1・やり直しの世界
「セレナ。俺が君を愛すことは決してない」
妻として迎え入れられた日の初夜、夫であるラウル・クレイトン辺境伯爵は感情のない瞳で私にそう告げた。
「……分かりました」
私は特に動揺することも悲しむこともなく、彼と同じように淡々と言葉を返す。
宣言通り、結婚してから何年経とうと、彼が私と夜を共にすることはなかった。
何も苦に思うことはない。
だって、最初からこうなることなんて、ずっと前から知っていたから。
──政略結婚。
別に、この時代においては珍しいことじゃない。
ラウル様は、元男爵家の方である。宮廷騎士団の騎士団長を務め、先の大戦での功績が認められ、国王から辺境伯爵の地位を授かった。
全くもって都合の良い話である。
そもそも、この辺境伯領地は長年とある一家が領主を務めていた。しかし、戦争によって領主が死去。子供に恵まれなかった夫妻に跡継ぎはおらず、奥様も領地を去ったらしい。
隣国との戦線の最前線であるこの辺境伯領をいつまでも領主不在にしておくわけにはいかない。そこで、武人として名高いラウル様がその座に収まった。
とはいえ、元男爵家出身の者に領地を運営する金脈があるわけもなし。
戦場では「無慈悲な英雄」なんて言われて持て囃されているようだけど、貴族の間では「派遣領主」「貧乏辺境伯」と揶揄している人も少なくないと聞いた。
領地の財政復興のため、ラウル様には結婚が求められた。
何も妻が欲しかったわけではない。妻が持ってくる“持参金”が必要だったのだ。
広大な辺境伯領地の財政を一撃で解決できる持参金を用意できる家柄……となると、候補は少ない。
山に阻まれた領土であり、しかも旦那は元男爵家の者。辺境伯爵の肩書など、偶然転がり落ちてきた産物だと、貴族であれば誰もが知っている。
当然、都住まいの令嬢らはこぞって首を横に振った。
この結婚に同意することは、自身が行き遅れてもう嫁ぎ先がなかったと明言しているようなものであるからだ。一生涯、茶会の笑い者になるだろう。
ついには、国王陛下が直々に各領主へ手紙を出した。
そこで白羽の矢が立ったのが、私──アーロン侯爵令嬢セレナ・アーロンだった。
アーロン家は、数百年前から聖女を輩出してきた名家である。
アーロンの名を持つ女子はみな、聖女である……私だけを除いて。
実家は私を敷地の外に出すこともなく、世間的にも身内的にも「存在しない者」として扱ってきた。唯一面倒を見てくれていた乳母は、私が12歳の時に天に召された。
父はこの嫁ぎ話を、手を叩いて喜んだ。
国王陛下に恩義を売るだけでなく、家から厄介者を追い出せると。
外面ばかりを気にする父は、国王陛下の手紙に恥じないよう山ほどの持参金を持たせ、私を辺境伯領行きの馬車に乗せた。
アーロン侯爵家にとってははした金だ。政界での己の発言力が強くなることを思えば、おつりがくるくらいだろう。
そうして、私は14歳という若さでこのクレイトン辺境伯領に降り立った。
◇
「いま、何と?」
「で、ですから……今夜の晩餐会は中止だと……」
夕日が落ちようとしていた頃、着替えを持ってくるよう命じたはずの侍女が手ぶらで私の所に戻ってきた。
「執事長が命じたの? どうせ、時間を共にしても子供ができるわけでもないから無駄だと?」
「ち、違います! 領主様から直々に電報が届いたのです!」
侍女は慌てて懐から手紙を出す。私はその手紙を一瞥して、窓に顔を向けた。
窓に映るは、いつも通りの田舎景色と少し疲れた自分の顔。
ああ、そろそろ髪を切りたいな。と随分と長くなった自身の白髪にそっと触れた。
「……そう。今夜は気が楽でいいわね」
ついにこの日が、と心に思う。
ラウル様とは、結婚式の日以来、一言も喋っていない。目が合うこともない。
しかし彼とは、唯一の約束事がある。それは、戦地から戻った日の夜だけは、食事を共にすること。
彼から言い出したことであり、意図は知らない。どうせ、最低限夫婦としての面子を保とうとしているのだろう。
領主が戻る日には、奥様が出迎えられると。そう民が誤解しておけば、何かと仕事がしやすいものだ。
私にとっては、会いたくもない人と食事をするなんて苦痛でしかなかった。
しかしついに、彼が自ら立てた約束を破る日が来たのだ。
「じゃあラウル様は、今宵は領地に戻られないのね」
「いえ、手紙には詳しく書かれてないんですけど……深夜までにはお戻りになられるらしいです」
ああ、そうだった。
軍人故の生真面目さか、彼は帰ると言った日には帰ってくる。何カ月家を空けようとも、疲れ果てていようとも。
毎回、騎士団の隊列が一様に松明を灯してくるので、領民全員が騎士隊の無事を知れる。
結婚してから4年間、私もその光景を窓越しに見ていたので、ついには頭から最後尾までの長さまで覚えてしまった。
「け、けど……変ですよね! 領主様が今までお約束を破られたことなんてないのに」
「きっと、ラウル様も私と同じように苦痛だったのよ。世間体なんてもういいや……と思うほどにね。まあ、彼から先に折れたのだから、私の勝ちかしら?」
