第3話 人類、過去、未来
私たちは生まれ変わりを信じる事があります。
異世界転生と言えば分かりやすいかもしれない。
それはそれとして、輪廻転生の物語は、一つの思考実験でもあるでしょう。
そこでは転生というシチュエーションでのみ起こり得る心理的な問題を、斬新な角度から議論することが可能です。
例えばこういう疑問が湧くかもしれません。生まれ変わる前の自分と、生まれ変わった後の自分の、どちらがホンモノなのか?
自己同一性まで疑わないとしても、転生の前後で、自分自身の気持ちの在り方に対して疑問を抱くかもしれないですね。
変わらぬ愛を誓った相手がいたとして、生まれ変わり、かつて恋した相手とは違う人物に恋をしちゃった場合、あの頃の気持ちはニセモノだったという事になるのでしょうか。
異世界に転生したという想像を広げてみよう。あの頃の気持ちと、今の気持ち。そのどちらがホンモノなのか私は知りたい。
こんな話は、転生という設定を前提としなければ起こり得ない与太話の類であり、一種のジョークでもあります。
しかし、冗談だと捉えるからこそ真剣に考えられることもあるでしょう。
私たちが抱く気持ちや感情とは何なのだろうか。意識や心とは何なのか。
オカルティズムを否定する私たちは、その答えを科学の世界に求める事になると思います。
私の知るところでは、人間の脳は推論をこなす機械だと定義した脳科学者がいました。
また、人工知能の研究者たちは、人間の脳の仕組みを機械で再現できないはずが無いという強い信念の下に研究を続けてきたと言います。
そうして人間の知能の再現が試みられてきた中で、ベイズの定理という考え方が注目されました。
私は詳しくは無いのだけど、ベイズの定理とは、ベイズと言う名前の古い時代の牧師さんが考えた、推論の手法に関する一つのアイデアであるらしい。
ここでは多くを語らないし、なんなら私自身が多くを知らないだけのことでもあるのだけど、ベイズの定理とは尤度という概念から成り立つという。
尤度とは「もっともらしさ」という事を意味する用語らしい。
ベイズの定理の考え方では、結果に対し、複数の推論が行われる事が前提になっている。
それらの複数の推論の群れに対し、「もっともらしさ」の観点から、一つずつ点数を付けていくワケなのだろう。
もう少し詳しく考えてみよう。
ベイズの定理では、ある結果が得られた後に「どうしてそのような結果になったのか」という推論を行うという。
この場合、結果につながる可能性がある推論が複数、検討され、それぞれ点数を付けられる。この時の点数のことを「推論の重み」と言い換えても良い。
そして、推論ごとの重みの違いを頼りにして、どれが「もっともらしい」推論であるのかを選ぶ。
複数の推論の中で、どれを選ぶか甲乙つけがたい場合もあるでしょう。
あの推論が正しい可能性もあるし、その推論が正しい可能性もあるけれど、両者は同時に起こり得ないってな具合の時だ。
この際に重視すべきなのは、正しい推論の選び方ではない。ベイズの定理の考え方においては、正しい答えが分からない状態が起こりえる事が重要なのだ。
答えを決められないこと。これは人間の心理状態と同じことを表現しているように感じられます。
また、生成された推論の中に正解となるものが存在しない可能性もあるでしょう。
推論の群れの中から一つの推論が選ばれたとしても、それは必ずしも正解ではないワケだ。
これもまた、人間の心理状態と同じものを表現しているように感じられます。
私たちは日常の中でいつだって推論をしているけれど、正しい推論が行えるとは限らないし、正しい推論を選べるとも限らない。
テーブルに置いていたコップが、自分が知らない間に何センチか移動していたとしましょう。
この場合も色々な推論が考えられる。そして私たちは推論を通して原因を考えるでしょう。
例えば、自分以外の誰かが動かした。あるいは、机が傾いていてコップが滑った。あり得なさそうな発想としては、超能力で自分が無意識に動かしたという推論も可能です。
これらの中からもっともらしい推論を検討するのが、ベイズの定理の考え方なのでしょう。当然ながら、推論の群れの中に正しい答えが入って無い可能性があるし、新たな情報が手に入れば推論はやり直される事になる。
