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恐る恐る、ミレイアは目を開けた。
真正面にあるのは、牛の足。前進しようとしてじたばた動かしているが、前進できずに空回りしている。油でヌルヌルの地面にいるような。あるいは、壁でも押しているような。
視線を上げていくと、牛の胸、首、そして頭部が見える。その頭部に、牛が前進できない原因があった。
牛の顔面、ではなく頭部、頭全体を。巨大な左手が、がっしりと掴んでいるのだ。
牛の頭部はその位置から、前にも後ろにも右にも左にも上にも下にも動かせず、完全に固定されている。力の限りを尽くして踏ん張って押し込んで、あるいは引っ張って、脚のみならず胸や首の筋肉も総動員して何とか動き、巨大な手の呪縛から逃れようとしているようだが、牛の頭部を掴んだ左手は、ビクともしない。
その手は、巨大ではあるが確かに人間のものだ。手の巨大さに釣り合う、極太の腕に繋がり、その根元へと見ていくと、そこに一人の男がいた。ミレイアの背後に立ち、ミレイアの頭上を跨ぐように腕を伸ばして、牛の頭部を掴んでいる男。
一言で表現すれば、巨漢。だがそんな言葉では到底足りない。この男を巨漢と呼んだら、世の巨漢の皆様方が、「じゃあ、俺は巨漢じゃないです。フツーの人です。ごめんなさい」と恐縮してしまいそうな。もはやこれは巨漢というより、巨人である。
身長が。首が。肩幅が。胸板が。何もかも高い、大きい、広い、でかい、分厚い、ぶっとい。二の腕や太腿ときたらもう、「丸太のような」どころではない。まるで大神殿の柱である。
それでいて、ちゃんとバランスが取れており、鈍重な印象はない。ど分厚い筋肉に見合うだけの背丈と、それに釣り合う充分な長さの手足があるせいか。
牛を掴んでいない方の手に持っている槍と、腰の剣(少し反りがあり、妙に柄が長い)からして、どうやら戦士らしい。が、この体格に合うモノがないからであろう、全身を覆うような鎧は身に着けておらず、膝や脛や胸など、要所要所をカバーする防具をつけているのみである。
「怪我はないか?」
男は、ミレイアを見下ろして言った。
「は、はい」
すんなりと、ミレイアは声を出せた。恐ろしさに息が詰まるようなこともなく。
というのも、意外なほど男の声が優しげで、ミレイアに向けられた表情、それ以前に人相そのものが、超巨体の印象からは考えられぬほど、柔らかかったのだ。
おそらくそれは、男の若さのせいだろう。体格こそ凄まじいが、顔つきやその肌質などから察するに、おそらく……まだ、せいぜい二十歳そこそこといったところ。つまり、ミレイアとは三~四歳ほどしか違わない、「お兄さん」なのだ。
その、お兄さんな戦士が、まだじたばたしている牛を、じろりと睨んだ。険しい顔つきになって、自分の指と指の間にある、牛の目を睨みつけて、言った。
「やるのか?」
その一言で、牛が一度、ビクリと震えた。
そして、今まで地面を掻いていた足を止めて、その場で座り込んだ。男も手を離す。
その後、ハチが牛の耳から飛び出して飛び去っていった。
『え? ってことは……』
つまり。まだハチが耳の中にいるにも関わらず、牛は大人しくなったのだ。ハチが耳の中にいる痛さを押さえ込むほどに、戦士の「やるのか?」が強烈に効いたらしい。
本能で、「やったら殺される、やってはいけない」と判断して、降参して座り込んだのである。
「ほら、立ちな」
戦士はミレイアに手を差し出した。さっきまで暴れ牛を片手で掴んで固定していた手だ。
ミレイアがその手を取ると、風を味わう勢いで引っ張り上げられた。人形のように軽々と。いや、おそらく彼にとってミレイアなど、人形どころかスプーン一本にも等しいのだろう。
「あ、ありがとうございます」
「なに、大したことじゃない。にしても、無茶したな。ヘタすりゃ死んでるぞ」
戦士は軽く笑って、片手に持った槍でトントンと自分の肩を叩いている。その槍も、この戦士が持っているから普通に見えるが、常人からすれば長さも太さも規格外だ。もしミレイアだったら、五人がかりぐらいでないと地面から持ち上がらないと思われる。
「そういう無茶、俺は好きだけどな。しかしもうちょっと、自分の安全のことも考えたほうがいいぜ。じゃあな」
それだけ言って、戦士は去っていった。
やがて牛の持ち主と、女の子の両親などが駆けつけていろいろドタバタしたのだが、そんなことよりミレイアの頭には、戦士のことが強く印象づいていた。
『凄い人がいるものねえ……うちの騎士ではないから、傭兵とか、旅の冒険者とかね。在野にもあれほどの戦士がいるんだ』
リンガーメル王国の騎士団といえば、世界最強の呼び声が高い。もちろんここはその首都なので、最精鋭が集まっている。つまりこの国で、そして世界でも最強クラスの戦士たちだ。文官として城勤めをしているミレイアは、その彼らを頻繁に目にしている。
出世の糸口を掴むためにと、用事を作っては高位の騎士に話しかけ、自己紹介を欠かさなかった。大規模な訓練や何らかの儀式などで大勢が集まる時には、下っ端の騎士まで可能な限り、顔を覚えるようにしてきた。
その甲斐あって今では、城に出入りする騎士はもちろん、街中の詰め所に散らばって配属されている騎士たちすらもかなりの数、顔と名前だけなら覚えている(書類を届けたり回収したりする仕事も結構あるので)。また、いくつかの大きな事件と、そこで手柄を立てたのが誰かということなども頭に入っている。ミレイア自身が事件に関わらずとも、わざわざ記録を調べたりして覚えたのだ。
そんなミレイアにも、今の戦士ほどの体格と怪力を備えた男は記憶にない。武術の腕前までは不明だが、単純に力任せに暴れるだけでも、彼が相当な強さであることは疑いないだろう。
ただ、まあ。彼は粗暴な印象こそなく、若々しくもあったが、いわゆる美形ではなかった。ひたすらゴツくて、汗臭いというか。むさ苦しいというか。失礼ながら、そんな感じだったのも事実だ。
その点、騎士団には上から下まで、結構な美形が揃っている。文武両道にして華麗でスマートな男たち。そんな方々と、これからきっと、親密なお付き合いをすることになるのである。
『って、だから、そういうことばかり考えてちゃだめなんだってばっ』
とはいえやはり、そういう期待を胸の内から消し去ることはできない。
なにしろ、それがほぼ保証されているのだから。ミレイアが提案し、女王に認められた、新政策が実現するのであれば。