではないか…」
トルティヤの口の中で、から揚げの衣がサクサクと心地よい音を立て、シナモンフィッシュ特有の甘い香りが鼻腔をくすぐる。
魚の濃厚な旨味が、口いっぱいに広がっていった。
「シナモンフィッシュ、美味しいでしょ!?」
アリアがトルティヤに尋ねる。
その時、トルティヤが、おかわりで注文した豚そばが届く。
「お、きたのじゃ!」
トルティヤは豚そばを見ると待ってましたと言わんばかりに箸を手に取る。
「ついでじゃ、シナモンフィッシュのから揚げを追加で1つ頼むのじゃ!」
トルティヤは、シナモンフィッシュのから揚げの美味しさにすっかり魅了された様子で、迷わず追加注文をした。
「はい!少しお待ちくださいね!」
看板娘は、追加の注文にも慣れた様子で、にこりと愛らしい笑顔を見せた。 それと同時だった。
「おーい!!黎英豆腐とシナモンフィッシュのから揚げだ」
その時、カウンターにいた褐色の肌をしたドラゴニアの男が、やや粗野な声で看板娘を呼び止めた。
「はいよっ!」
看板娘が元気よく返事をする。
その時、男は、わざとらしく強調するように、言葉を続けた。
「なぁ、俺ら同じドラゴニアだろ?人間共よりも先に料理を持ってこいよ。な?」
「え?そういわれましても注文は順番ですので…」
看板娘は、男の理不尽な要求に、困惑と警戒の入り混じった表情を浮かべた。
「んだとコラ!!俺は龍心会だぞ!俺が法律だぁ!!」
すると、男は突如として語気を荒げ、店中に響き渡るような大声で怒鳴り始めた。
その目は血走り、全身から酒の匂いが立ち込めていることから、相当酔っているのが見て取れた。
「きゃあ!」
その剣幕に、看板娘は思わず小さな悲鳴を上げた。
すると、奥から店主らしき年配の男が顔を覗かせた。
「お客さん!落ち着いて!」
店主が諭そうとする。
「黙れっ!!そもそも、ドラゴニアのくせに人間に媚びて、食事と宿とか提供しているんじゃねぇぞ!!」
男は、店主の言葉を遮り、酔った勢いで口汚く罵倒した。
「いや、そういわれても、ここは宿なので…色々な人が来るんです。それに、憲法通り、宿泊税だって導入していますし…」
店主は、男の理不尽な言葉に、どう返していいか分からず言葉に詰まった。
「うるせぇ!こうなったら…!」
男は、激高した様子で、手に持ったジョッキいっぱいのビールを揺らしながら、サシャたちのテーブルへと一直線に歩み寄ってきた。
次の瞬間、トルティヤ頭上にジョッキを掲げる。
「…」
トルティヤは、ジョッキを掲げる男の行動を、一切の動揺を見せず、ただじっと見つめ返していた。
「おい。人間風情がドラゴニアの領地で堂々と飯くってんじゃねぇ」
男は、薄汚い笑みを浮かべながら、トルティヤの頭上へとジョッキを傾け、冷たいビールを浴びせかけた。
「…」
びしょ濡れになるトルティヤの髪から、琥珀色のビールが滴り落ちていく。
その光景に、リュウとアリアは唖然とする。
「あわわ…」
精神世界からその光景を見ていたサシャは、あまりの出来事に驚き、大きく目を見開いた。
「はっはっはっはっは!!いいざまだぜ!人間はその辺で野宿でもして草でも食ってろ!」
男は、トルティヤの濡れた姿を指差し、下品な高笑いを響かせた。
それに対して、トルティヤは、静かに、しかし有無を言わせぬ響きで、男に問いかけた。
「…お主。遺言はそれでいいのか?」
「遺言?なんのことでちゅかー?」
男は、トルティヤの言葉を理解できず、さらに小馬鹿にするような態度で挑発した。
すると、その瞬間、トルティヤの全身から雷光が迸り、低く、しかし力強い声で魔法を唱え始めた。
「雷魔法-聖者の鉄槌-!!」
トルティヤが放った雷状の鉄拳は、寸分違わず男の胴体を直撃し、そのまま壁に叩きつけるように盛大に吹き飛ばした。
