ベビーシッターの魔女がやって来る
ウィーチン王国。
千年も昔、『七人の魔女』が住み着いた事で爆発的に魔法が普及した国家。
王都には魔法に長けた人材が。地方には魔力の練り方すら知らない国民が大量にいる事から、前者と後者で産業の発展にかなり質の差があるという特色があった。
魔法のエキスパートである母さんから生まれた俺は、当然王都の一軒家で暮らしている。と言っても母さんは四年前に死んだので一人暮らし真っ只中だ。父さんは俺が生まれる前に亡くなったらしいので父方との縁は完全に切れている。母さんも母さんで親戚がいないから俺は本当に独りになった。
「ただいまー」
扉を開け、返事のない薄暗い玄関に足を踏み入れる。冷たい静寂にももう慣れた。二階の自室には向かわず、明かりもつけないままリビングの隅にあるソファにダイブする。
ここ最近ずっと無気力だ。帰ってから何もやる気が起きない。ソファと対角に設置された壁際の台所を一瞥すれば、食器の山がシンクの中から大量に積み上がっている。家着もそこらの床に散らかしっぱなし。我ながらだらしない。
近所に住むリリアか彼女の両親が訪ねてくれば唖然とするだろう。
そして、心配してくれるのだろう。俺を引き取ろうとしたくらいのお人好しなのだから。
「……」
俺がリリアの両親の誘いを断って一人暮らしを選んだ理由はシンプルだ。この家から離れたくなかった。
例え帰りを待つ家族がいなくても、変わらない内装や思い出が生きる気力を与えてくれると信じていた。
実際、今日まで俺はだらしなくともちゃんと生きている。母さんが残してくれた遺産が予想以上に多かったのも幸いした。よほど贅沢しなければ衣食住には困らないし、欲しいと思った商品はすぐ手に入る。不自由はない。
当たり障りのない二階建ての民家に住んではいるが、その実暮らし自体は裕福なのだった。
それでも、四年前に空いた心の穴が埋まる事はないのだが。
「……今何時だ?」
気づけばソファで延々とネガティブな思考に飲まれていた。どれくらい横になっていただろう。お腹が鳴ったのでもう夜中だと思うが。
起き上がる気力をかき集めようと意識を切り替えたタイミングで、ドアのベルが鳴った。
近くの小さな台座に乗った水晶が来訪者の姿を映し出す。
「誰だ?」
長い金髪の女だった。黒いマントとスカートに身を包み、おとぎ話の魔女が被るような巨大なトンガリ帽子を頭に乗せている。
ソファから手を伸ばし、恐る恐る水晶に触れて話しかける。
「あの、どちら様でしょうか」
女の穏やかな垂れ目が微かに見開き、口元に微笑が咲く。
『今日からこの家に仕える、ベビーシッターのフランと申します』
「え?」
脳内がクエスチョンで埋まる。
ベビーシッターって、あの赤ん坊とか幼児のお世話を代行する仕事だよな? それがどうして俺の家に?
「あのすみません。ウチ、ベビーシッターは雇った覚えがないんですけど……」
『あら?』
ベビーシッターは上品に右手を口に当てた。水晶越しだが不覚にも少し可愛いと思ってしまった。
『私ったら間違ってしまったのかしら。あの、ここってアレン=ボルレイクさんのお宅じゃないんですか?』
「っ。アレン=ボルレイクは俺だけど……」
『あら、あなたがアレンくんなのね。だったら間違ってないわ』
女の顔色が途端に朗らかになる。何故か急に口調も馴れ馴れしくなった。どういうつもりだ。
「あの、何で俺を知ってるんですか?」
『それはもう、あなたのお母さんに依頼されたからよ。自分が死んだら息子のアレンを頼むって』
「……ッ」
流石に二の句が継げなかった。つまりこの女は、生前の母さんと顔見知りだとでも言いたいのか。
俺は一度頭を振って冷静になる。
落ち着け。そもそも、本当にベビーシッターとして雇われたのなら来るのが遅すぎる。もう母さんの死から四年経ってるんだぞ。十三歳だった俺はとうに十七歳だ。
怪しい。前提として母さんはこの国じゃかなりの有名人だ。調べれば息子の名前くらいすぐにわかるだろうし、知人を装った詐欺の可能性も考えられる。母さんが残した財産を騙し取ろうという魂胆かもしれない。
『アレンくん、開けてくれるかな?』
