魔幼児の儀
ガバッと、飛び跳ねる勢いで起き上がった。
いつものリビング。いつの間にか俺の体には柔らかい布団がかけられており、床に散らかしていた衣類は全て綺麗に整頓されて隅に寄せられていた。
台所から水道水の流れる音がする。トントンと小刻みに聞こえるのは包丁で食材を切っている音だ。魔女の帽子を外し、ピンクのエプロンを着けたフランの周囲には鳥肉とかタマゴとかがふわふわ浮いていた。母さんも料理中に魔法を利用していた事はあったけど、あそこまで器用に使いこなす姿は見た事がない。
やはり魔女なのか、と僅かに身構える自分を意識しながらも、フランの長い金髪に隠れた背中からは頼れる安心感を得られた。
「あ、アレンくん起きたのね。もう少しでできるから待っててねー」
「何勝手に晩飯作ってんだよ」
「あらあらうふふ。実はもうとっくに朝なんですよー」
「えっ」
言われてみれば、確かにリビングのカーテンの隙間からは温かい日差しが差している。
「じゃあ俺は制服着たまま一日中ここで眠ってたのか?」
「ぐっすりだったわよ」
なんて無防備なんだ、と自分に呆れる。別に床で睡眠を取るのは今に始まった事ではないが、大して知りもしない他人が家に上がり込んだ状態でそれは軽率だ。気をつけねば、と自戒を込める。
「お前、俺に変な事してないよな?」
「ん? 何かしてほしかったの?」
振り返り様に見せられたイタズラっぽい笑みに、思わず顔が赤くなる。
フランのかけてくれたであろう布団を無造作に脇に退けた。
「な……っ」
そこで絶句した。今の今まで隠されていた下半身に奇妙なものがあった。
オムツ。どこで調達したのか俺の尻がすっぽり収まるサイズのオムツがズボンの代わりに穿かされていた。
「ちょっ、何だよこれっ。何でオムツ穿いてんだ俺ッ!?」
「私が穿かせたからね」
「はあッ!?」
「おしめの穿き替えができないようじゃベビーシッタ―は名乗れないわ」
「ガッツリ変な事してんじゃねえかテメェええええええええええええッ!!」
早朝から声を張り上げたばかりに頭痛が起こったが、ふと更に最悪な予想が脳裏をよぎって戦慄する。
「あの、アンタがオムツを穿かせたって事はよ……つまり、その、見たのか?」
一瞬キョトンと首を傾げるフランだが、すぐに俺の意図を察してか「ああ~」と頷いた。
「大丈夫。私はそういうの気にしないからね?」
「俺が気にするんだよッ! こちとら成人の一歩手前だぞッ!」
「私からすればまだまだ赤ちゃんよ。色々と」
「その言い方はなんか傷つくからやめろ!」
フランと喋る度に男の尊厳が砕かれていくようで恐ろしい。
急いでオムツを脱ぎにかかる。こればかりは青少年のプライドが許さない。一秒でも早く対処して然るべき状況だ。
それなのに。
「あれ、なあおい。オムツ全然脱げねえんだけど。どうなってんだ?」
「ふふ。それは私の承認がないと脱げないようになってるのよ。あなたのお母さんが玄関に仕掛けた施錠魔法と同種のものね」
「何でオムツにガチ魔法かけてんだ!」
強引に下ろそうとしても、複雑な魔法陣が白いオムツに浮かび上がって思うようにならない。十七歳にしてオムツの着脱に苦戦するとは予想してなかった。
「くそ……っ、あーもうわかった。アンタの魔法がすごいのはわかったから、解除してくれ」
「ダーメ♡」
「な、何でだよ」
「それが言わば私に支払う報酬だから」
要領を得ない返答に眉根を寄せる。フランは料理の手を止めると、一人でに包丁やらフライパンやらが料理を続けるよう魔法をかけ直した後、こちらに近づいてきた。
「私はベビーシッター。あなたのお世話を依頼された身よ。いくら依頼人と個人的な繋がりがあるとはいえ、仕事をするからには報酬は払ってもらわないと」
「それがこの間抜けな格好と何の関係があるんだよ」
「私がいただく報酬はあなたの魔力よ」
昨夜からの柔和な顔色と打って変わり、フランは極めて真剣な目になった。どうもこのオムツはふざけている訳ではないらしい。
