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第4話 寂しさの温度




 最近は心の性別という概念が広まってきています。

 その概念とは、男の身体に生まれたけれど心は女性であるとか、女の身体に生まれたけれど心は男性であるという事のようです。

 身体の特徴は目で見ることができますが、心の性質は肉眼では見ることが出来ません。ですので、心の性別は傍目からは判断が困難だと思います。

 そもそも、大前提として、私たちの心に男女の性別の違いが存在するのでしょうか。そんな深い所まで考えた、とある精神分析学者のアイデアを紹介したいと思います。


 ある精神分析学者は、言語哲学をベースとして精神分析学を進めました。

 彼が言うには、精神分析的に考えて無意識には性の区別が無いようです。つまり男性的な心を持つか、女性的な心を持つかは生まれた後に決まるのでしょう。

 それはとても寂しい事でもあります。

 あって当たり前だと信じてきた男心や女心という概念は、実は曖昧なものであり、私たちが信じるほど確かな存在では無いという事になるでしょうから。

 

 さて、心理や感じ方に関する概念を理解しようとした時に、私たちは何を行うでしょうか。

 私たちは私たち自身が持つ概念の「もっともらしさ」を確認するために、再現性を元にして、何度も何度も思考実験を行うと思います。

 相手の気持ちを考えて行動するというやつですね。

 思考の中で繰り返し相手の心理を再現することで、相手の気持ちに対する推論を頑強なものにしていくのです。


 その推論は概念を用いて行われるでしょう。だからカッコよく言うと概念のロバスト性を上げるという事になります。

 私たちが、私たちが抱える性別とは異なる性別のことを考えるとしましょう。その時もやはり、自分自身の心を通してイメージする事になると思います。

 これは少々、困難な話に思えます。異性の心理を考えるのが得意な人ならともかく、そうでない人のイメージは、必ずしも上手くいかないでしょう。

 男心が分からん。女心は謎だ。そんな経験がある人は、あやふやでぼんやりとした印象のまま、心の性別の違いを大いなる謎として受け止める事になると思います。


 こう考えていくと、心の性別にまつわる考え方は人それぞれで異なっていたり、一致していない部分が多いのではないかと、私は想像しています。

 あるいはトランス・ジェンダーを自認する人々にとっても、それは同じなのかもしれません。

 こういう推論を私が行う背景として、男性でも女性でもない、中性的な心理を自認する人々の存在があります。

 中性的な心の性別をクロス・ジェンダーとかノン・バイナリーなどと呼ぶそうですが、それらの人もまた、中性的な性別という概念に対して、それぞれが異なる考え方を抱いている可能性があります。


