4・噂話
「おんぎゃああああああ!!!!」
耳をつんざく爆音で目が覚めたのは、つい10分ほど前。
「奥様! お湯の準備ができました!」
侍女のイリスが、目に見えて有り余る量の湯を鍋に抱えて持ってきた。待ち望んでいた私は、急いで哺乳瓶を手に駆け寄る。
「ええっと……そう、まずは高めの温度のお湯で粉ミルクを溶かして……それから人肌に……」
泣きわめく赤子に焦りを感じつつも、予習通りにミルク作りを進めていく。
「イリス。人肌って、どうやったら人肌だと分かるのかしら」
「それは、ええっと……人を触った時の温度です!」
「……人を触ったことなんてないわ」
しっかり知識は得たはずなのに。
こんな些細なことが障害となるとは思わなかった。
万が一にでも火傷させてしまったらどうしよう。ぬるすぎてお腹を壊してしまったらどうしよう。
絶望に満ちた気持ちでイリスを見つめると、イリスが意を決した表情をして右手を差し出した。
「どうぞ、私の手を握ってください」
「それはどういう意味が?」
「奥様が片方の手で哺乳瓶をお持ちになって、もう片方の手で私と握手するのです! そうすれば、人肌かどうか確かめられます!」
なるほど。早速私はイリスと手を握る。
急がなければならない状況だというのに、私はつい笑みを零してしまった。
「思ったより暖かいのね」
「奥様が冷たいんですよ。やっぱり新しい防寒具を……」
「いらないわ」
「では、奥様が体調を崩されてしまったら、誰がこの子の面倒を見るのですか」
そう言われて、ハッと気づく。
「……そうね。つまらない意地を張っている場合じゃないわね」
「それじゃあ!」
「結婚当初に持て来た衣類をいくつか売って頂戴。それで得られた分の範囲で買うわ」
私がラウル様の収入で買い物をすると期待していたイリスは、がっくりと肩を落とす。
「丁度いい温度になったみたいね」
さっそく、赤子を抱き上げてみる。抱き方は覚えたし見たはずなのに……どうしてこうも緊張するのだろう。
「子育てって、こうも初日から不安ばかりが襲ってくるものなのかしら」
「私も分かりません……」
温度の最終チェックをして哺乳瓶をそっと口元に近づける。すると、待ち望んだかのようにミルクを飲み始めてくれた。
「飲んだわ! 見て、イリス。飲んでくれたわ!」
「はい、見てますとも! 可愛いですね!」
不安が一気に吹き飛ぶようだ。この子が生きていると実感できる。
「遅くなってごめんなさいね、ルカ」
「ルカ? この子、男の子なんですか? てっきり女の子かと」
「ええ。ルカ・クレイトン。生母がとても良い名前を付けてくださったのね」
今頃、ラウル様が養子の届け出を書いているはずだ。別名を付けることだってできたけれど、亡き生母の想いを優先したい。
ルカがミルクを飲むのを見守っていると、イリスが少し眉尻を下げて訪ねてきた。
「……奥様は、これでよかったんですか?」
「何が?」
「いえ……出過ぎた発言でした」
きっとイリスは、私の立場を想ってくれているのだろう。
ラウル様と血の繋がりはあるとはいえ、私にとっては他人の子。私は民に姿を見せたことがないから、仮にルカの存在を知られても、民は私の子だと勘違いするだろう。
まあそれも、屋敷の者が口外しなければだけれど。
夫人が自分の子供を諦め、養子を迎え入れたと分かれば、石女と笑われても仕方がない。
私は聖女でもないから、また一つ民への隠し事が増えてしまった。
それに、多分普通の感覚であれば、夫妻の子供ではない子を後継だと認めるのは、夫人に対する侮辱なのだろう。
「心配することないわ。私は本当に何も思っていないから」
「そう、ですか……」
ルカがミルクを飲み終わったので、手順に基づいてゲップをさせる。しばらく抱き続けていれば、またスヤスヤと眠ってしまった。
「よく寝る子ね」
「きっと大きく育ちますね」
「だといいんだけれど」
私は、この子が赤子である姿しか知らない。
クーデター当時幼かったこの子が首謀者だなんて考えられないから、ルカを中心とした人間関係だけでもコントロールしたい。
もしかしたら、ルカを使って企みを持っていた人物がいるかもしれない。……考えたくないけれど、ルカが辺境伯爵領の跡取りであると知った生母側の家だとか。
「ラウル様が確か、ルカの生家から備品を貰ってきたと言ってたはずよ。受け取りに行きたいから、少しルカの様子を見ててもらえるかしら?」
「分かりました」
イリスと抱っこ役を代わり、私は部屋を出る。
いつもなら会いに行くなんてしないけど、やっと戦地から戻ってきたのだから、いろいろと確かめたいことがある。
ラウル様の書斎に続く通路を歩いていれば、曲がり角付近で侍女らが立ち話をしているのが聞こえた。
全く。お喋りしている間、手は動いているのかしら。
「聞いた? 奥様と領主様のお話。ついに養子を迎えられたのね」
確認しようと思った私は、耳に届いた一言で足を止める。
「まあ、元々お二人の子供なんて期待してなんかなかったけれどね。領地がこれで安定するなら、ありなんじゃない? 奥様がちょっと可哀想とは思うけども」
「私はぜったい、領主様派! 奥様ってば、怖いんだから。知ってる? 毎回商人を追い返すとき、鬼の形相なんだって」
「知ってる、知ってる。侯爵家の方でしょ? きっと、辺境伯爵領にある品物なんて、どれも気に入らないのよ。次こそは、って必死に調度品を仕入れている商人が可哀想」
「領主に追い返された商人なんて、赤っ恥で買い手がいなくなるってのにね」
どの世界でも、どの間柄でも勘違いとは起こるものだ。
とは別に、私の信念のせいで商人の面子が保たれていないとは知らなかった。
ラウル様の部屋に続く道はこれしかない。仕方がないから、彼女たちが立ち去るのを隠れて待とう。
それにしても……私ってそんなに怖い顔していたかしら?
自覚がないのも無知なのも考え物だと思っていると、さらなる一声が飛び込んできた。
「でもね。騎士隊の間じゃ、領主様への意見の方が割れているらしいよ。過激な否定派もいるみたい」
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誤って第四話を削除してしまったため、再掲載です。