00.プロローグ
勇者フェリクス・カディオが魔王を倒した。
その報せは瞬く間に大陸全土に広まった。
人々は皆歓喜し、功労者である勇者を讃えた。
特に彼の出身国であるオベリーヌ皇国では勇者の絵姿も多く出回った。
彼の美貌の虜になった女性たちを中心に、老若男女誰もが彼の話題を口にした。
英雄フェリクス・カディオは生きる伝説になった。
「朝食をお持ちいたしました」
部屋に入ってきた侍女はこちらと目を合わせようとせず、黙々とサイドテーブルに料理を並べる。
笑顔を貼り付けているものの、時折カタカタと食器があたる音がしている。
彼女の心境を察して顔を背ける。
「今日は旦那様が帰ってこられるそうです。お帰りになられたら」
「知らせなくていいです。…僕に構わないでください」
そんなに僕が怖いなら、という言葉は呑み込んだ。
この屋敷に連れてこられて数週間。
連れてきた張本人は僕の世話を執事に丸投げしてどこかへ行ったきり帰ってこない。
そんな状況で食事を持ってきてくれる侍女は三回変わった。
一人目は僕の姿を目にした途端失神し、二人目は一週間は頑張ったようだが翌週には仕事を辞めていた。
三人目は怖がる素振りを見せなかったが、休憩時間に誰もいない主人の部屋に忍び込んだことでクビになった。
「フェリクス様に会えると思ったからここを志願したのに、お姿すら見られない上不気味な子どもの世話だなんてもう散々だわ」
と彼女が喚いていたのが一週間前のこと。
あれからは今の侍女が務めてくれているが、このように酷く怯えられている。これは二人目の侍女と同じパターンかと思っていると、
「……い」
「え?」
「坊っちゃまが尊い」
「……は?」
思わず振り返ると、こちらを見つめる侍女と目が合った。
「この侍従ランス、主の命令は絶対です。主のお言葉に従い、今回は失礼させていただきます」
ランスが恭しく頭を下げて扉に向かうが、
「…侍従?」
小さい呟きだったはずなのにランスには聞こえたらしく、足早に戻ってくる。
平然を装いつつも頬を少し膨らませた顔は美少女のそれで、やはり可愛らしかった。
「旦那様のご指示でこのような格好をしていますが、私は正真正銘の男です」
「そんな…え、ほんとに?だってこんなに」
可愛いのに、という言葉は口にできなかった。
ランスの顔がとても不服そうだったからだ。
「明日からは侍従の格好でいいんじゃないですか?」
言った途端、ランスの顔が明るくなった。
「本当ですか?」
「多分。カディオ様って全然屋敷に帰ってきませんし、ばれないと思いますけど」
「ありがとうございます。心から感謝します」
目に涙を浮かべて喜ぶランスを見て、自然と頬が緩んだ。
今度こそランスを見送った後、両手で頬を挟む。
「まだ、笑えたのか」
か細く震えた声が自分のものだと気づいた瞬間、手と頬の間を熱いものが流れ落ちていった。
「お前、俺と一緒に来い」
それだけ言って勇者フェリクス・カディオは魔王の末子を連れ出した。
特に抵抗する理由もなかったのでそのまま大人しくついていったが、自分は捕虜ではないかという考えに至った瞬間頭を抱えた。
魔王にとって末子は人質に取られても痛くも痒くもない存在であり、それは兄たちにとっても同じだった。
人質としての価値がないと知ったら勇者は即座に自分を殺すだろう。
「帰るところがないからここにいるしかないんだけど」
膝をかかえて顔をうずめた時、
「アーデルハイドのくせに、贅沢な悩みだね」
無邪気を装った少年の声に体がすくんだ。
操られるように顔を上げると、忘れたかった存在が目の前にいた。
六番目の兄、エメリヒだ。
なんでここに、と口を動かすことさえできなくなる。
赤く光る眼を見た瞬間、城での惨めな記憶が蘇る。
頭をかかえて蹲りたいのに体が動かせない。
「やめて、お願い、ごめんなさい、」
視線を床に固定したままかつての口癖をひたすら呟いていると、頭上から小さなため息が聞こえた。
「アル。一回しか言わないからよく聞いて」
そう言うエメリヒの声はひどく柔らかかった。
彼の意図が掴めずおそるおそる視線を上げると、穏やかな笑みを浮かべた彼がいた。
「十年後、フリートへルムが魔王として覚醒する。…僕たちはあいつに嵌められたんだ」
悔しげに歪む彼の顔は記憶よりもやつれていた。
「今まで本当に悪かった。テルフォードもずっと自分を責めてる」
「…なんで、」
なんで今更謝るのですか。
なんで優しい兄のように振る舞うのですか。
なんでそんなに泣きそうな顔をしているのですか。
溢れる思いを上手く言葉にできないでいると、ぎこちない何かが頭にのせられた。
驚きのあまり固まった弟に苦笑しながらエメリヒが優しく頭を撫でる。
「…兄、様?」
「元気でな」
それは幼い頃に聞いた、優しい兄の声だった。
気がつくとベッドで仰向けになって寝ていた。
外はとっくに暗くなっていて月明かりが程よく部屋を照らしている。
「十年後に魔王が覚醒する、か」
天蓋の模様をぼんやりと眺めながら、アルは何気なく呟いた。
アル・カディオ、七歳の冬のことだった。