私たちは新たな結果を観測するたびに、その結果から、新たにもっともらしい答えを推論することになるでしょう。
もしも私たちが生まれ変わったなら、新たにもっともらしい自分の本心なるものを模索して、その推論から「恋をした」と結論するのかもしれない。
あの頃の気持ちと、今の気持ち。そのどちらがホンモノなのか私は知りたいと思うけれど、その答えはきっと見つからないのだろう。
ホンモノの在処など分からない。私たちは、転生後に生じる新たな人間関係から、もっともらしい答えを推論するだけのはずだ……。
そうそう、ついでに自己符号化器の説明もしておきましょう。
自己符号化器とは、入力された記号を符号化してから、入力された記号と同じものに戻して出力する手法のことのようです。
ものの試しに、入力された記号と同じ記号を出力する事を文章で表現してみよう。すると、入力する事とは入力する事です、みたいな感じになる。
何の意味があるのか分からない作業だけれど、この仕組みによって、人工知能の深層学習が可能になるらしい。
これだと不十分過ぎるので、もう少し丁寧に説明してみる。自己符号化器に対して、手書きされたアナログな文字を入力してみたとしよう。
自己符号化器には何層ものデータ層があって、最初に入力されたデータから特徴を抽出したデータを生成し、それを下の階層に伝える。
私の理解が確かなら、その後、元のデータに複合していき、最初に入力されたアナログデータと突き合わせて答え合わせするらしい。
手書き文字をデジタル文字に置き変えたあと、デジタル文字からアナログ文字に戻すような作業なのだろうか。すみません、私も十分には理解できていないのです。
しかしながら、分かることもあります。特徴が抽出されて生成されたデータというのは、いわば理想化されたデータと言えるでしょう。
手書きされたものには必ず歪みが生じる。そのことを指摘した人物の中に、古代の哲学者であるプラトンが思い出されます。
プラトンはイデア論を説きました。イデア論とは、現実界とは異なる階層にイデア界というものが存在すると言うアイデアです。
イデア界には歪みのない真の円形や真の三角形があり、私たちは現実世界において、イデア界にあるそれらの形を模倣しているという。
このイデア論というアイデアは、自己符号化器の仕組みと似ている気がしている。
最初に入力されたデータ層とは異なる階層として、入力されたデータから特徴が抽出されたデータが出力される所をイメージしてみよう。
物事の特徴が抽出されて生成されたデータとは、イデア論で言う所の、真の円形や真の三角形に該当するだろう。歪みを持ったアナログデータが、均一なデジタルデータに置き換えられるところを想像してみてもよい。
それは言わば、現実世界における歪みが取り除かれた、概念の階層だと私は考えます。
ある日本の人工知能研究者の話では、自己符号化器によって、フィニシアンとフィニシエの問題が解決されたという。
フィニシアンとフィニシエ。どことなくトレビアンな予感を感じさせるこの言葉は、私の知識が確かなら、フランスの地で生みだされた用語だと思う。
だからフィニシアンとフィニシエにまつわる話には、比類なき学問機関であるコレージュ・ド・フランスが関係してくる。そのはずだ。
これは全く関係のない話になるけど、頭が良さそうな単語を覚えておくと、一般的な単語を覚えるよりも知能指数が上がったような、妙に得した気分になれます。
さてはて、フィニシアンとフィニシエという聞きなれない用語は、言語哲学における一つの考え方だ。
フィニシアンとは意味する物を指し、フィニシエとは意味される物を指す。
ちょっとばかり間違った説明になっているかもしれないが、フィニシアンとは記号を意味していて、フィニシエは記号と紐づけられる概念だと考えると良いでしょう。
例えば言語も記号の一種であり、「猫」という記号にはニャーニャー鳴く動物の概念が、「犬」という記号にはワンワン吠える動物の概念が、それぞれ紐づけられている。
自己符号化器の働きは、記号に概念を結び付ける事を可能にするらしい。
私はこの結びつきの作用を概念の生成として捉えている。
人間の知能とは何かという問いかけに対して、私は、概念の生成機能が答えになると考えている。では知能とはすなわち意識だろうか?