「アレンくん。あなたは魔法がどのようにして発動されるか仕組みは知ってる?」
「……そりゃあわかるよ。体中に流れる生命力と精神力を掛け合わせて魔力を練る。その魔力で空気中を漂う魔素を必要な分だけ集めて魔法を使う。『火炎』を放ちたいなら火属性の魔素を、『水』を出したいなら水属性の魔素をって具合にな。これが基本だろ?」
「そう。だけど魔女はそれに加えてもう一つ。周囲の人間や魔法生物から魔力を吸収して自分の力にできるの。だから人間には届かない魔法が使えるし、千年以上も寿命を延ばしていられる」
「それで報酬に俺の魔力が欲しいって訳か」
「そ。よくわかりました」
再び優しい雰囲気になったフランが頭を撫でてくるので、気恥ずかしさから振り払う。
「でもそれとオムツがどう繋がんだよ。大体、俺は母さんと違って魔力を練るのが下手なんだぞ。アンタが満足できるようなもんはあげられねえと思うけど……」
「じゃあ一つ問題です。どうしてアレンくんは魔力を上手に精製できないんでしょう?」
「それは……多分母さんが死んだショックで」
「そう。つまり精神力のブレが原因なのよ」
人差し指をクルクルと回すフランは、学校の教師よろしく解説を続ける。
「親が死んだショックが大きい。その苦しみを吐き出す事もできない。ストレスを溜めに溜め込んで、アレンくんの精神力は弱まってる。だから魔力が上手に練れないし、それに釣られて魔法の制御もできない。不調の原因はこれね」
魔女がそう断言する。何となくのスランプで流していた問題が、説明可能な一つの理屈であったと教えられた。流石はセブンヘッヅ魔戦士学校の創設者。彼女は偉大な魔女であると同時に優秀な教師なのだ。
「なら後は簡単。アレンくんの抱えたモヤモヤを全部吐き出しちゃえばいいのよ。さあ、想像してみて。この世で一番わがままで、誰よりも素直に感情表現ができるのはどんな存在かしら」
「まさか……」
「そう、赤ちゃんよ。正確には〇歳から六歳までの魔幼期。アレンくん、あなたは赤ちゃんにならないといけないの」
「世界で一番不毛な結論だ」
何だろう。言っている事はわかるのに答えが滅茶苦茶すぎて納得できない。
「じゃあ何か? 俺はアンタが満足するまでずっと赤ちゃんの演技をしないといけないって事か?」
「そういう事ね。魔法の極致を求めるなら避けては通れない道よ」
「赤ちゃんプレイが!?」
「魔女の世界では『魔幼児の儀』って呼んでるわ。まあその重要性に気づいてる人間は少ないけどね」
本当か? 本当に気づいてないだけか? 馬鹿らしくて途中で投げ出してるヤツばっかなんじゃないか?
「あらあらどうしたの、そんな悩ましげな顔して。ひょっとして初めての儀式に緊張しちゃったのかな? 大丈夫、私が手取り足取り教えてあげまちゅからね~可愛いボクちゃん」
「あの、帰ってもらってもいいっすか」
「あらやだ。契約解除? アレンくんにとっても悪い話じゃないと思うのに」
「誰が好き好んで赤ちゃんプレイなんかしたいんだよ!」
「それは残念ね。あなたのお母さんだって『魔幼児の儀』であんなに強くなったのに」
「えっ……」
聞き捨てならない台詞が来た。勢い込んでフランの肩を掴むと、「きゃっ」と歳の割に可愛らしい声が返ってくる。
「そ、その話……本当なのか?」
「ええ。この儀式なら魔法のスランプだって克服できるはず。いずれはあなたのお母さんを超える事だって」
「いやそっちじゃなくて、母さんも赤ちゃんプレイしてたのか!?」
「昔はしてたわよ。でも途中でやめちゃったから、結局魔女レベルには届かなかったのよね」
死後知らされる母の黒歴史。強くて頼りになる理想の魔戦士像が崩れていく。俺はあの世でどんな面して再会すればいいんだ。朝一から怒涛の情報量を浴びせられ頭がパンクしそうになる。
「信じられねぇ……」
「懐かしいわね……。あなたのお母さんはハイハイがとても上手だったのよ」
「頼むから俺の思い出を汚さないでくれ!!」