夜の始まりを告げる鐘―4
年の頃は十代後半、たぶん、俺と同じくらい。ゆるくウェーブしたふわふわの猫っ毛の真ん中で、大きな碧眼が俺とシルスを見て、さらに大きく揺れていた。
「え、あ、お客さん? あの、ごめんなさい私、人がいるとは思わなくって……」
抱え込んだ紙袋の向こうで、赤くなったり青くなったり。百面相をくり広げる彼女を見かねてか、ファルガーが口を出した。
「俺の客人だ。ちゃんと紹介してやるから、とりあえずその荷物置いてこい」
「あ、はいっ」
そして弾かれたようにキッチンへ駆け込んでいく。慌しいその姿を半ば呆気にとられて見送っていると、ファルガーが先ほどまでとはうって変わった、真面目な表情でこちらに顔を近づけてきた。
「俺以外の地上の人間は、天上界なんておとぎ話の産物だと思っている。あいつも然りだ。変人扱いされたくなければ、この先地上人のフリして、俺に話を合わせろ」
そう、早口の小声で告げた。
「……了解」
横のシルスに目配せして、しっかりと頷いたことを確認する。そうして居住まいを正したところで、少し落ち着いた様子のステラが戻ってきた。
「さっきも少し話したが、姪のステラだ。ステラ、こっちは俺の知人の弟子で、ヴェインとシルス」
弟子、という単語に引っかかりを覚えたが、ひとまず無視して立ち上がる。先ほどは取り乱してすみませんと頭を下げるステラを制して、右手を差し出した。
「こっちも突然押しかけてすまない。ヴェイン・イーディスだ。よろしく」
「――ステラ・メイベルです。はじめまして」
一回り小さな手がやわらかく握り返してくる。軽く力を込めて握った手のひらは、とても温かかった。
暁のカリヨン
夜の始まりを告げる鐘―4
「シルス・フォースターです。よろしくね」
「うん、よろしく」
同じように出されたシルスの手を愛想よく取って、ステラがにっこりと笑う。それにシルスがへらりと笑い返すのを見届けてから、ファルガーが再び口を開いた。
「こいつらは、今まで南の方で修行をしててな。ようやくそれが一段落ついて、次は社会勉強だってんで旅に出されたんだ。だが何せずっと篭もりっきりだったもんだから、致命的に一般常識が欠けてやがる。だから何か妙なこと言い出しても、気にしないでやれ」
「……おい」
よどみなく紡ぎ出される嘘八百を思わずドスの利いた声で止めると、ファルガーは欠片も悪びれた様子のない顔でこちらに向き直った。
「ん? あぁ悪い、言い方が悪かったかもな。なに、常識が無いのはお前らのせいじゃない」
挙げ句の果てに、これだ。楽しんでる。完全に楽しんでる。このオヤジ、今絶対笑いやがった。何が話を合わせろだ、人で遊びやがって。暗に俺らのこと、馬鹿って言ってるようなもんじゃねぇか。
「ヴェインくんもシルスくんも、面白い人なんだね。修行ってなんの修行? 話聞かせてほしいな」
ステラは疑う気配もなく、シルスはあんまりな言われ様に呆然としている(意気消沈と言ったほうが正しいか)
その後ステラが俺たちにお茶すら出されていないことに気づきキッチンに消えた隙に、無言でファルガーの脛を力いっぱい蹴ってやった。
「二人はずっとうちにいるの?」
「いや、数日中には王都へ行く予定だ」
行きがかり上夕食にまで招待され四人でテーブルを囲みながら、ステラの疑問にそう答えたのは、当然地上界の王都など存在すら知らない俺でもシルスでもなく、ファルガーだった。俺たちの身上設定どころか、今後の方針まで勝手に決められているらしい。今度は口を挟む気も起こらず、ステラに気づかれないようこっそりと溜め息をつくだけにしておいた。
「ほら、あの二人がじき王都へ行く予定だったろ。どうせ道案内が必要だし、あいつらと一緒に行かせるつもりだ」
ファルガーの発言に対する俺たちの反応は、両極端だった。言葉の意味がわからず首を傾げる俺やシルスとは反対に、ステラの表情は明らかに曇っていた。ただファルガーは励ますようにステラの肩を叩く。それに返したステラの笑顔は、弱々しかった。
「あの、道案内とか二人とかって、どういうこと?」
