第2話 奇跡のドーナツ
夜に見る夢もあれば、昼間から見る夢もあるでしょう。
人の心の中には自己符号化器があって、そいつは絶え間なく物語を上映していると言える。
心の中で上映されているシネマの観客は私達自身だ。
ところで、この話をしている私は何人目の『私』でしょうか。
いきなり意味不明のことを話してしまい、すみません。
これはひとえに脳科学などの解説本を読んで影響されてしまった結果なのです。
脳科学の界隈での学説によれば、脳における思考の中心部分は無くて、各パーツがバラバラに意見を出し合っている状態なのだという。
つまり、意識とは、脳の特定部分の活動では無くて、脳内におけるニューロンたちの広域的な情報共有のカタチであるというのだ。
この考え方は、ある意味でコギト・エルゴ・スムを否定していきます。
我思うゆえに我ありとは言うけれど、考える私とは、色んな所でバラバラに意見を出し合っていて、特定の「どこか」に在るワケではないらしい。
こういう脳科学の世界での新しいアイデアは、コンシャスアクセスという学説や、意識の統合情報理論という学説として発表されています。
興味のある方はぜひ調べてみて欲しい。私の解説だと間違っている可能性がいなめないので、きちんとした本を調べた方が良いでしょう。
ちなみに、コンシャスアクセスの考え方では、意識はニューロンの集団が、なだれのように状態変化を起こすことで起きるのだと言う。
こういう、なだれのような状態変化を相転移と呼ぶらしい。
相転移とは、ある系の相が別の相に変わることだと言う。簡単に言えば水が氷に変わるような変化のことです。
温度を下げ続けた水分子の集団が、ついに液体から固体へ変化する。液体と固体では大きく性質が変わるわけで、このような変化を相転移と呼ぶみたいだ。
これらの話から考えてみると、私と言う意識の前兆は、ニューロン全体の活動のどこかで、小さな火が発火するように始まるでしょう。
どこからともなく点火された意識の前兆が、周囲のニューロンに燃え広がることで、いつしか「なだれ」のような相転移が起こり、意識というものが発生すると考えられます。
燃え広がらなかった意識の前兆はどうなるでしょうか?
それは燻ぶったまま、無意識という領域に残留して、やがては消えていくか、「意識のなだれ」の前兆として残ると考えられているようです。
ここまでは脳科学の成果を言い訳にして、意識という概念を語ってきました。
だけど実の所、意識という概念に対する私自身の考え方は、半分は当てずっぽうだったりします。
なにせ素人の独学なのだ。
脳科学の本はちょこっとだけ読んだけれど、その全てを理解できているとは、自信をもっては言えません。
しかし脳科学と言うより、一般的な知識で考えてみても、脳は大きく右脳と左脳に分かれています。
右脳の私は、理屈屋な左脳の私の揚げ足を取りたがっているのかもしれない。
そんなジョークを飛ばせば、あなたは笑ってくれるでしょうか。それとも恐怖を感じてきているでしょうか。
そう言えば、動物の中には右脳と左脳のどちらか片方だけが睡眠を取るものもいるらしい。これを半球睡眠と呼ぶと言う。ちなみにこれは、漫画から学んだ知識です。
哲学の分野で言えば構造主義というものがあります。
私は哲学に興味があるので、構造主義とは何ぞやと関心を持っていたのだけど、その主義が何を意味しているのかは理解していませんでした。
名称からして、コンクリートなどの構造物が連想され、工業関係の数学とかを重視する哲学なんだろうかという、謎の予想を膨らませてきたのです。
最近になって構造主義がどういう事を言っているのか、やっと分かってきました。
構造主義とは、言語や記号といった構造から、社会や文化の在り方を読み解く考え方だと言います。
この場合の言語構造とは、意味するものと意味されるもの、すなわちシニフィアンやシニフィエの事を意味しており、それらは言語哲学で語られる領域の話でしょう。
私の理解では、シニフィアンとシニフィエにまつわる話は、概念それ自体の始まり方についてを語っているものです。
言語哲学を私なりに解釈すると、意味されるものとは概念であり、意味するものとは記号(言語)になります。言語哲学においては、記号と概念は結びつき、それらは表裏一体の関係性だと言う。
ここではあまり深く考えず、言語が私たちの概念をカタチ作っていると仮定しましょう。
私の考えでは、私たちの心は、たくさんの概念の集合によってカタチ作られていると思います。