「……わかりました。ただし自分の手で開けてみてください」
『え?』
「母さんが仕掛けた施錠魔法は誰にも破れません。解錠の合言葉を知ってるのは俺だけ。もしもアナタが俺の面倒を頼まれるくらいの信頼を得ているなら、その合言葉だって教えてもらってるはずですよね?」
フランは困ったように眉根を寄せ、首を傾げた。
『そんな話聞いた事ないけど……』
「開けられないんですか? だったら失礼ですけど、お引き取りくださ——」
バゴンッッッと。板を叩き割るような破砕音と共に玄関の方から何か飛んできた。
真っ二つに裂かれた扉だった。衝撃でテーブルを薙ぎ倒し、それぞれ俺の顔のすぐ横を通り過ぎ、リビングの壁に深々と突き刺さる。
「……え」
幻覚かと思った。全く同じ角度で食い込んだ扉だった物からは、不自然な煙すら出ていた。呆気なく破られた事もそうだが、めり込んだ壁面にヒビが一閃も走っていない事が更に歪だった。
魔法という現象に囲まれた環境に身を置いていても、この状況を飲み込むには相当な時間が必要だった。
それなのに、だ。
「一応開けてみたんだけど、これで良かったのかしら……」
規格外の闖入者は何でもないような表情で、黒いスカートを揺らし玄関を渡ってくる。
扉から引きちぎったであろうドアノブの残骸をゴミ箱に捨て、リビングに入ってきた。
「はじめましてアレンくん。あら、どうしたの? そんな怖い顔して」
「なっ、ど、どういう事だよ! だって……っ。あれは……絶対にっ、開かないはず……っ!」
「ああ、ごめんなさい。合言葉なんて教えてもらってないから、ちょっと力業で開けちゃった。まったくグラリスも困った子ね、私に肝心の鍵を渡し忘れるなんて」
グラリスとは母さんの名前だ。本当に知り合いなのか? だとしたら色々おかしい。母さんの施錠魔法を強引に突破できるような魔戦士なら、国中にその名が知れ渡っていないと辻褄が合わない。
「アンタは何者なんだ……」
フランが答えようとする前に室内に異変が起こった。正確にはリビングの壁際に刻まれた深紅の魔法陣。母さんが用意した侵入者対策のセキュリティが起動したのだ。しかも一つだけではない。足元に、天井に、壁一面に。フランを囲むように無数の魔法陣が姿を現していく。
これはまずい。過保護な母さんの仕掛けた防衛魔法だ。絶対に只事じゃ済まない。
俺は咄嗟にフランの手を掴み、冷たい夜風が入り込んでくる玄関へ逃げ出そうとした。
「あら、いきなり手を繋いでくるなんて甘えん坊ね」
「逃げるんだよ! 下手したらアンタ一生炎とか雷の群れに追いかけられるぞ!」
「ダメダメ。外は寒いんだから風邪引いちゃうわよ?」
「そんな呑気な事言ってる場合じゃ——」
言い終わる直前に魔法陣の輝きが一際増した。『火炎』、『水』、『風』、『土』。四大基礎魔法を始めとして様々な異能が虚空から生じ、狙いを一点に定める。
ダメだ、逃げるだけじゃ間に合わない。
俺はグローブをはめる事すら忘れ、手中に火炎を呼び出そうとする。
だが俺の魔法は不発に終わる。制御に失敗した訳ではない。フランが細い右手を掲げた瞬間、四方から殺到した異能の散弾がピタリと空中で静止したのだ。
フランは言う。
「主の軛を解かれた魔法は魔法にあらず。しからば自然の法則に準じて星命に還らん」
優しかった声色に鋼のような芯が通る。直後、空中で動きを固められた異能群が内側から霧散した。
母さんが残したセキュリティをここまで容易く……。
目の前の光景が信じられない。けど受け入れざるを得ない。この強さは詐欺でも幻覚でもない。本物だ。
「ごめんね? 少し大きな音が出ちゃったけど、怖くなかった?」
「あ、え……」
「ふふふ」
こちらに振り向いたフランは、幼児をあやす母親みたいに笑った。女性のそんな表情を見たのは一体いつ振りだろうか。ていうか意外と俺より頭一個分身長が低い。
「ああ、そうそう。あなたの質問に答え損ねていたわね。私が何者なのか」
女は黒いトンガリ帽子の鍔を持ち上げて告げる。
「私はベビーシッターのフラン。千年前にウィーチン王国に住み着き、セブンヘッヅ魔戦士学校を創設した『七人の魔女』。その一人よ」