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第1話 一つの物語、二人の出会い




 物事を始める前に、何を最初にやるべきだろうか?

 私はイメージを持つことが大事だと考えている。なので、まずはそこから始めてみようと思う。

 私がイメージしているのは『一粒の種子』だ。

 これは錬金術の考え方である。


 本物の錬金術についての話をしよう。

 あるいは、本当の話だと信じた事柄についての話をしよう。嘘が渦巻くこの社会の中で、私の語る言葉が、闇夜を照らす一筋の光になるのかもしれないのだ。

 ただし、社会の中でどんな嘘があるのかと改めて聞かれると、とても困る。

 あれだよアレ。おかしいったらおかしいんだ。そう思わないとすれば、それが騙されている証拠なんだ。私たちはこの時代の何かに支配されているはずなんだよ!


 頭にアルミホイルを巻く時間が来ただけだ。

 そう言われて、あなたはついてこれるだろうか?

 ついてこれるだろうかというか、付いてきてくれるだろうか?

 ここで拒絶されると、私はとても寂しいことになってしまうだろう。

 

 まさに孤独そのもの。

 それだと私はとても困った状況に陥る。

 あなたが、独りぼっちの人間を放っておけない人物であって欲しい。優しい人間であって欲しい。

 プリーズ・フォロー・ミー。私はいつだって他力本願だ。


 さて、錬金術の話をしよう。魔術師に憧れていたボッチの私が、インターネットを漁って見つけた現代解説動画によれば、本来の錬金術とは種子と増殖の概念で構成されるものらしい。

 そこら辺のクズ鉄から黄金を生成するという発想は、つまりは卑金に紛れこんだ黄金の種子を見つけ出して、それを抽出して増殖しようぜ、という考え方だと言う。

 この考え方に問題があったとすれば、黄金の種子に該当するものがクズ鉄の中に含まれていなかったり、金属原子を植物のように増殖させる事が困難だった事だろう。クズ鉄には応用できなかったのだ。

 もっとも、私が興味を持っているのはクズ鉄から黄金を生成する事では無い。私の関心は人間の精神性に向けられている。黄金のような精神の生成と、それを成長させる方法があるのではないだろうか。

 

 そこで、ご都合主義により、我々の心の中にも種子の概念に該当するものがあると仮定した。

 そして種子と増殖の概念が私たちの心に応用できるのではないかと考えた。

 心の中から黄金のような種子を探し出し、そいつを増殖しちまおうと言う発想になる。

 しかし心の中の種子と言ってはみても、自分でも何の事かよく分からんし、まずはイメージしてみる事から始めてみようと提案する次第だ。


 聞くだけならタダだと言うし、会員登録は無料だったりするし、イメージすることも無課金で行える。

 無料ですよ、という謳い文句に対してウサン臭いものを感じ取る人もいるだろう。

 その感覚は現代という時代の中をサバイブするために大切にするべきだと思う。

 だけど、今だけは、気付かなかったフリをして欲しい。そうしてくれると私は嬉しい。


 私たちは頭の中でイメージを広げられるし、思考で架空で、現実にはあり得ない実験を行うことが出来る。

 そこで、何もない、のっぺらとした大地を想像してみよう。

 大地に植えられた種子は、大地とも空とも『異なる存在』である。

 薄く広がる青空と、のっぺらとした大地と、そこに生える植物の芽をイメージしてもらいたい。


 これが心である、と私は考えてみている。


 種は、最初の大地にも、頭上に渦巻く空にも存在しなかった。

 それは『他の何か』から与えられたものであると仮定する。

 空と、大地と、一つの種子。

 種子の芽がどう育つかは、他の植物の育ち方を観察することで、ある程度は分かる。似たようなカタチにはなるだろう。だけど、成長がどのような経路や履歴を辿るのかは、不明瞭だ。


 ここからは植物の気持ちになってみよう。

 などと提案しつつ、普通は植物の気持ちなんか分からないと思う。私にも分からない。

 だけど、やってみなきゃ分からないだろと、敵の大群の中に突っ込もうとするロボットアニメの主人公みたいな無茶ぶりをしてみる。

 出来ない理由を口にせず、どうしたら出来るのかを考えてみよう。

 そうしないと話が進まないからだ。無理を通せば道理が引っ込むと言うし、試してみる価値ありまっせ。


 さあ、植物になれ!

 なったな!?

