3・やり直しの決意
私の宣言に真っ先に悲鳴を上げたのは、執事長の方だった。
「なりません、奥様!! 辺境伯婦人が直接子育てをするなど……聞いたこともありません!」
それはそうだ。貴族の婦人は通常乳母を雇う。夫がいない間の家事をする必要があるのだから、平民のようにべったりというわけにはいかない。
でも、私は違う。ラウル様は私に妻としての役割を与えておらず、家事の全ては今でも執事長が担っている。だから、時間はたんまりとあるのだ。
「聞いたことがないだけで、違法というわけではないわ」
「し、しかし体裁が……」
「いい。俺が許可しよう」
今度は執事長との言い合いが始まるかと思ったが、意外にもラウル様が私側についた。
「こうしてセレナが俺に何か希望を出したのは初めてのことだ。セレナの思うままにさせてやりたい」
「か、かしこまりました……」
こうして、無事私が子育てする権利を得た。
早速子供を寝室へと招き入れ、ようやく物事が落ち着いてきたときには太陽が昇ろうとしていた。
いつも誰もいなかった部屋に、即席のベビーベッドがあって赤子が寝ている。
予定していたとはいえ、流石に慣れない。
恐る恐る顔を覗き見れば、大人の会話なんてつゆ知らずの穏やかな寝顔だった。
「……可愛いわね。ラウル様と同じ黒髪だわ」
前回は名前を呼ぶすらなかったけれど、今回は違う。
「あなたも私の未来に関係があるの。手の届く距離にいてもらわなきゃ困るわ」
自分でそう言って、苦笑する。
「……ラウル様に言えたことじゃないわね。私だって、私情であなたをそばに置こうとしているのだから」
大丈夫、子育てに関する本は今日この日まで山のように読んできた。
屋敷にいる子育て先輩組の立ち話にも聞き耳を立ててきたし、窓越しに領民の子供らをしっかりと観察してきた。
きっと私ならうまくやれる。
小さな手に指を伸ばせば、ギュッと赤子が握り返してくる。
「……でもね、赤ちゃん。聞いてちょうだい。夫婦事情も私のこれからの未来も関係なく、貴方には唯一、懺悔したいことがあるのよ」
まだ言葉も理解できていない子に向かってこんなことを言うのは、逃げかしら。
「……前の人生では、私は自分のことで精一杯だった。そのせいで……あなたを私と同じように、独りぼっちで暮らさせてごめんなさい」
当然だが返事はない。寝顔を見ながら明日からのことを考えているうちに、次第に瞼が重くなってきた。
………
……
…
柔らかな毛質の黒髪が風に揺れる。長らく戦場に出ていたせいか、ラウル様の髪は最後にあった時より少し伸びていた。
それだけで、ああ。私はまたこの夢を見ているのだと悟った。
いつも見上げるほど大きかったラウル様の顔は、今は私の膝上にある。
軍人の誇りだといつだって丁寧に手入れをしていた甲冑は、ラウル様自身の身体から流れる血で真っ赤に染まっていた。
『セレナ……無事でよかった……部下が逃走経路を用意している……逃げなさい……』
浅い息を吐きながら、ラウル様は私にそう告げた。結婚以来、初めての会話だ。
王国歴代最大規模のクーデター。きっと、何十年先も歴史に刻まれるであろう、辺境伯領主殺し。
誰が首謀者で、裏切者なのか分からない。
ラウル様が領主として不服であると申し立て、一晩にして民すらも槍を構え、交戦状態に入った。
いままで統治してきたはずの騎士隊も、誰が味方で誰が敵か。
情報を集める間もなく、喧噪の中でラウル様は致命的な負傷を受けた。こうして、屋敷の奥で侍女といた私の元にたどり着いた時には、どうみても助からない状況であるのは明確だった。
『あの子は無事だから……あとは君だ』
『……ここで逃げたら、貴方は妻に逃げられた夫として、死んでも恥を刻まれますよ』
『君が死んでしまうこと以上の恥がこの世にあるものか』
分からなかった。
どうしてそこまで私の生に執着するのか。なぜそんなに名残惜しそうな目をするのか。
なぜ……私を大切なものかのように扱うのか。
いまさら、情でも湧いたと言いたいのか。
夫の死を前にして、湧き上がってくるのは、怒りだった。
こんなときに、妻を想う夫を演じる必要が、一体どこにあるというのだろう。
ラウル様は目を伏せ、深く息を吐く。
『俺は……君に何一つ与えられなかった』
『与えられたとしても、私は何一つ受け取らなかったでしょう』