 我々が今まで同一だと信じてきた、男性的とか女性的だとされる心理にも、複数の違いが存在するのかもしれません。

 人それぞれで男らしさや女らしさという概念が異なっていると仮定しましょう。

 この仮定が事実だったとして、この後に問題になる事は何でしょうか。

 それは、私たち自身と、私たちを取り囲む人々をつないできた何かを、見失ってしまうことではないかと私は思います。


 私たちはお互いの孤独を癒すために、お互いのカタチが同じである事を求めてきたのだとしましょう。

 男子には男子に共通する何かがあり、女子には女子に共通する何かがあると信じることで、私たちは孤独を癒してきたのではないでしょうか。

 それが今や、別々のカタチである事に気付かされようとしているのだとしたら、私たちはきっと寂しさを感じるでしょう。

 自分自身の心を位置づけてきた何かを、見失いかけているのですから。


 心の性別という話題に関する人々の葛藤は、自我や自己の同一性を揺さぶられる事への葛藤なのだと私は考えています。

 これまで自分の心の位置づけを上手く得られなかった人々は、社会に対して彼らの心のカタチを訴えることで、心の位置づけを頑強にしようとしているのでしょう。

 それは一つの物語として社会に提示されると思います。ただし必然として、その物語には、今まで信じられてきた何かを否定する要素が含まれていると思います。

 誰かが心の位置づけを頑強にしようとした時に、他の誰かの心の位置づけが不安定になるのだとすれば、限られた場所を奪い合う悲しい陣取りゲームを連想します。


 今まで信じられてきた何かが否定されるとして、それは何でしょうか。

 否定されてしまう物の一つは、ありふれたラブ・ストーリーなのかもしれません。

 私たちはこれまで、男子と女子には明確な差異があると信じ、その差異に対して特別な意味を見出していたように思えます。

 カタチが違うから分かり合えないはずなのに、ときおり、奇跡のようにピタリとハマり合う関係が生まれる。その偶然の一致を特別な愛だと信じてきたのではないでしょうか。


 しかし男子と女子には、私たちが考えていたような明確な差異が存在しないことに気付かされようとしています。

 少年らしい少年はどこにもいなくて、少女らしい少女も幻想だとしたら、我々の信じたラブコメはどこに向かうのでしょうか。

 もしかすると、これまで信じられてきたラブ・ストーリーは、本当は成立しないのかもしれません。

 少なくとも、これまで信じてきた物語たちを、完全には信じられなくなるでしょう。


 世界のどこかにはあると信じてきた、特別な愛の存在。

 たとえ自分には叶えられないとしても、愛の実在を信じることが希望につながると思います。

 だから、それが成立しない可能性に気付かされそうになった時に、私たちは怯えるでしょう。

 怯える私たちは、私たちの信じる愛を奪われまいとして、ネガティブな反応を生むのかもしれません。

 

 さて、言語哲学をベースとした心理学について、興味深い考え方を伝えたいと思います。

 仮説として、私たちの心理や意識が言語によって形成されていると考えてみましょう。

 一般的に考えて、言語は私たちの外部に存在します。そして教育や学習というカタチを取って、私たちの内部へとやってきます。

 これを続けざまに考えると、私たちの心理や意識を形成するものは、私たちの内部から生まれるのではなくて、私たちの外部からやってくるという話になるでしょう。

 

 考えようによっては、とても寂しい話ではありますね。

 多くの人が、心理や意識が自分自身の内部にある神聖な領域から発生していると考えているでしょう。

 しかし言語哲学の登場により、そんな神聖な領域など存在しなかったという可能性に気付かされそうになっています。

 あるいは、私たちの内部には何も無い領域が存在すると言い換えることも出来ます。ある精神分析学者は、心の中心には虚無があると説きました。


 心の中心に『私』ではなくて『虚無』があり、私が『私』だと感じていたものは、虚無を取り囲むもの、つまり他者との関係性であったとすれば、はて、私とは一体なんなのか。

 この考え方が正しい道筋に沿っていると仮定すれば、私が私であるために最初に始めたことは、イメージ上の他者を頭の中で生成することだと考えられるようです。

 いわゆる心の声というヤツであり、概念上の他者と言えるでしょう。

 私たちは自己符号化器の作用によって、記号と概念を結び付け、概念上の他者を生成し、その他者と言葉をかわす事で自我を成り立たせているのかもしれません。


 さて、少年と少女にまつわる話を、どこまで進めていたでしょうかね。

 確か野生のクマに遭遇したらどうするかとか、その時は恋人を見捨てても許されるだろうかとか、人類はシカと戦って勝てるかどうかを話していたと思います。

 もしもラブコメの神様がいるとすれば、圧倒的に水分が足りていないと指摘してくるでしょう。

 野生のクマとか、鹿センベイを切り札にするストーリーには、ラブコメに必須の水分が感じられません。

 

 人体の生存のために必要なものは水分と塩分だと言われています。

 だったら、竹里少年と少女キノの関係性にラブコメが足りないのは、彼らの会話の中に水分と塩分が足りていないためなのかもしれません。

 恋にまつわる塩分とはすなわち涙の味である。

 甘い関係性が得られるのは二人までで、その間に挟まってしまった三人目に残るのは、悲しい悲しい失恋の味なのだ。


 恋はスリーマンセルではなくて一対一である。

 三人いたら一人は余るのが一般的な流れなのです。

 竹里少年と少女キノの間にあるのは、スリーマンセルでも一対一でもなく、野犬の群れとそれに対峙する盾の関係なのかもしれません。

 しかし、そこに変化をもたらす可能性が存在しました。竹里少年と少女キノの間に挟まった三人目の人物が居たのです。


 その名は瀬戸くんだ。

 潮風に吹かれているからか、はたまた別の理由からか、キノはその名前を唐突に思い出した。

 クマでも無く、シカでも無く、ましてや野犬の群れの話でも無い。

 闇鍋状態の二人の物語に、瀬戸くんが流した涙が追加投入されようとしていた。




「瀬戸のこと、憶えてる?」


 不意に少女キノが口にした言葉に対して、竹里少年は驚きながらも答えた。


「憶えてるもなにも……同じバスケ部だったし、忘れる方がどうかしてるよ」


 僕のことを他人に興味がない人間だと思っているのかと尋ねる竹里少年に対し、そういう事じゃなくって、とキノは言った。

 どういう事なのか、という説明を待つ竹里少年に対し、少女キノは、あらたまった声色で告げる。


「ナオ、瀬戸と揉めてたでしょ」


「ああ、うん」


 竹里少年は歯切れが悪い返事をした。

 あまり思い出したくない出来事だったからだ。

 