「そっか、南から来たなら知らないよね。王都へ行くには北西の森を通らなきゃいけないんだけど、その森はちょっと特別で、普通じゃ越えられないの。でもちょうど森を越える手段を持ってる人たちが近々王都へ行くことになってるから、その二人と一緒に行けば無事に行けるはずだよ」
「なるほど」
シルスの問いに答えたステラの表情には、先ほどまでの憂いはもう見えなかった。
「俺たちが昼間出てきたのは北西じゃねぇよな? この土地はそんなに森に囲まれてんのか」
「来るときの風景でわかっただろ。ここはド田舎だ、仕方ない」
夕食後の席で、ステラが帰ってきて以降嘘のように和やかに変わっていた空気はすっかり元通りに冷えていた。キッチンからは後片付けをしにいったステラと、それを手伝いにいったシルスの楽しそうな笑い声が聞こえてくる。薄壁一つでひどい温度差だ。俺とファルガーの間には煙草の白煙が揺れている。
「なぜ、俺たちを王都へ?」
「でかい街なら、いろいろ情報も手に入りやすいだろうと気を遣ってやったんだ」
「俺たちの任務内容も知らないのに?」
「……お前ら天上の連中が出張ってくるほどの事態っつーと、全世界的に起きてる生態系の変化くらいしか思いつかん」
煙を吐き出しながら面倒くさそうに告げられる。白く煙った視界のせいで、この男の瞳の色は昼間ほどよく見えない。ただ最初に会ったときから変わらず、その視線が真っ直ぐこちらに向けられているのだけを感じた。
「違ったか?」
「いや。――天上じゃ、最近魔獣が異常発生しててな。女王陛下はその原因が地上界にあるんじゃないかとお考えだ。俺とシルスはその調査のために派遣された」
“協力”の程度による、という先ほどの言葉を思い出す。俺が地上へ来た目的を滔々と語るのを、ファルガーは面白そうに聞いていた。
「へえ。素直に話すとは、腹が膨れて機嫌でも良くなったか?」
「馬鹿か」
俺が吐き捨てても、ファルガーはにやにやと笑ったままだった。
素直に好感の持てる男ではない。飄々として見えて、おそらく頭も切れる。何を考えているのか分からない。その上俺のことを知っていた理由を話そうとはしないし、地上人は天上を信じていないと言いながら自分は天上界についてやたらと詳しい。ただそう、それでも何故か、疑い続ける気分にならない。無意識のうちに俺はこの男を敵とみなしていないし、大人しく協力を頼んでもいいのではないかという気にさせられる。陛下の言葉があったからだろうか。それとも他の何かか、そこまでは自分でもわからなかった。
「それで、世界的な生態系の変化ってのはどういうことだ」
はぐらかすように話を変える。ファルガーはようやく笑みを引っ込めて、再び煙草をくわえた。
「俺も詳しいことは知らん。外から客が来ることも少ない土地だから、情報もろくに入ってこなくてな。ただ昼間お前らが出てきた森、お前、あそこにいて何か違和感感じなかったか?」
「違和感? あぁ、そういや狼どもに遭った以外は、やたらと静まり返ってたな。鳥の声もしなかった」
「あそこな、つい何年か前までは、入り口付近なら子供が遊びに入るくらい明るくて安全な場所だったんだ」
「マジかよ」
食うか食われるかの全力徒競争はすっかり嫌な思い出として頭にこびり付いている。あの状況を見る限り、子供どころか大人でも入るのを阻止してやりたい場所だった。
「それがいつの間にやらあの惨状だ。そんで噂を聞く限り、他もあちこちそんな状態になってるらしい」
「そりゃ、異常だな」
「あぁ、異常だ」
短くなった煙草を灰皿に押し付けて、気だるげな視線をこちらに寄越す。
「仕事のヒントになりそうか?」
「そうだな、取っ掛かりくらいにはなるかもしれねぇ」
食器同士が立てる高い音がキッチンから時おり聞こえてくる。向こうの空気が少しはこちらにも流れ込んだか、ステラが食後に出してくれた紅茶の残りを流し込むと、それはまだほんのり温かかった。
夜風に当たってくる、と言って外に出ると、何故かシルスまで付いてきた。すっかり藍色に染まった空の下は、しかし月明かりと家から漏れ出る明かりで意外にも明るい。