概念が心をカタチ作るのであれば、言語と概念に対する追求は、私たちの心の仕組みに届くと思えます。
さらに、言語が我々の生来的な能力でないと仮定すれば、私たちの心はどこから生まれたと言えるでしょうか。
それは私たちの内部ではなくて、私たちの外部であると言えるでしょう。
言語知識が私たちの外部から私たちの内部に伝えられるように、私たちの心は、私達の外側から伝えられて生まれたものだと表現できる事になります。
このアイデアでは、私たちの心は私たちの内部に先天的に存在したものではなく、後天的にカタチ作られたものになるのです。
そのように考えると、心の中心にあるものは非物質的で空虚な穴のようなものと言えるでしょう。
ある精神分析学者は、我々の心は、中心にあいた穴を取り巻くようにして作られていると表現しました。
彼のやり方にならうのなら、心の仕組みをドーナツに例えられます。
ドーナツは、中心の空洞を取り巻くようにして作られると表現してみよう。
それと同じように、心の中心にある穴を取り巻くようにして、私たちの心は形成されているというアイデアになります。
心の仕組みを、心の中心にあるであろう虚無の場からの創造と生成の仕組みとして捉えていくと、少々困った問題に直面することに気付きます。
それは、自己同一性に関わってくる話です。構造主義の考え方が正しいと仮定すると、統一された確固たる『私』という考え方は否定されていくことになります。
ある構造主義的な立場の学者は、私たちを取り巻く社会や環境が私たちの人格を形成しているという考え方を持っていました。
考える私がいたとして、その考える私は、私が直面していく社会や環境に応じて多層的に存在していると言えるでしょう。
構造主義という概念が人それぞれで異なっていないとすれば、それは脳科学が解説する所の「居所が分からない私の中心」をさらに一歩押し進める考え方になると思います。
すなわち、『私』という意識の発生源が、脳内のどこに在るのか分からないだけではなくなってくる。
『私』という意識が、『私』を取り巻く社会や環境との、一体どこから発生しているのかが明確には分からなくなるのだ。
もう少し丁寧に説明すると、社会や環境と言う広い意味での『他者』と、心と言う空虚な場所の交差する所が意識の発生源という事らしい。こういう考え方が構造主義的な考え方なのです。たぶん。
構造主義的に考えていけば、私たちの記憶の根拠は『私』の中というよりは、社会的な枠組みの中に在るんだという、末恐ろしい発想も生まれてきます。
私たちが私たちの過去を想起しようとする時、私達自身の能力だけでは思い出せず、そこには私たちが所属する社会集団の枠組みが必要になってくるというのだ。
ここまで壮大な話になってくると、さすがの私でも付いて行けそうに無い領域を感じる。
考察を進めることをやめて、安心できる領域まで意識を戻したくなってきました。
だけど「上」で待っている人達がいるのです。常識の「上」で待っている人達が。
歴史を調べてみれば、なんかもう、引き返せない所まで行っちゃった多くの哲学者や科学者たちの存在を知ることが出来ます。
人と人の間に格差があることを否定するために裸になって樽の中で生活してみたり、滅びゆく鳥類を救うために灼熱の島で鳥のフンにまみれながら環境調査をしてみたり、貧しい農家を救うために会社の上司と対立しながらヤケクソのように小麦の品種改良をしてみたりする人々がいました。
彼らに共通しているのは、彼らを取り巻く社会や環境への尽きせぬ想いです。
彼らは、彼らを取り巻く社会や環境の中で、他人を見捨てることや、不干渉を貫く寂しい関係が成立してしまっていることを放っておけなかったのでしょう。
何とかしなければいけないという強い想い。
そんな想いから、常識を乗り越えて奮闘した人々を独りぼっちにしてしまうのは、きっと寂しいことなのだと思います。
だから私たちも、上げてはいけないギアを上げていこう。そして「上」を目指そう。彼らが待っているだろう、常識の「上」に辿り着くのだ。
誰も彼もが過去の存在を信じているけれど、それは心の中で再現されているだけのものなのかもしれません。
過去を思い出すための材料は全部、ここにあって、過去に戻って過去を観察するワケでは無いからです。
心の中にある自己符号化器が、現在の環境から過去の断片を見つけ出して、そこから推論のパワーで過去の物語を生成するのでしょう。
やり方は錬金術の仕組みで解説できる気がしています。現在に行う観察行為から、過去に関連した種子を抽出し、抽出した種子を連想とか推測で増殖させるワケだ。