「あれ、なんだったんだろう。いきなり嫌われたんだけど」


 竹里少年は、中二の冬に同級生の瀬戸という少年と揉め事を起こした。

 しかし争い合いになった相手は瀬戸本人というよりも、瀬戸を取り巻く友人たちとの方だった。

 彼らの多くはバスケ部員だったので、竹里少年はバスケ部に居づらくなって、中二の終わりに退部している。

 それからはキノと二人でストリートバスケをしていた。そんな事を思い返している竹里少年に対し、キノは少し申し訳なさそうな声で言う。


「あれね、私のせいだと思う」


「ふーん?」


「瀬戸がさ、もしかしたら私の事を好きだったかもしれなくて……」


 キノの表情と態度から、もしかしてではなくて、ほぼ確信していたんだろうなと竹里少年は思う。

 しかし、瀬戸くんがキノに惚れていたなんて、などと思う反面、確かにそういう兆候はあったと思いつく。

 今になってはそう思うというのに、あの時には気付けなかったのは何故なのか?

 そんな疑問を抱えつつ、竹里少年は、瀬戸くんからキノとの関係を聞かれた時の事を思い出す。


 なにかの時間に皆でダベっていた時のことだった。その会話の輪の中にいた瀬戸くんから、そっと話しかけられたのだ。

 竹里って子ノ山さんと仲良いね、みたいな聞かれ方だったと思う。

 その時は何も思わなかったけど、今となって考えてみれば、そういう事だったのだと竹里少年は思った。

 周りから、もしかしてお前ら付き合ってんのかよと聞かれて、何の躊躇もなく、キノと自分は友達だよと答えたはずだった。


 その少し後の出来事も思い出す。

 無駄話の輪が解散し始めた頃になって、渡り廊下の少し先にキノが現れたのだ。

 少女キノから手招きされた竹里少年は、何だろうと思いながらキノの元に歩いて行った。

 その後にキノから意味不明な事をされて、それがあまりにも意味不明な出来事だったので、あの時の会話が記憶からスッ飛んでいたかもしれない。


 竹里少年の中で一つの確信が生まれていた。

 今にして思えば、あの時に瀬戸くんは、スニーキングミッションのように自分の後を追いかけていたのだ。

 そして自分とキノがどんな会話をしているのか隠れ見ていたのではないだろうか。

 しかし重要なのは、どんな会話をしていたかでは無かった。そんな竹里少年の回想を先回りするように、少女キノは言った。


「でも私、瀬戸と付き合う気とか無かったから、わざと、あいつの前でナオにキスしてみたんだけど」


 この瞬間、竹里少年の頭の中で、バラバラのピースだった出来事が一枚の絵画として完成した。

 なんの脈絡もない状況で、突然キノからキスされた理由。いきなり瀬戸くんから避けられるようになり、瀬戸くんと仲の良かったバスケ部の仲間たちからも嫌われた原因。

 つまり、そういう事だったのだ。

 自分はキノとの関係を友人関係だと説明していた。それなのに、実はキスしているってどういう事だよとか、とんでもない嘘つき野郎だと思われたのだ。


 そしてそれは、周りからすれば、キノに恋している瀬戸くんへの裏切り行為に見えたのだろう。

 正直に付き合ってると言わず、あえて瀬戸くんを傷つけるような形で関係を見せつけたと思われたのだ。

 しかし、あれはキスにカウントしても良いのだろうかと竹里少年は疑問に思う。

 竹里少年は、キノの行為をキスでは無いとすら考えていた。

 