「ドンガラガッシャーン!!」
轟音と共に店内の椅子や机が砕け散る音が響き渡り、男は衝撃で床に打ち付けられた。
「くっ…やりやがったな。俺に歯向かうということは龍心会に盾突くのと同義だぞ?」
男は、全身に走る痺れに苦悶の表情を浮かべながらも、何とか体をむくりと起こした。
「そんなこと知らん。それよりも、ワシの食事を邪魔した罪は大きい。今すぐ謝って飯代と宿代をワシらに置いていくか、痛い目に遭うか選ばせてやるのぉ」
トルティヤは、起き上がった男に、冷酷な眼差しを向け、明確に告げた。
「へっ…口が達者な坊やだ…いいぜ相手になってやる!」
すると、男はトルティヤの言葉に逆上し、自らも魔法を唱えようと体勢を整えた。
しかし。
「なんの騒ぎだ!?」
その時、店内の騒ぎを聞きつけたのか、偶然通りかかった龍心会の腕章を着た男たちが数人、宿屋の中に入ってきた。
「おお、ちょうどいい。この人間が俺に魔法をふっかけたんだ!俺は気持ちよく飲んでいただけなのによぉ…」
褐色肌のドラゴニアは、顔色を変え、事実に反する主張を始めた。
「なにっ?」
龍心会の男たちはサシャ達を睨みつける。
「その男のはったりじゃ。ワシが気持ちよく食事をしている時に、ビールをかけてきおったのじゃ…」
トルティヤは、男の虚偽の主張に対し、起こった出来事をありのままに、簡潔に説明した。
「わ、私も見ました!このお客様が因縁をつけて…」
看板娘も、震える声で、褐色肌のドラゴニアを指差しながら、トルティヤの言葉が真実であると証言した。
「ふむ…」
龍心会の男たちは、両者の言い分を聞きながら、褐色肌のドラゴニアとトルティヤを交互に鋭い視線で見つめた。
そして、ため息をつく。
「分かった。そちらの話を信じよう。そいつの体からビールの匂いもするしな」
そう判断すると、龍心会の男は躊躇なく、褐色肌のドラゴニアを掴んで店から連れ出そうとした。
「おい!お前ら!人間の言葉を信じるのか!」
褐色肌のドラゴニアは、不満そうに、しかし無駄な抵抗と分かりながらも喚き立てた。
「お前、相当飲んでいるぞ。いくら酔っているからといって、何もしていない人間に八つ当たりをするな。それに法を守っているのであれば、人間だろうとなんだろうと問題はない」
こうして、褐色肌のドラゴニアは、他の龍心会の男たちによって半ば引きずられるように店から連れ出されていった。
「娘よ。すまない。これは椅子の弁償代とビール代だ」
騒動を起こしたことを詫びるように、白髪のドラゴニアは看板娘に金貨を5枚手渡した。
「いえいえ。受け取れませんよ…」
看板娘は、恐縮した様子で受け取りをためらった。
「いいから…困ったことがあれば龍心会に相談してください。ではこれにて…」
男は、困惑する看板娘に念を押すように言葉を続けると、深々と一礼し、静かに店を後にした。
「(どうやら、龍心会にも話が通じる奴がいるようじゃのぉ)」
その様子をトルティヤは興味深そうに見つめていた。
「お客様、大丈夫ですか?」
龍心会の男たちが店を去ると、看板娘は安堵の表情を浮かべ、すぐにサシャたちのテーブルへと駆け寄ってきた。
「平気じゃ」
トルティヤは、心配する看板娘に、余裕のある表情で応じた。
「僕たちは大丈夫だけどお店が…」
アリアは心配そうな眼差しで店内を見回した。
先ほどの騒動で、男が吹き飛ばされた影響で、いくつもの椅子が倒れ、壁に飾られていた装飾品が床に散らばっていた。
「あぁ、気にしないでいい。お客さんは普通に食事をしていただけなんだ。何も悪くない…それよりも、注文していた料理作り直させてくれよ」