まずは私たちの過去に関わる種子を選び出す。
海を見るのもいい。友人の顔を思い浮かべるのでも良い。学校生活なんてのは、大抵の人に共通して存在するでしょう。
選び出された種子が触媒として作用する場合、心と言う虚無の場と、それを取り巻くものとの間で連鎖的な反応が起こるはずです。
過去に関連する種子が見いだされ、増殖して、暗喩や換喩をまじえながら、一つの物語として過去を生成していく。
これらは言語的な活動として行われるでしょう。
懐かしいはずの過去の話。それは過去には存在しないのかもしれません。
過去にまつわるストーリーが、現在において生成されると考えれば、それは未来で待っていると表現できます。
一つの物語の生成として過去を捉えると、過去は過去には無く、むしろ未来にあるのだと言うのだから、ややこしい話だ。
右脳の私か、あるいは左脳の私がこう言うかもしれない。
夜に夢を見ることもあれば、昼間から夢を見ることもあるのだと。
この言葉には大げさな意味は無いと思います。
夢は見るものであり、意味するものではないからです。
総じて考えれば、言葉遊びなのでしょう。
絶え間なく続けられる、自己符号化器による言葉遊び。それは物語だ。
終わる事のない物語は、私たちを観客として上演されている。
私は誰かの過去を生きるのかもしれないし、あるいは、誰かが私の過去を生きるのかもしれない。
ここまで心についての思考実験をしてきました。
なんだか知らないけれど、超えてはいけない領域を一つ越えてしまったような気がしています。
寂しくなってきたので、少年と少女の物語の続きを語ろうと思います。
私はこの物語を語る場に立ちながら、少しの寂しさと喜びを感じている。
海が見えていた。
星空と。
まだ暮れ始めたばかりの空は、地平線に近づくと薄く、そこから上は深い青色。
星はなぜか緑色に見える。輝いて見えた。
そんな場所に立つ少女は、暮れ始めた空を背景にして、寂しげに見える。
少なくとも少年にはそう感じられた。
それとも、寂しいと感じているのは僕の方なのだろうか。
沈んでいく空と、だからこそ見える、ひどく繊細な星の光。そんな事を思いながら、少年は少女の名前を読んだ。
「寒い。寒くない?」
すまない、状況説明を間違えた。
少年は少女の名前を呼ばなかった。
それでも、少女は少年の問いかけに応えた。
こんなやり取りは慣れている事だし、分かり切っているとでも言いたげな表情で、
「べつに。普通じゃない?」
とだけ呟く。
少女の短く整えられた髪が、その襟足が、夜風に吹かれる。
ついでにセーラー服の胸元も風に揺れた。
少女キノは吹き付ける風に対して肌寒さを感じた様子で、竹里少年に向かって言った。
「ナオ。学ランの下になにか着てる?」
「一応セーターとか」
「じゃあ学ラン貸して」
「嫌だよ」
竹里少年は、学ランの提供を即座に拒否する。
そんな少年の態度に、キノは驚いた様子で疑問を口にした。
「なんで?」
「むしろどうして僕が貸すと思ったの?」
「セーター着てるから」
「僕だって寒いんだよ」
そう言いながらも竹里少年は、彼の隣に立つ少女の事を気にかけている。
そして、身を震わせていた子ノ山キノに対して、自分が着ていた学ランを貸し与えた。
ただし竹里少年は不満そうな表情であり、それを隠そうともしていなかった。
少女の方も、嬉しくなさそうな顔だ。寒さをしのぐためだけに、少年が着ていた学ランを羽織る。
そうして二人で海を眺めた。二人の他には誰もいない。
こういう瞬間は、ひどく世界が美しく見えると、竹里少年は思った。
それはまるで、低画質で見えていた世界が、いきなり高画質で見えるようになったような感覚だ。
今までボケて見えなかった世界の細部が、新しいガラスを通して見るように、ハッキリと繊細に見えてくる。
甘い香り。
それは実際のニオイではなくて、透き通るような世界から感じ取っているものなのだと、竹里少年は思った。
ひどく美しい世界が見えていた。そこから感じるのは寂しさと懐かしさだ。
僕は懐かしさを甘いニオイとして感じている。心に湧き出る喜びと共に、竹里少年はそう考えていた。
竹里少年は、ちらりと、横に立つ少女キノの横顔を眺める。
キノは相変わらず海を眺めていた。
だけどきっと、僕が視線を向けていることに気付いているんだろうなと、少年は感じ取る。
少女の向こう側には夜空に近い空があって、そこには星が輝いている。その光は、何故か緑色に見えた。竹里少年は視線を海に戻してから言う。