「なんかさ、地上って天上界とはまったく違う世界なのかと思ってたけど、そんなことないんだね。むしろそっくり?」
空を見上げて危なっかしい足取りで歩きながらシルスが言う。足元を見ていないシルスがステラの植木鉢をひっくり返したりしないよう、俺が代わりに注意してやりながらそのあとを付いていく。
「昔は同じ世界だったって言うからな。案外そんなモンなのかもしれねぇ」
かつて天と地に割れた世界。かつてというのがどの程度なのか知らないが、根が同じならそこから生ずる枝葉は大差ないということか。あるいはこちらの王都という場所へ行けば少しは違うのかもしれないが、少なくともこの田舎町にいる限り、地上界にいるのだという実感はさほど湧かなかった。ただ、夜も深まる時刻になり始めているというのにあのカリヨンの音をまだ聞けていないのが、物足りないと思うだけ。
「でも、たぶん技術力は地上の方が上だな」
「そういえば、キッチンで見たことのない道具見たよ」
「こっちの連中はお前らみたいに、ほいほい火だの水だの出せないからな。当然の進歩だろ」
「うわ!」
「当然の顔して入ってくんな」
音も無く背後まで近寄ってきていた影に一瞥をくれてやると、ファルガーは何食わぬ顔で夜空に白煙を吐き出してみせた。なぜこの男まで出てくるのか分からない。
「まあ、ちょうどいいや」
都合よく気になっていた話題を持ち出してくれたことだし、手ごろな素材を探していたところだ。
俺は黙ってファルガーの口から煙草を抜き取ると、驚いたファルガーが取り戻そうと手を伸ばす前に、それをシルスに向かって放り投げた。
「切れ」
「あ、うん」
突然の指示に、シルスは不思議そうな顔をしながらも真っ二つに切って捨てる。
「いきなり何すんだてめぇ」
それからファルガーの声を聞いて、ようやく慌てたように手を動かした。腰のベルトに引っ掛けられているシルスのダガーナイフは、地上に来てからというもの一度も抜かれぬままだ。
「ご、ごめんなさい。ヴェインに言われたから、つい」
「……よく訓練されてることで」
ファルガーが呆れたため息をつきながら、恨めしげに煙草の切れ端を拾い上げる。俺はまたもそれを勝手に取り上げると、その切り口を月明かりにかざした。ファルガーの不満げな表情は、夜闇にまぎれて見えなかったことにする。
「粗いな」
「あ、やっぱり?」
ささくれ立った切り口を指の腹で撫でながら呟くと、シルスはあっさり同意した。
「粗い?」
代わりにファルガーが首を傾げる。
「普段のシルスなら、もっと綺麗に切る」
「あぁ、精度の問題か」
昼間のシルスを見ていたときから感じていた違和感。いつもならば淀みなく流れる魔力の中に感じた不自然な揺らぎ。それでもシルスは力を器用に操ってみせているが、今まで嫌というほど見てきているからこそ、わずかな変化が手に取るようにわかる。
「なんか、安定しないんだ。力の波長っていうか、そういう波が一定にできなくて、思ってるポイントに上手く合わせられない感じ。だからコントロールしにくいんだよね」
形のない風でも掴むように手のひらを開いたり閉じたりしながらシルスはそうぼやいた。そんな姿を眺めやりながら、いつの間にか新しい煙草を取り出していたファルガーが続ける。
「天上と似て見えても違うってことだ。ついでに言っとくが、そもそも地上ではそういう力を持ってる奴自体が稀だ。力があったとしても、お前らほど強くない。お前らはお師匠さんに付いてその修行をしてたっつー設定にしといてやったが、下手に目立ちたくなけりゃ無闇に使うなよ」
「それ、不便そうだなぁ」
「使う場所を選べってことだろ」
困ったように眉を寄せるシルスには確かに死活問題かもしれないが、考えてみればこの地上界で力を使う機会がどれほど出てくると言うのだろう(来て早々に、狼を追い払うため使いはしたが)王都へ立つまでに、ファルガーに聞いておく必要がありそうなことを頭の中に箇条書きしながら、無数の星が瞬く夜空へと昇っていく煙草の煙をぼんやりと目で追った。