夜の始まりを告げる鐘―3
「え、ちょ、何この状況?」
腕を掴まれ引きずられるまま、街道をしばらく行ったところで男は足を止めた。念のため後ろを振り返ってみるが、あれほど俺たちを追い回していた狼たちの姿は見当たらない。俺の心中を察したらしい男が、ここへ来てようやく口を開いた。
「狼たちはあの臭いを嫌う。いくら腹が減っていても、あれを越えてはこないはずだ」
「へえ……。たいしたモンだな」
言いながら、俺は初めてその男の姿をはっきりとらえた。
歳は三十半ばといったところだろうか。短めに切られたくすんだ金髪と、同色の無精ひげ。着古された服からのぞく日に焼けた腕にはうっすらと筋肉がついていて、つまるところ、外見はいかにも農民といった感じだ。天上界での常識がこちらでも通用するなら、の話だが。俺より高い身長と閉じられた口元は見下ろされるとやや威圧感があるが、気だるげな表情と雰囲気がそれを和らげている。ぶち壊していると言ったほうが正しいか。
「あの……あなたは、誰なんですか?」
俺が人間観察をしている間に直球でいったシルスに、男がはじめて体ごと向き直った。その視線がゆっくりと俺を通り過ぎ、シルスに向けられる。
「ここの住人さ。名前が必要なら、ファルガーだ」
“真っ先に会うことになるかもしれない人間よ”
女王の声がよみがえる。本当に、いの一番に会ってしまった。いいのかこんなんで。
あまりの展開に言葉を失っている俺とシルスに、男改めファルガーは訝しげに眉をひそめる。まさかこんなにあっさり会えてしまうとは思っていなかったので、対応なんて考えていなかった。
この男が何者なのか。天上界のことをどれだけ知っているのか。女王とどういう関係なのか。俺たちはこの男を信用していいのか。疑問が渦のように湧き上がり、そして沈んでいく。下手に踏み込んで、不審者などと判断されるわけにはいかないのだ。
けれど俺は、差し当たり吐き出した言葉のあとで、すぐにそんな心配など必要なかったことを知る。
「あんたが来てくれて助かった。ありがとう、礼を言うよ。俺はヴェイン。こっちがシルスだ」
「ヴェイン……?」
当たり障りのない挨拶からはじめた途端、シルスに向けられていた視線が俺に移って止まる。
その時この男の瞳に浮かんだ感情の色を、俺は忘れはしないだろう。
悲しみとか、慈しみとか、懐かしさとか戸惑いとか。正も負もあらゆる感情をない交ぜにしたような、思わずこちらがたじろぐような深い深い色が瞳に宿り、そしてそれは一瞬の間に消えていった。
一度瞬いたあとにはその名残すら見つけられず、むしろ俺のほうに動揺が残る。先ほどまでの感情が読みにくい瞳に戻ったファルガーは、けれどまだ俺に視線を合わせ続けていた。
「ヴェイン・イーディス、か?」
「あ、あぁ。そうだけど」
どうして俺の名前を知ってるんだ。そう続けようとしたにも関わらず、ファルガーはふいと顔を逸らしてしまった。言うタイミングを見失って、開きかけた口をそのまま閉ざす。
「まさか天上界から客人が来るとはな。とりあえずお前ら、俺の家に来い」
それだけ言って、一人さっさと歩き出す。横からシルスの戸惑いの視線を感じたが、俺は自身の混乱から抜け出しきれないまま、とにかくファルガーのあとを追った。
暁のカリヨン
夜の始まりを告げる鐘―3
このあたりは農耕よりも牧畜のほうが盛んらしく、あちこちから牛の鳴き声や馬の嘶きが聞こえてくる。広がっていた草原は牧草地だったようで、それを区切るはずの柵は遥か遠くにしか見えなかった。家の数は当然少ない。天上の王都に暮らしているとたまの遠征でしか見れないのどかすぎる風景に、否が応にも心は静まっていった。
ファルガーは数歩前を黙々と歩いていて、それにつられるように俺とシルスも黙ったまま、足だけを進める。前を行く背中を見ながらどれほど思い返してみても、この男について何の心当たりもなかった。だいたい、俺は生まれてこの方天上界で暮らしてきたのだ。地上界の人間と知り合いであるはずがないし、向こうも俺を知っているはずがない。それなのに何故ファルガーは俺の名を知っていて、あんな瞳を見せたのだろう。