「キノはさ、なんでここに来たの?」
少女は何も答えない。
こんなやり取りは慣れている事だし、分かり切っているとでも言いたげな態度で海を見つめている。
答えが返ってこないので、竹里少年は仕方なく、少女キノの顔に視線を向けた。
風が時間を運んでキノの髪を揺らしている。答えは返ってこない。そんな風景を、竹里少年はボケ~っと見ていた。やがて眺める事に飽きて来た頃、少女キノがポツリとつぶやく。
「さむい。寒くない? ここ」
「寒いよ」
学ラン返してよ、と言いながら手を伸ばす竹里少年から逃れるように、キノは身をひるがえす。
首尾よく少年の手から逃れた後、キノは言った。
「ナオはさぁ、なんでこんな所に来たの?」
「なんでって、言われても」
明確な答えなんて無い事に気付いて、竹里少年は返事に困った。
こんな時でも世界はやけに美しく見える。
それだけで少年は満足を覚えてしまう。
会話の内容なんてどうでもよくて、こうして言葉を交わしているという事に対して、竹里少年は甘い懐かしさを感じていた。ただ会話を続けるためだけに彼は口を開く。
「べつに、深い理由なんて無いよ。僕にとってはごく自然な足の運びというか、なんというか。散歩って目的も無く歩くものだと思うし」
「さっさと家に帰ろうと考えないの?」
こんな寒いところにボーっと立ってないで、と言葉を続けるキノに対し、竹里少年はまくし立てるように言った。
「考えてたよ。だって寒いんだもん。すごい寒いんだよ、ここ。帰ろうと思ってた時にキノが来たんじゃないか」
「ああ、なんかそんな感じあったよね」
けらけらと笑ってみせる少女に対し、竹里少年はムスっとした表情で言った。
「それで、キノの方は?」
「ん?」
「なんでこんな所に来たの?」
ひゅるりとした風が、二人の間を通り抜ける。
少女キノは、しばし考え込むような仕草を取ったあと、竹里少年の目を見て言った。
「散歩に対して理由を尋ねるのって、無粋だと思う。だって答えとか無くない?」
竹里少年は、じゃあ、と相槌を打った後に言う。
「理由は聞かないよ」
その言葉は嘘である。
本当は理由を聞く気満々だけど、キノが真面目に答えないと勘づいた竹里少年は、絡め手に移行したのだ。
真正面からぶつかるのではなくて、背後に回ることで効果的な攻撃が出来るのは、合戦も話術も同じことだろう。
竹里少年は、彼の立てた計略を知らない人が見たら朗らかに見えるだろう笑顔を浮かべて言った。
「でもさ、寒いんだったら、キノの方こそ家に帰りたくならない?」
少し考える素振りをみせたあと、キノは、
「ナオが居るから帰れなくなったんじゃん」
と言った。そんな返事に対し、竹里少年は、なんだよそれ、という思いと、ああやっぱりという思いが同時に湧き上がっていた。
二人は、示し合わせてこの場所に来たワケではない。ここで出会ったのは、意図したことではないのだ。
偶然のうちに出会い、出会ってしまったからこそ、二人で居ることが偶然では無くなっていく感覚。
今や竹里少年と少女キノは、たまたまや気まぐれではなく、自分で選んでこの場所に立っているのだ。
意味が生まれてしまった。
二人で眺める景色が色鮮やかな世界に変わっていく。
そんな世界への扉は彼ら自身だった。お互いがお互いにとっての扉になっている。
その扉を開けば、目の前に映るものすべてが甘く、懐かしい色を帯びるのだ。
僕たちはこの懐かしさを捨てることなんて出来ないんだと、竹里少年は思った。
変わっていく周囲と社会に流されながら、いつかこの懐かしさを見失うのだとしても、必ずここに帰って来るという確信がある。
二人で在ることに意味が生まれてしまったその瞬間から、お互いがお互いにとって不可欠な存在になったのだろう。
だけど特別な存在ではない。愛とか、そういう話にならないから、さあどうしたものかと竹里少年は悩んでいるのだった。
ここで私の方も、さあどうしたものかと考えている。
ラブコメの波動さんが迷子になり始めたのだ。
ここに来て、異世界転生ラブコメに行くのが正解じゃないかと、ささやいておられる。
ケモミミとか女騎士さんを違和感なく出すためには、どうしても異世界が必要なのだ。
転生を前提としたラブコメからしか得られない何かがある。
あるいはSF設定も似たようなものだろう。ロボット娘からしか得られないラブコメがある。
人類、過去、未来。私たちのラブコメは何処に在るのか……。
無理を通せば道理が引っ込むとばかりに、次回は転生と人工知能に対しての考察からスタートしようと思う。