私はそこに、もう一つ付け加えて考えている。それは、話しかける人物と、話しかけられる人物の関係性です。こう考えると、意識は構造主義的に生成されるでしょう。
構造主義の立場は個人の主体性を否定し、社会の作用が人格の形成に影響を及ぼすと考えるようです。
私の考え方が構造主義的であるかどうかは、私自身の持つ知識の正しさに対して少しばかり不安が残る所ですが、意識は一人では生成できないと私は考えています。
私たちが一人で居る時も自分自身の意識があると感じられるのは、心の中に想像上の他者を生成して、無意識の間も絶えず会話をしているからではないでしょうか。
意識と無意識。言語哲学や、そこから派生した構造主義の考え方を採用するならば、自我の生成には、話しかける人物と話しかけられる人物という関係性が不可欠だと思います。
お互いに話しかけ合う時、二つの存在が交差する。私たちの空虚な心は会話によって満たされ、意識が発生するのではないでしょうか。
取り巻くものが取り巻かれるようにして、我々の意識の生成が行われる。
なお、これは私自身の一つのアイデアです。
思考の実験から生まれた、取り立てて明確な根拠の無い、一つのアイデアなのです。
これまでの少年と少女の話では、主に竹里少年の意識に焦点を当てて語ってきました。
しかしここに来てラブコメの波動がささやいておられる。
物語は、話しかけ合う人物に対し、片方の心理だけを語るのでは完成しないのだと。
取り巻くものが取り巻かれるようにして物語は作られるのだから。
さて、それでは少女キノについて語ってみようと思う。
その際には少しばかりのコツが必要になってくる。
近くの物を見ると遠くの物がボヤけて見えるように、私たちは異なる境界に存在する物を、同時に見ることは出来ない。
それと同じように、これまで竹里少年に対して合わせていた物語のピントを、少しずらす必要があるのだ。
身長が伸びていくと視界が高くなる。視界が変わると世界が変わって見える。
そういう気持ちで物語の視点を変えてみよう。同じストーリーでも違う景色が楽しめるワケだ。
そうした身長の変化とはちょっとばかり違う変化として、人の世には二次性徴というものがある。
子ノ山キノが、己の身体が女性としての特徴を備えていった時に感じたことは、あーあという残念さだった。
キノは思う。別にイヤだというワケではない。認めたくないワケでもない。
話に聞いていたよりも、生理に伴う頭痛や腹痛は軽いものだった。
しかし、仕方のない事とは言え、血が出ている事を確認するのには慣れなかった。
だからかもしれない。あーあ、とうとうこの時が来てしまったか、という感情があった。
慣れないと言えば、キノはスカートを身に着ける事にも慣れなかった。
足の付け根がスースーするし、動くとパンツが見えちゃうじゃん、という思いがあった。
また、街中でなんとなくフトモモの辺りに嫌な視線を感じる事があって、その視線の出元を探すと、同年代くらいの男子か、全く年が離れた男性か、その両方がいた。
キノが視線を向けると、そいつらはすぐに目を反らしたものだ。
女性として見られる事に慣れなかったというよりは、欲望をぶつけられる事に慣れなかったのかもしれない。
だからキノは制服以外の時はあまりスカートを身に着けなかったし、動きやすい服装を好んだ。
そうやって昔と同じような服を着て、ナオと一緒に遊んでいる時は、あの頃のままで居られる気がした。
そんな気分で居たい時にも生理がやってきて、そのたびに身体の変化を思い知らされて、あーあ、と思うのだ。
「やんなっちゃうね」
そんな言葉を何度も思いつく。
しかしキノは、その言葉を胸にしまいこみ、誰にも言わなかった。
言ってもしょうがない事だと分かっていたからだ。
どんなに遊びたくても、夏休みには終わりの日が来る。どれだけ苦手でも、二限目に古典の授業がある。そういう事と同じで、嘆いても意味がないことがあるのをキノは知っていた。
変化とは新しい何かを得ることであり、それとは別の何かを失うことなのだろう。
どんなに変わらないでいて欲しいことでも、世界は変化していく。それはどうしようもない事なのだ。
少女キノと竹里少年の関係性も、徐々に変わっていった。