 では考えてみよう。

 枝を伸ばす時の植物くんの気持ちを。


 植物くんは決められた通りに、あるいは偶然の影響を受けながら成長し、その枝を伸ばす。

 周りには植物くんと似たような植物たちが居た。だけどお互いに会話ができないので、植物たちは、やる事も無く、枝を伸ばしながら空と大地を眺めた。

 夜空には寂しそうに星が瞬く。

 その寂しさに共感を覚えた植物たちは、寂しさをつなぎ合せることを考えた。


 私は寂しいし、きっと、他の『私』も寂しいのだろう。


 寂しさを紛らわすために、植物くんは周囲の植物の枝の伸び方を眺めた。

 すると、そこに共通点のような物があるように見えた。

 寂しさをつなぎ合わせるようにして、植物たちは、お互いの共通点を拠り所とするようになる。

 一人では無いと信じられることが、彼らには大切だったのだろう。


 太陽が宙に浮かび、やがて日が暮れて、星は何度も何度も空に輝く。

 いつしか大地は植物だらけになり、そこには動物が住み着き始めた。

 その頃になると植物たちはお互いに会話できるようになり、動物たちのカタチから自分たちに似ている部分を見つけ出しては、お互いの事を動物になぞらえて呼び出した。

 ある植物は犬のようだと名付けられ、また別の植物は猫のようだと名付けられた。名前の生成と、それによる個体という概念の確立が始まったのだ。


 瞬く星と星のつながりを、頭の中でイメージしてみる。

 するとそれは、伸びた自分の枝のカタチと似ているようにも思えた。

 その共通点に彼らはロマンスを感じた。

 星が、彼らの成長の良き理解者であるように感じられたからだ。


 さて、植物になる事に慣れてきた所で申し訳なく思うけれど、今度は人間に戻って枝の伸び方を考えてみよう。

 枝が縦に伸びた後に横に伸びる時と、横に伸びてから縦に伸びる時では、枝のカタチは似ているかもしれないが、全く異なる成長と言えるだろう。

 一見して同じような成長に見えても、成長には経路や履歴の違いが存在して、それは重要な違いになりえる。

 ここでの枝の成長とは心の成長の比喩であるから、成長の経路や履歴の違いは、私やあなたが共有しているはずの概念に、細かなカタチの違いがある事を意味しているのだ。


 概念の違いについて考える前に、概念の成長とは何だろうか考えてみよう。

 概念は、何度も何度も繰り返し思考されて、その頑強性を上げていくと考えられている。

 この場合の頑強性とは、ロバスト性と呼ばれるものだ。

 概念が頑強になる事とは、ある一つの概念に対する迷いや揺らぎが少なくなる状態だと考えて欲しい。


 何度も繰り返し鍛えられることで、曖昧な概念は、やがて揺らがない信念に変わってゆくだろう。

 概念が鍛えられて行く過程や履歴は、明確には確認できないかもしれない。

 それでも、過程や履歴の違いは存在していて、それは概念それ自体の微妙な差異にもつながるだろう。

 私たちは誰もが異なる経験を経て成長している。たとえ同じようなカタチの概念を抱いているように思えたとしても、お互いに異なる概念を抱いていると私は想像している。


 会話が成立する時、つまり相手と言葉が通じる時、私たちはお互いに共通する概念を持っていると信じるだろう。

 しかしお互いの持つ概念が、実は異なっているとすればどうだろうか。私たちは、理解し合う事ができているのだろうか?

 あるいは、共通点が見つけられない状態で、相手と分かり合おうとすることが出来るだろうか。

 共通点が無いことを自覚することは、誰もが独りぼっちであると気付く事につながるだろう。そのことに私たちの心は耐えられるのだろうか。


 私たちは独りぼっちである寂しさをどうにかするため、誰かと語り合おうとするだろう。

 与太話や眉唾な話。うさん臭い話に、どうでも良い話。

 世間にあふれるそれらの話を、別に信じなくても良い。

 ただ、出来れば話を聞いてあげて欲しい。それが下らなくて意味のない話であったとしても、あなたに話しかけたいと願う誰かが存在することを意味しているのだから。


 本当に大事なことは、二人の存在があることなのだ。

 ストーリーを語る人物がいる以上、そのストーリーを受け取って欲しい相手が存在する事になる。こういう仕組みが大切なのだ。

 分かり合えなくても、理解し合えなくても、語り合う時に、人は一人ではない。

 この仕組みこそが一つの奇跡なのだと思う。一つそんなノリで、少年と少女の物語を語ってみようと思う。


 どこから語り始めようか。まずは少年のことを説明してみようと思う。

 彼の名前は竹里くんだ。

 どこにでも居るような中学三年生であり、いずれは、どこにでも居るような高校生になるだろう。

 友達からはタケちゃんと呼ばれているが、彼のことをナオと呼ぶ人物も存在する。少年はナオヒトという名前なのだ。


 どこにでも居るような少年というのは、その事実に対して、安堵と不安を抱えているものだと思う。

 一つは、周りの少年たちと同じカタチだという安心感。

 もう一つは、特別な存在になりたいという焦燥感と、特別な存在になれない事に対する不安感だ。

 そのどちらが本心というワケでもなくて、そのどちらも、誰しもが抱える想いだと思う。


 さてはて、特別な存在とは、一体いかなる存在だろうか?