 なぜなら、あの瞬間のキノの表情は、試合に挑む格闘家みたいな顔だったからだ。

 己を鍛えるために岩盤に頭突きをする修行でも始めたのかと思った。

 とてもではないけど、恋の三角関係とか、そういう事が連想される顔では無かった。

 愛情ではなくて筋力。チカラこそが全てを解決するという圧力を感じる。


 だけど、キノがキスだと言うのなら、あれはキスの一種だったのだろう。

 ヘッドバットをしようとして僕の頭を掴んだわけでは無いし、目測を誤って唇が触れたわけでは無かったのだ。

 じゃあ一体、どうしてキノはキスをしてきたのかと竹里少年は考える。

 またしても自分は盾として使われたのだろうか。今度は瀬戸くんへの盾として。その推論に達したあと、竹里少年は言った。


「あの時のあれって、そういうのだったんだ」


「多分それがナオが嫌われた理由。ごめん」


 マジであれ、意味わかんなかったなぁ。

 などと思い返しつつ、竹里少年は言った。


「それにしても、あの時のあれってキスのつもりだったんだ。その可能性もゼロではないと思ってたけど、まさか本当にキスだったとは」


「ナオさぁ……。逆に聞くけど、なんだと思ってたの?」


「急にロックなことを始めたのかなって思ってた」


「なにそれ。ナオの言うロックなことってなに?」


 竹里少年はしばし言葉を探すために首を傾げた。

 少し間を置いてから説明を付け加える。


「知性を使うべき場面をパワーで解決することかな。キノがそういう事をするのに慣れてるんだよ、僕は」


「ふーん」


 じゃあお望み通りぶん殴ってやろうかとキノは思った。

 だけど、やめておく。なぜなら自分には知性があるからだ。そしてあの場面の事を思い出す。

 初めてのキスは、味の無い粘土と唇を触れさせたような感覚だった。

 まさか無味無臭だとは思っていなかったので、その感覚をどう受け止めていいのか分からないままだ。


 もっと違う感情が生まれるとキノは思っていた。

 しかし期待していた変化は起こらなかった。

 感情が宙ぶらりんな状態の彼女は、視線を外して海を眺める。

 そして、自分でも掴みどころが無い気持ちを、ゆっくりと語り出した。


「私さぁ、キスしたら変わると思ってたの」


「なにが?」


「色々と」


 そう呟きながらキノは二歩か三歩ほど歩いた。

 そして竹里少年よりも海に近い位置に立つ。

 風に吹かれる短い髪と、制服のスカート。空はいよいよ夜空に変わり、それでもまだ水平線は明るくて、不思議なことに星がよく見えていた。

 竹里少年はキノの後ろ姿を眺める。スカートとアンバランスに見える上着の学ランは、彼が彼女に貸した物だった。


 自分が貸した学ランを羽織る少女。そんな姿がそこにある。

 だからどうだと言うワケでは無いのだけど、竹里少年は、子供の頃から共に過ごしてきたキノの姿を見つめている。

 細い肩だと思った。たとえ学ランを着ても、少女は少女なのだと思わされた。

 かつては同じカタチだと思っていた。いつからか、それが違うことに気付かされた。そして今この瞬間、この場所がある。

 