冗談っぽく口角を上げてみせると、侍女は困ったように目を伏せてしまった。
「嘘よ。貴女がラウル様のことを悪く思っていないのは知っているわ」
「そうじゃありません! 私は圧倒的セレナ様側です!」
「気休めでも嬉しいわ」
クスクスと笑えば、侍女は耳を赤らめてギュッと手を握る。
「そ、そうではなく……領主様は本当に奥様と一緒に過ごされるのが苦痛なのかと疑問に思っただけです」
「……どうしてそう思うの?」
途端に私の顔から笑みが消えたことを察したのか、侍女は顔を真っ青にして頭を下げる。
「も、申し訳ございません! 罰はいくらでも受けます!」
「私は一体いつから、そんなに非情だと思われているのかしら。怒ってないわ。自分では客観性がわからないから、聞いてみたかっただけよ」
事実、別に私は屋敷の者を罰したことはない。そもそも、私と接点があるのなんて、執事長とこの子くらいだ。
侍女は恐る恐る顔を上げる。
「その……」
「なんだって聞きたいわ」
「私の目から見て領主様は……セレナ様を大切にされているように思えます。毎年奥様の誕生日には贈り物をされますし……」
侍女がチラリとみた視線の先には、棚の上に飾られた4つの装飾品がある。
ネックレス。髪飾り。イヤリング……そして、指輪。
私が身に着けたことはない。
「それに、執事長に聞きました! 領主様は奥様に買い物をなんでもしていいと申し付けられていると! 実際、毎週屋敷に商人が……」
「その商人を追い返しているのは、まぎれもなく私よ」
侍女は何も言い返せず、黙ってしまった。
私が豪華絢爛な品を持って訪れる商人を門前で追い返しているのは、有名な話だからだ。
「……そろそろ冬ですし、毛皮のコートだけでも買われませんか? 奥様がお持ちの衣装は……」
「結婚当初に持ってきた、もう4年も前の古い品ばかりだと?」
侍女は小さくうなずく。
あまりにも申し訳なさそうな顔をするので、私はそっと微笑む。
「ラウル様が帰宅の日に私と夕食を共にすると決められていたように。私にも決めていることがあるの」
「それはなんですか?」
「……血で稼いだお金で、物は絶対に買わないわ」
ラウル様は辺境伯領主でありながら、軍人でもある。
結婚持参金によって持ちこたえた領地の財政だが、現在の主な収入源は戦果によって国から与えられる報奨金。
私は、聖女としての教育を何一つ受けてこられなかった。
しかし幼いころ、姉に憧れてこっそり教本を覗き見たことがある。
すぐに父に見つかって頬を叩かれてしまったけれど、唯一はっきりと目にした言葉は……。
「聖女たるもの、人を助け血を憎むべし。私が軍人の施しに喜ぶことは、決してないわ」
誇らしげにそう伝えれば、侍女は口を両手で押さえ目を潤ませた。
「か、かっこいいです……! だから私はセレナ様推し……ってそうではなく! とにかく、領主様はセレナ様のことを大切に思ってるはずなんです!」
「そうかしら? 案外、外で慰めを得ているかもしれないわよ」
「領主様はきっとそんな不誠実な方ではありませんよ!」
「私は構わないと思っているわ。でも、見られるのは気まずいのかしらね。私に“屋敷の外に一歩たりとも出るな”と命令を下すくらいだから」
言葉の通り、私は屋敷の庭にすら出ることを許されていない。
許されているのは、玄関先前まで。ラウル様が帰宅される日の出迎えの時だけ。
「そ、それも……何かお考えが……」
「私がアーロン家の者でありながら聖女ではないと民にバレるのは、何かと都合が悪い、という考えかしらね」
「本当にそうでしょうか。きっとそれでも奥様の美しさに喜ぶ民が多いと思うのですが……」
「気にしなくていいわ。私は大丈夫よ、慣れているもの」
今に始まった話じゃない。実家にいる時だって、幼いころから私は地下牢のような場所で暮らしてきた。
いまさら、窓越しにしか外の空気を吸えないことに苦痛を感じることなんてない。
……いまさら、自分が籠の中の鳥だなんて悲劇的な考えは持っていない。
「さあ、話はこれでおしまい。今日の仕事は終わっていいわよ」
「え、しかしまだ夕食のお手伝いもお風呂も就寝のご準備も……」
「今日は部屋で一人で過ごしたい気分なの。夕食はドアの前に置いておいて頂戴」
「かしこまりました……」
侍女は首を傾げつつも、部屋を出ていく。
残された私は、おもむろにベッドに横になる。
「……愛してるって、何なのかしら」
瞼を閉じ、物思いに耽る。
脳裏に映し出されるのは、鮮明に残り続ける一つの記憶だ。
……これから先、未来で起こる出来事の記憶である。
“愛している、セレナ。この世界で誰よりも、君の幸せを願っていた”
聞きたくもない、呪いの言葉が届く未来。
そう。
この人生は、私にとって二度目の人生なのである。
【大切なお知らせ】
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