 それは、頭の中身が優れているとか、バスケットボールで難易度の高いシュートを決められるとか、そういう事なのかもしれない。

 あるいは、気になっている相手にとっての特別な存在になりたいということも考えられるだろう。

 友達の関係から一歩踏み出してみようとしたり、踏み外して友達の関係ではいられなくなったりと、青春とは中々に波乱万丈である。


 そんな青春ストーリーを期待したいところではあるけれど、残念なことに、竹里少年は青春強度が足りない人生を送ってきた。

 恋愛の修行が足りていないので、例のあれが感じられない。そう、ラブコメの波動が感じられないのだ。

 竹里少年は、友情とか恋にまつわる問題が起これば、これを解決せずにやり過ごして、時間による解決を目指してきた。

 面倒ごとは笑ってやり過ごせばいいやとやってきたツケが、いよいよ支払われる時がやって来ようとしている。


 では次に少女のことを説明してみようと思う。

 彼女の名前は子ノ山キノだ。

 幼い頃から髪型が一貫してショートカットだったが、なんの事は無い、彼女の母親が髪を短くカットしてきたことがキッカケになっている。

 これはごく私的な意見だけれど、我が子の髪が短ければ短いほど、髪を編んだりする手間が少なくなるだろう。時間が無い主婦にとっては一種のテクニックかもしれない。


 少女キノから髪を伸ばしてみたいと言われるたびに、彼女の母親は「キノちゃんには短い髪型が似合うのよ」と言い続けた。

 今となっては、それが本心から出た言葉なのか、それとも主婦的な都合から出てきていた言葉なのかは、もはや誰にも分からない事だろう。

 キノの方も自分にはショートカットが似合うと考えてきたので、取り立てて問題になるような事でも無い。

 とにかく、少女キノにとってショートカットの髪型は自分を表わすものに感じられるようになっていった。


 竹里少年と少女キノは、家が近所だったこともあって、一緒に遊ぶようになる。

 彼らが仲良くなった理由は、感性が似ていた事も要因の一つだったのだろう。

 飛んだり跳ねたりという、身体を動かす時の音楽性も似ていた。

 身体を動かす時の音楽性ってなんだよ、と思われる人もいるだろう。至極当然な疑問である。


 これは一口では説明しにくい。イメージとしてはビート感やリズム感と身体の動きの関係性だ。

 二人とも似たような体形で、ある種のバランス感覚を共通して持っていて、身体を動かす時のセンスが似通っていた。

 竹里少年は、キノの身体の動かし方を見て自分の動き方を学び、少女キノは、竹里少年の身体の動かし方を見て自分の動き方を工夫していく。

 鏡写しのような関係性の中で、どちらがより特別な存在なのかを競い合った。具体的には次の通りだ。


 近所に公園があって、そこにはバスケットボールのゴールが設置されている。

 二人はそこでストリートバスケのテクニックを競い合ったのだ。

 竹里少年が、身体をゴールから遠ざけるような特殊なシュートを決めたかと思えば、少女キノは、特殊なステップを駆使したシュートを決める。

 そしてお互いにお互いの身体の動かし方から学び、技を模倣していった。


 二人の仲が良かったかと問われると、それはどうかと疑問符が付く。

 最初は剣悪な関係だったと言ってもよい。似ている二人だからこそ競い合う。競い合うから対抗心が湧く。

 だから当時の二人の関係性は、ライバル関係と呼ぶのが一番近いだろう。

 当時は少女キノの方が身長が高かったから、キノは竹里少年のことを、


「クソチビ」


 と呼び、竹里少年はキノの事を、


「ジャリオ」


 と呼んだ。

 ジャリオとは、砂利のような小男という意味のようだった。

 もちろん、こんな単語は一般的には存在しない。公園のグラウンドが砂利だったことから、竹里少年による連想により生まれた言葉なのだ。

 ちなみに、まだお互いの背が低かった頃は、竹里少年は少女キノの事を男子だと勘違いしていた。


 あるいは、ただの勘違いではなくて、お互いがお互いの鏡写しの関係である事が大事だったのかもしれない。

 二人は、お互いの似ている部分を探すというよりは、お互いの異なる部分を探していた。

 基本的には同じカタチだから、より優れている方が『特別な自分』として認められると感じていたのだろう。