『そうだろうな……教えたかった。君に……愛情を』
『……愛情が伝わるような行動をとられていたとは思えませんが』
淡々と指摘すれば、ラウル様は困ったように笑った。
この時初めて、この人って笑うんだと思ったことをよく覚えている。
『そもそも、私を愛さないと言ったのは貴方の方です。死を前にして懺悔を希望されているのであれば、お聞きしましょう』
『……いや。俺は神に許しは請わない。すべて俺が背負うべきものだ』
『……強情ですね』
『君もだろう?』
再び目が合う。私を見つめる黒い瞳は、もう間もなく光を失いそうであった。
そして……彼の瞳の中に映る私は、ひどく傷ついた顔をしていた。
『寂しい想いをさせてすまない。傷つけてすまない。君よりも先に死んでしまってすまない。君を守ってあげられなくてすまない……そして、決して俺を許すと言うな』
『言われなくても、そのつもりです』
『セレナ……顔をよくみせてくれ』
見ているじゃないか、と言いかけて口を閉じる。
もう……彼の視界はほとんど映っていないのだろう。
せめてもと、横髪を耳にかけると、ラウル様は微笑んで私の頬に手を伸ばした。
『……愛してる、セレナ。この世界で誰よりも……君の幸せを願っていた』
そう言って、ラウル様は目を閉じた。
どれくらいの時間押し黙っていただろう。
彼に対しての想いは何もない。
自分の人生を悲劇だと思ったことはない。
ただ……私は、助けられなかったのだ。
聖女たるもの、人を助け血を憎むべし。
ほら、見てご覧。私が聖女ではないから、貴方を助けられなかった。
ほら、見てご覧。貴女が血を憎まないから、貴方は血に殺されてしまった。
ざまぁみなさい。私も貴方も、神の導きから外れた者同士なのよ。
その事実のみが、こみ上げてくる感情の由来だったと思う。
気づけば私は、人生で上げたこともないような大声を上げていた。
『いまさら……いまさらなんだというのですか!! 愛してるだなんて、ふざけないでください! 私がまるで不幸であったように述べるのはやめてください!!』
なぜ、自分の目から涙がこぼれているのかも、分からなかった。
『私は愛されたいだなんて思ったことはありません! 私は不幸であると思ったことなんてありません! たとえそうだったとしても、夫の死を看取りながら悟りたくはない!!』
彼は英雄などではなかった。そして、私もまた聖人などではなかった。
そんな二人の物語の結末がこれだというのなら、私は神をも憎みたいとすら思う。
『貴方の顔を見るのは、貴方が戦場から戻ってくる日の晩だけ! 貴方が約束だというから、眠くても起きていたというのに!!』
いつの間にか、隊列の長さも覚えてしまった。旗の色も柄も覚えてしまった。
……一目見て、貴方が今日も無事であったと、分かるようになってしまった。
『私に余計なことを教えてほしくなかった! 次は隊の長さが短くなってしまっているかもしれないなど、余計な不安を覚えさせてほしくなかった!! 貴方さえ……貴方さえいなければ……』
私はきっと、泣かなくて済んだのに。
ラウル様の部下を名乗る者がきて、私の手を引く。
結局、闇に紛れて逃げる中、私も誰かに刺されてしまった。
ああ、死ぬんだ。いや、これは私の勝ちだ。
ラウル様の元に行って、さっきは聞こえていなかったであろう文句を直接言ってやろう。
言い逃げて勝ちだと思っていたあの人は、どんな顔をするだろうか。
『勝ちよ……私の、勝ちなのよ』
そう願って目を閉じたはずだった。
……気づけば、ラウル様との結婚式の夜の晩に戻っていたわけだけれども。
どうして時が巻き戻ったのかもわからない。
神を憎みたいと思ってしまった、私への罰かもしれない。
それでも、もしやり直せるのなら……立証したい。
私は愛されたいなんて思っていないと。
私は不幸などではなかったと。
「私は、弱い女なんかじゃない。涙で終わる人生なんて、絶対に受け入れない」
二度目の人生こそは、高笑いで死んでやろう。よくわからないまま殺されるのは御免だ。
そして何より……「愛してる」などふざけた言葉を贈られる未来を変えてやる。
【大切なお知らせ】
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