店主は、散らかった店内を気にするサシャたちの気持ちを察したように、にこやかな笑みを浮かべて、寛大な提案をした。
「けど…」
リュウが躊躇うような表情を見せる。
「いいの!ドラゴニア全員があんな奴らじゃないって、知ってもらいたいし!」
看板娘は、はにかむような愛らしい笑みを浮かべ、真剣な眼差しで彼らに向かって告げた。
「では、お言葉に甘えるとするかのぉ(棚ぼたじゃあ!!)」
トルティヤは、心の中でひっそりとガッツポーズを決め、棚ぼた式の幸運に歓喜した。
10分後。
「お待たせしました!!」
テーブルの上には、出来立て熱々の作り直された豚そばとシナモンフィッシュのから揚げが運ばれてきた。
さらに、おまけと言わんばかりに、二つの新しい料理が皿に乗せられて追加されていた。
「あの、これは?」
リュウが追加された料理を指さす。
「これはサービスです!こちらが黎英豆腐。こっちがカベル牛のステーキです!」
看板娘は、追加された料理を指差し、丁寧に説明を始めた。
一つは、熱々の湯気を立てるそぼろ肉と輪切りの唐辛子が入った豆腐料理「黎英豆腐」。
もう一つは、香草が添えられ、美しい赤身が食欲をそそる「カベル牛のステーキ」だった。
「おぉ!うまそうではないか!」
トルティヤは、目の前の豪華な料理に目を輝かせ、期待に満ちた表情で舌なめずりをした。
「わぁ、美味しそう…僕も食べたい…」
その様子を精神世界から見ていたサシャは、よだれを飲み込みながら、羨ましげな眼差しを料理に送っていた。
「ダメじゃ。お主はそこでワシが美味しそうに食べるのを見ておれ」
トルティヤは、サシャの内心を見透かしたように、鋭い視線を精神世界へと向けた。
「…はい」
その言葉にサシャはただ「はい」と答える以外なかった。
「どれどれ…」
リュウは、興味深そうにカベル牛のステーキを一切れ箸で掴み上げ、ゆっくりと口に運んだ。
「うん…さっぱりしていて美味しい。全然脂っぽくないぞ」
リュウがカベル牛のステーキを絶賛する。
「じゃあ、僕はこっち!」
アリアは、黎英豆腐をスプーンでひと匙掬い、慎重に口に入れた。
「うーん!!なんか口の中がヒリヒリするよぉ…」
直後、口の中に広がるヒリヒリとした刺激に、アリアは思わず顔をしかめた。
彼女には少し刺激が強すぎたようだ。
「ワシも食べるのじゃ!」
トルティヤが手に箸を取り皿に手を伸ばした。
こうして、騒動に見舞われながらも、サシャたちは宿屋で思いがけないご馳走を堪能し、カベルタウンでの夜を過ごした。
その頃、サシャたちがカベルタウンに到着するよりも少し前のこと。
ドラゴニア王国西部、歴史ある街ギンシャサでも、変化の波が押し寄せていた。
「ふむ…ここも龍心会の手が回っておるか」
古都ギンシャサの街中を、ラウ老師は慎重な眼差しで見て回っていた。
しかし、そこに広がる光景は、彼が見知っていた穏やかなギンシャサとはかけ離れていた。
街の至る所に龍心会の旗がはためき、石造りの重厚な建物には、所狭しと彼らの思想を謳うポスターが貼り巡らされていた。
「我々は国を強くするために勇敢な兵士を募集している!!共にドラゴニアを強くしていこうではないか!!」
街の広場や路地の角々では、龍心会のメンバーが熱弁を振るい、大声で兵士の募集を呼びかけていた。
「(アルタイル…兵隊をあんなに集めて一体何を企んでいる?)」
ラウ老師は、熱気を帯びた中心街を抜け、そのまま路地を進み、街の西外れへと辿り着いた。
そこは、広々とした区画に、重厚な門構えの家々がいくつも立ち並ぶ、高級な住宅街となっていた。
道は丁寧に磨かれた石畳で舗装され、道の両側を彩る街路樹は、まるで手入れの行き届いた庭園のように上品に整えられている。
「…」
ラウ老師は、その閑静な住宅街の中を、迷うことなくまっすぐに進んでいった。