それは彼女たちが望んで選んだ変化もあるだろうし、そうではない変化もあるだろう。
「ナオはさ、好きな人とかいるの?」
その言葉を切り出した時、キノは、自らが何かを選び取ったことを自覚していた。
自分たちの関係性を変えてしまう言葉。それを一度でも口にしてしまえば、もはや無かったことには出来ない。
海から吹き寄せる風は冷たいはずなのに、不思議と気にならない。
キノの問いかけに対し、竹里少年はしばらく考える素振りを見せた後、おもむろに口を開けた。
「ここで家族の誰か……って言ったら怒るよね?」
「うん」
もはや無かったことには出来ないのだ。
この期に及んでも、どうにかして無かったことにしようとする竹里少年に対し、少女キノは念押しするような強い視線を向ける。
やがて観念したのか、竹里少年は、彼の本心らしきものを語り出す。
その表情はなぜか、やや疲れたものだった。
「わかんないんだよね」
「わからせられたいの?」
どうあっても無かったことにしようとする竹里少年。
そんな態度に対し、キノはそれまでとは違った光をその目に灯した。
それは危うげな輝き。人が暗黒面に落ちる時の輝きなのかもしれない。
辺りに気温とは異なる寒さが広がる。そんな空気を恐れたのか、竹里少年は口早に伝えた。
「僕の思う好きって、ちゃんとした好きってことなのかなぁって思うし」
「ふーん? たとえば?」
「たとえばさ、そういう人と一緒に山に行ったとして、そこでクマに襲われたりしたらさ、たぶん僕、一人で逃げるよ」
「好きなヒトを放っておいて?」
「うん」
それは危うげな発言に思えた。
もしかしたら人は最初から暗黒面に落ちているのかもしれない。
私も暗黒面に落ちようか? そうすれば他人よりは長く生きられる。他人を犠牲にできる精神性を手に入れられる――。
そんなどうでも良い事を考えながら、キノは、
「ひどくない?」
とても手短な感想を告げる。生真面目な表情でそう言ってくる少女に対し、竹里少年は、だよね、と言葉を返す。
そして改めて、自問自答することに疲れたような表情を浮かべてから、次の言葉を口にした。
「そうなんだよね、ダメなんだと思う。だから、好きな人はいないって事なのかもしれない」
こういう答えだと対応に困るとキノは思った。
好きな人がいるかどうかを確認することで、なにかこう、もうちょっと歯切れよく変化が訪れる事を期待していたのだ。
だけど今は、煮詰まった鍋をどうにかしようとして、さらに煮詰まってしまったような、どうしようもなさしか残っていない。
会話の中に圧倒的に水分が足りていないのだ。水系統の気持ちを入れないまま、関係性と言う名前の鍋を追い炊きをしている場合ではない。
水系統の気持ちとは、すなわち涙。ラブコメの波動の伝達物質もしくは媒介物質である。
キノは意図的に、悲しい気持ちになりそうな話題を避けていた。
それが彼女の臆病な所なのだ。そういう選択を取るところが、少女キノがラブコメの波動と波長を合わせられない原因なのである。
ちくしょう、と思いつつ、キノは会話の中に水分を足すことを覚悟した。
「じゃあさ、私がクマに襲われたらナオはどうする?」
「キノが?」
竹里少年は少し驚いた表情になる。
なぜなら、キノがキノ自身を、助けを求めるお姫様みたいなポジションに置くことは滅多にない事だったからだ。
そういうストーリーを見たら「なんでこいつは自分で戦わないの?」と答えてきた少女キノ。その時の姿が竹里少年の脳裏に思い浮かぶ。
チェストでしか語れない薩摩武士。そんな世界観に生きる少女に対し、竹里少年が真摯に答えるとしたら、この答えしかなかった。
「キノだったら、たぶん僕を盾にして逃げると思う」
少年の返事に対し、キノは少しキョトンとした後に、
「ないない、それはやらないって」
と答えた。
しかし竹里少年は追求を続けた。
「本当に? 胸に手を当てて考えてみてよ」
そう促してくる竹里少年に対し、少女キノは真剣に考えてみた。
思考を深めていく。架空の敵の姿を想像して、その時の心理を実験してみる。
そうしていると、かつて似たような経験があった事を思い出した。
子供の頃に犬に襲われた時のことが脳裏に浮かぶ。あの時も自分はナオと一緒だった。そして、あの時に自分は――。