 この勝負に敗れれば、自分自身という存在が偽物に格落ちさせられるワケだ。少女キノの偽物として生きるか、竹里少年の偽物として生きるかの瀬戸際である。


 しかし人は憎み合ってばかりの関係ではいられない。

 なぜなら、相手を憎み続けることは疲れるからだ。人は疲れることを嫌うし、持続的に続けられない。

 ふとしたキッカケから、少年と少女は世間話をするようになり、お互いに罵り合うことの不毛さに気付いた。

 なぜなら、相手が自分とそっくりな存在なら、相手を否定する言葉は全て自分自身を否定する言葉として返ってくるからだ。


 やがて少年と少女はお互いの立場を認め合うようになる。

 それは、お互いが異なる立場であることを受け入れたことを意味していたのかもしれない。

 だからもう、相手よりも優れたシュートを決めたとしても、特別な存在にはなれない。

 流した汗と、努力した日々の意味は見失われ、そのことに二人は少し寂しさを感じていた。


 新しい何かを手に入れると同時に、古い何かを失う事がある。

 あるいは、与えることで与えられるものがあるのかもしれない。

 必死に、自分の手のひらに握りしめていた何かを、手放すことで手に入る物の事だ。

 少年と少女の新しい関係性には、寂しさの代わりに手に入れた喜びもあったのだ。ここで現在の少女キノの姿を追ってみよう。彼女は、


「ナオ」


 と、慣れ親しんだ少年の背に向けて呼びかける。

 ちなみにナオとは竹里少年のことだ。竹里ナオヒトくんである。

 基本的にはタケちゃんと呼ばれ事が多い竹里少年だったが、年頃に成長した少女キノからはナオと呼ばれていた。

 彼は呼びかけられた事に少しビックリしたのか、驚いた表情で振り向いて、


「なんだ、キノか」


 と返事した。なんだとはなんだと、キノは少しムッとした表情で言った。

 春と呼ぶにはまだ早い季節で、肌寒い空気の中、二人は海が見える砂浜に立っている。

 誰が使うためにあるのか分からない野ざらしのベンチ。それは古臭くて、もはやただの骨董趣味のインテリアだった。

 もちろん二人はそんなベンチには座らない。砂地の上に立ちながら、夕焼けの赤に染まる空と、その下に広がる海を眺めている。


 竹里少年と少女キノは、中学三年生になっていた。

 出会った頃から比べると随分と背が伸びたし、もうお互いにクソチビとかジャリオとかでは呼び合わない。

 その代わりにお互いの名前で呼び合う関係になっていた。

 はた目には仲が良い関係と言ってもよいだろう。それが二人が手に入れた喜びだった。


 今は冬と春の間の季節で、吹き抜ける風はまだ肌寒い。

 いや、肌寒いというのは良い方に言い過ぎた。

 海辺に立つと、率直に言ってクソ寒いと感じるだろう。

 だから竹里少年は、さっさと家に帰ろうと考えていた所だった。


 この少年は、これから先の関係性に思う所があって海を眺めに来たはいいけど、クソ寒いと感じて、解決策を考える前に帰ろうとしていたのだ。

 そういう所がダメなのだ。そういう態度が、竹里少年がラブコメの波動に目覚めない理由かもしれない。

 しかし、今はその場面に少女キノが登場してしまった。これは竹里少年にとって重要な意味をもっている。

 彼は、なんの覚悟も出来ていないまま、引き返せない場所に立ってしまったのだ。まあ人生なんてそんな物だろう。


 出会いとは物語の始まりである。

 経糸たていと緯糸よこいとが出会うことで織られる布のように、少年と少女の出逢いによって一つの物語が紡がれていく。

 物語を布に例えてみたけれど、布を垂らすと滝みたいに見える。そう見えて欲しい。皆で頑張って想像してみよう。イメージすることは無料なのだから。

 二人の気持ちはここから始まる会話により、流れ落ちるように変化して、元の気持ちには戻れなくなるだろう。


 それにしても、気持ちを元に戻せるとか戻せないとか、その辺りはどこで決まってくるのだろうか。

 私たちは経験的に気持ちを戻せるか戻せないかを意識していると思うけれど、よくよく考えると、この仕組みについて何も分かっていなかったりする。

 人の意識や心とは何なのか。

 この物語の続きは、そんな話から始めてみたいと思う。





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