そして、道を進むと一軒の家の前に到着する。
「ここじゃな…」
目的地の一軒の家の前で立ち止まると、ラウ老師は扉をノックした。
だが、それは、ただのノックではない。
「コン、コココン、コン、コン、コン、ココン」という、まるで暗号のような独特のリズムを刻んでいた。
「ガチャ…」
ノックしてからしばらくの間、静寂が続いた後、ゆっくりと扉が内側から開いた。
「誰かと思ったら…ラウ。久々じゃないか…!」
扉の隙間から顔を覗かせたのは、黒いロングヘアが特徴的な、どこか不気味な雰囲気を纏った男だった。
「久々じゃな。ラット…野菜を買いに来た」
ラウ老師は、男の言葉に応じるように、静かに告げた。
「了解…とりあえず入ってくれ」
そして、ラウ老師は家の中へと入って行った。
「それにしても、何年ぶりだ?」
廊下を歩きながら、ラットと呼ばれた男が独り言のように言った。
「さぁな。王国軍を引退したのが、大体40年前じゃから…そのくらいかのぉ」
ラウ老師は、遠い昔の記憶を辿るように、穏やかな声で応じた。
そして、二人はリビングに入る。
「ま、かけてくれ…」
ラットは、奥のソファを指し示し、ラウ老師に腰掛けるよう促した。
ラウ老師は、促されるままソファに深く身を沈めた。
「して、なんの野菜を売って欲しいんだ?」
ラットはラウ老師に尋ねる。
「かぼちゃだ…」
ラウ老師は、ラットの問いに短く答えると、懐から金貨を2枚取り出し、卓上に静かに置いた。
「了解…!」
ラットは金貨を受け取る。
「龍心会だが、奴らは国内を制圧し、人を集めて軍を再編成している。この街を含めて西部はベガとミモザという奴が。東部はスピカという奴が指揮をとってあっという間に占拠しちまった。ま、この国の兵士は最近平和ボケしていたから仕方ないな。それと、奴らはメイラ神聖国と同盟を結ぼうとしている」
ラットは、金貨を受け取ると、落ち着いた声で現在のドラゴニア王国の情勢、特に龍心会による占拠の状況について話し始めた。
「メイラ神聖国と?これはまた随分と…」
ラウ老師は、ラットの言葉に驚き、大きく目を見開いた。
メイラ神聖国はドラゴニア王国の北西部にある国で、エルフ族が政権を握っている。
自然豊かな国であり、兵士も魔法能力と弓術に秀でたエルフ族が率いていると聞く。
しかし、厳格な鎖国体制が敷かれているため、正面からの入国は難しいと言われる謎多き国でもあった。
「ボスのアルタイル…確か彼女はエルフ族のハーフだった。それを利用して軍事同盟でも結ぼうって腹かもしれないな」
ラットは、自身の推測を交えながら説明を続けた。
「なるほど…もしメイラ神聖国と同盟が組まれたら厄介だ。それに関して詳細な情報は持っていないか?」
ラウ老師が尋ねる。
「あっしも情報屋を辞めて30年だ。一応、情報収集は趣味で続けているが、昔ほど良い情報は引き出せない…申し訳ないが、話せるのはこれだけだ」
ラットは、それ以上の情報を提供できないことを詫びるように、申し訳なさそうに首を横に振った。
「いや十分だ…ありがとうな」
ラウ老師は、その言葉に満足したように頷き、感謝の意を伝えながら席を立ち、家を出ようとした。
その時だった。
「そういえば、アルタイルが最近、新しい幹部を一人迎え入れたらしい。詳細は分からないが伝えておくよ」
ラットが、ふと思い出したように、言葉を付け加えた。
「幹部か…分かった」
そして、ラウ老師は家を出た。
「…幹部か。一体だれが。もう少し街を歩いてみるか」
ラウ老師はそう考えながら、市内に戻る。
「…ラウ。随分と老いたな」
だが、その背後から忍び寄る、不吉な影の存在に、ラウ老師は気づいていなかった。