 変えたかった関係。

 変えたく無かった関係。

 どんなに変わらないでいて欲しいことでも、世界は変化していく。

 それはどうしようもない事なのだ。


 竹里少年の前に立つ少女キノ。

 二人が選んだ時は、中学三年生の終わりの時期。しかも夜の始まりであり、選んだ場所はクソ寒い海辺であった。

 なんだか知らないけど、唐突に「ちくしょう」と思う竹里少年。

 そんな少年に対し、少女キノは海の方を向いたまま言った。


「私ってさ、瀬戸と付き合ってみても良かったと思わない?」


「いや、それを僕に聞かれても困るんだけど……」


「瀬戸って顔はそこそこ良いし、女子からも人気あるし、頭は悪くないし、バスケもまあまあ上手いしさぁ」


「一応聞くけど、今さら後悔してんの?」


 問いかけてくる竹里少年に対し、んーん、と軽く否定してからキノは言った。


「なんで私は瀬戸じゃダメなんだろうって、そう思ってたの」


「ダメだったの?」


「キライじゃなかった。やっぱり、苦手」


「ええ……」


 どっちだよと、竹里少年は思った。

 その疑問に応えるようにキノは言葉を続ける。


「瀬戸はさ、私に女の子を求めてたと思う」


「そりゃ、瀬戸くんだって女の子に男らしさは求めないと思うよ」


 そう答えてから、竹里少年は世間の風潮を思い出す。

 男らしさとか女らしさとか、そういう事を言うのは、今のご時世だとハラスメントに当たるかもしれないのだ。

 瀬戸くんの代弁者の立場にある自分は、彼の名誉を落とすような事をしてはいけない。

 そんな気持ちから竹里少年は説明を補足した。


「でもそれってキノの事を軽く見てるとか、女の子を下に見てるとか、そういう事じゃないと思うよ」


「うーんとね、どう言ったらいいかなぁ」


 海から視線を外し、竹里少年の方を振り返りながら、キノは言った。


「胸とかさ、フトモモなんかに視線を感じるって言ったら、わかる?」


「それは……」


 妙に心当たりがある指摘だった。

 嫌な汗が流れる。

 ちょっとした居心地の悪さを感じながら、竹里少年はあえて代弁者として振る舞った。

 他人の話題に乗じて、自分の気持ちを代弁するのだ。


「でも、それって普通のことだと思うよ。フツーフツー。好きな人が相手でもさ、そういう事はあるよ」


 キノは、消え入りそうな声で、そうだと思うと言った。

 理解してはいるのだ。だけど割り切れない気持ちがあって、キノは言葉を続けた。


「でも私は、それが苦手だったの……」


 そこで再び、キノは竹里少年から視線を外した。

 何となく気まずい空気が流れる。

 そんな雰囲気を敏感に感じ取った竹里少年は、どうにかしなければいけないと思った。

 この場の空気を変えるための言葉を探して、思い付き、それを即座に口に出す。


「キノは、好きな人とかいるの?」


 ざっぱーんと響く波の音。

 それまで気になっていなかった音が、やけに大きく聞こえた。

 少女キノは竹里少年の方に身体ごと振り向く。

 その唇は無意識に軽く突き出されていて、それは彼女が何かを誤魔化す時のクセだった。


「ここでハスタって言ったらダメだよね?」


「ダメだよ。ハスタは犬じゃん」


 ハスキー犬のハスタくんは、キノの家の飼い犬だった。

 好きな人かどうかの前に、人ですら無いじゃんと竹里少年は思った。

 それは発言したキノ自身も同感だったようだ。

 そのような回答が許されるはずはございません、と二人同時に思う。仕方ないなあ、と言わんばかりの横柄な態度になりながら、キノは言った。


「私もナオとおんなじ。わかんない。好きとか嫌いとか、正直、面倒くさい」


 そこから先の説明を続ける前に、キノは、ナオから視線をそらしたいと感じていた。

 ここから先に踏み込めば、後には引き返せない事が分かっていたからだ。

 しかし、さっきからクルクルと身体の向きを変えているのは自分でも変だと思っていたので、今さら視線をそらせない。

 逃げてねーよ、なめんじゃねーよ。心の中のイキった人格がそう叫んで、そこから勇気を汲み上げながら、キノは言った。


「男としてとか、女としてとかさ、人を好きになれないとダメなのかな?」


 その気持ちは、キノがこれまで隠してきたものだった。なぜなら、まるで自分が人として欠陥があるように思えたからだ。

 教室の中でキノを取り巻く皆が、彼氏がどうこう言っている中で、自分だけがその輪の中に入れないという気持ちを抱いてきた。

 しかしそれは些細な問題だった。

 そういう話題を振られるのは面倒だと言うだけだからだ。それよりも問題なのは、これから先の事だった。グッと身体の中心に力を込めながら、キノは言った。


「ナオのこと、恋人みたいに好きになれないと、一緒には居れないのかな?」


 キノは最近ずっと、竹里少年と二人で居られる理由を考えている。

 そして、わざわざ理由を考えるということは、理由が無ければ関係を続けられないと感じているという事だった。

 中学校を卒業して、高校生になって、同じ高校に通って……。

 キノは思う。どうして私たちは、恋人でもないのに一緒に居ようとするのだろうか?


 一緒に居るために理由が必要なのだろうかとか、だったら恋人になればいいじゃないかとか、頭の中に色々な考えが浮かんでは消えていった。

 友達のままじゃダメなのかとか、高校生にもなって男と女が友達のままはオカシイとか、ありふれた社会通念が頭をよぎる。

 考えすぎて頭がクラクラして、キノは不安定だ。胸騒ぎのように心臓が高鳴っているし、身体の重心の位置が掴めなくなってきている。

 竹里少年は、なんかさ、と呟くと、そのまま言葉を続けた。


「今の僕たち、まるで別れ話でもしてるみたいだね」


 竹里少年がそう口にすると、キノは一瞬驚いたあと、泣き出しそうな表情に変わる。

 彼女は自分が羽織っている学ランの襟元を、無意識に強く握りしめた。

 それは竹里少年から借りていた学ランであり、一種の人質である。

 そして今となっては、彼女がナオと呼ぶ少年との、最後のつながりのように思えていた。


 人は時に、布切れとか紙切れとか、そういうものに頼る時がある。

 それが、ただの布切れだと頭では理解していてもだ。

 つながりは目に見えない物だけど、目に見える何かに置き換えられると信じる時がある。

 見失いそうな時にはそれを握りしめることで、つながりを引き留めようとするだろう。


 恋愛にまつわる物語には塩味が必要なのだ。次回はそんな話を続けたいと思う。





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