オボロゲに蘇る記憶の中で、キノは竹里少年を盾にして逃げていた。
正確に言えば竹里少年を置き去りにして逃げた上で「クソチビ! ガード頼む!」と叫んだのだ。
意味としては「ここにはお前が残れ! オレは先に行くぜ!」という、血も涙もない命令になる。
ふむふむ、なるほど。完全に思い出したぜと、キノは思った。
だってしょうがないじゃない。そう、キノは考えた。
生きるか死ぬかの瀬戸際だったもの。
あの頃の自分にとっては、全力を賭ける場面だったのだ。
戦国武将の織田信長だって、金ヶ崎の時は全てを捨てて退却を選んだ。逃げる事は「逃げ」じゃない。むしろ「未来への前進」なのだ。
キノが選ぶのは当然、未来への前進だった。
過去の悪い部分は切り取りして、良さげな部分だけを集めよう。
こういう時は前提を疑ってかかるべきだとキノは考えた。
確かに私はかつてナオを置いて逃げたのかもしれない。しかし、今は違うはずだ。
クマにだって立ち向かってみせる。
いや、さすがにクマは無理かもしれない。
考え方を変えよう。相手を好きかどうかの判断に対して、クマと戦えるかどうかを基準にすることはオカシイのじゃないだろうか。
そう思いながら、キノは言った。
「クマは無理だって。アレに立ち向かうのにヒトとしての愛情とかそんなの関係ないと思う。あるのは野生的な本能だから、好きとかそういう事とは違うもん」
「はいはい。でも僕はキノがしたことを忘れないよ」
「ちょっと待ってナオ、そんな目で見てくるのはやめよう?」
コレがどうなってもいいの、と言って、キノは羽織っている学ランを誇示する。それは竹里少年から奪ったものだった。
返してよと迫る竹里少年の手から、少女キノは身を翻した。
なめらかに迫る黄昏の中、ふわりと揺れる髪とスカート。遠くの空には星が見え始めている。
なんだか感傷的な気分になってしまう竹里少年に対し、キノが言った。
「前提がおかしいと思う。もうちょっと余裕がもてるヤツで考えさせて」
「まあ、いいよ」
少年からの返事を受け、少し考えた後に、キノは言った。
「相手がシカだったらさ、私がナオを守るよ」
「シカって割と強いよ。野生の筋肉みたことある?」
「えー? いけるっしょ。鹿センベイで味方にできるし」
「鹿センベイの効果に期待しすぎじゃない?」
こうして、くだらない話をしている時は、二人の関係性は何も変わっていないようにキノには思えた。
だけどやっぱり、変わっていった事もある。
例えばキノが短いスカートを着た時には、むき出しのフトモモに対して、ナオからの視線を感じることがあった。
そういう時にキノは「ナオも年頃になって色気づきおったか。ガハハ!」などと思うものだった。
変わらない事もあった。いつからかずっと、ナオが自分を見る目には、寂しさの感情がある。
その寂しさにキノの心は共鳴しているように思えた。
かけがえのない共鳴。何も感じていなかった風景が、どこか懐かしさを感じさせる場所に変わっていく。高く高く抜けた、深い青空から聞こえてくる音を連想した。
ここからひどく遠い場所に浮かぶ雲。その先にある星の群れ。そんな連想から感じ取る、寂しさの温度。
世界が鮮やかに色づくように思えた。
そこは未来に向かって作られていく思い出の場所なのだ。
ここに過去を示す物は何もない。
それでも、ナオのあの寂しげな表情を見ると、胸が締め付けられる想いが漂う。
そのたびにキノは思った。
私には大切な場所があるのだと。
たとえ今はまだ、その場所が存在していないとしてもだ。
ナオと二人で居る場所は一切の光が透き通り、空の果てに浮かぶ星の存在を強く感じ取れる。
正直な話、恋だとか愛だとか言う話にはピンと来ない。
ナオの事が好きだとか、恋しているとか、そういう話にはならない気がしている。
だけど私はきっと、ナオと一緒に見る風景に対して恋をしているのだ。
そう、キノは思った。
少女キノの心情にピントを合わせた話は、ひとまずここまでにしましょう。
それにしても、恋の感情とか愛の感情とは、一体何だろうかと私は思う。
個人や性別の違いによって考え方にも違いがあると言われていますが、それならば、恋や愛のカタチも人によって違いがあるのではないでしょうか。
次回はそんな話から始めたいと思います。