「ヴェイン、どうかした? さっきからずっとファルガーさんのこと睨んでるけど」
いつの間にか険しい顔になっていたらしい。小声でシルスが告げてくるのに、俺は慌てて取り繕った。きっとあの時のファルガーの表情は真正面にいた俺しか気づいていないだろうし、たとえ相手がシルスであろうと、軽々しく人に語っていいことでもないような気がした。
「あ、いや、胡散臭いなーと思ってよ」
「そう? まあ、ヴェインの名前知ってたのは気になるよね。それに天上界から来たって気づいてたみたいだし。でも後で聞けば教えてくれるんじゃない?」
「どうだろうな」
適当にはぐらかし、正面に向き直って思考を切り替える。たぶんあの男については、俺一人が考えたところで答えは出ない。
小一時間ほど変わりばえのしない田舎道を歩いたあと、ようやくファルガーは一軒の家の前で立ち止まった。
木造りのごく一般的な二階建て。淡いベージュに塗られた壁は背景に広がる緑の中によく溶け込んでいる。玄関のまわりにも二階の窓辺にも、鮮やかな彩りをした花が飾られていて、外観は実に華やかだった。
「あれ、ファルガーさんがやってるの?」
俺と同じところに目をつけていたらしいシルスの声音は、疑問系を取りながらも考えられない、とはっきり言っている。失礼極まりないとは思いつつ、正直まったく同意見だ。面倒くさそうに振り返ったファルガーは俺とシルスの視線の先を追って、あぁ、と納得したように頷いた。
「まさか。一緒に住んでる姪が好きなんだ、ああいうの」
「あーなるほど」
玄関をくぐると、確かに男の一人暮らしとは思えない、温かな生活感のある匂いが広がった。
綺麗に掃除された廊下を抜けて、日差しに暖まったリビングに通される。俺たちをソファに座らせると、ファルガーはキッチンの棚を漁りはじめた。家の中に三人以外の気配は感じられない。
「姪御さんってのは外出中か?」
「あぁ、買い物に行ってる。もうじき戻ってくるだろ……あーチクショ、茶葉の場所なんて知らねぇぞ」
答えにつながって聞こえてきたぼやきは、一応俺たちをもてなそうとしてくれているらしい。キッチンの勝手が全くわかっていないようだが。
「えーと、おかまいなく?」
見当違いの食器やら調味料やらばかりが出てくる棚を眺めながら思わず声をかけると、不機嫌そうにそれらと格闘していたファルガーは諦めた様子でこちらに戻ってきた。
「悪いな。ステラが帰ってくるまで勘弁してくれ」
「ステラ?」
「姪の名前だ。二人暮らしなんだが、家事は全部あいつに任せててな」
言いながら、どっかりとソファに座り込む。どこからか取り出した煙草に火をつけて深く吸い込むと、天井をを仰ぎながらゆっくりと吐き出した。
「ヴェイン・イーディス……それからそっちの翠はシルス、だったか?」
まるで煙草の煙と同調するように、天井を見たままのファルガーの言葉は静かに下りてくる。
「シルス・フォースターです」
「そうか。お前も天上人か?」
「あ、はい」
世間話でもするような気軽さで、天上人、と口にする。そして俺のことに関しては聞くまでも無い、ということか。見ず知らずの人間が自分のことを知っているという不気味さはかなりのものだと思い知った気分だが、そんなストーカー被害者に共感している場合でもない。
「ファルガー、あんた何者だ?」
いろいろと浮かぶ質問をすべて一言にぶち込むように投げかけた。睨むように。
俺の言葉に、首を戻したファルガーの視線がぶつかる。それでもやっぱり表情にあまり真剣みは感じられないが、瞳の色はそれと不釣合いなくらいに深いと思った。
「俺が何者だと、お前たちにとって都合がいいんだ?」
逆に返された問いに、眉を寄せる。
「見ての通り、俺はただのこの田舎町の住人だ」
「地上人は、ファースト・ネームを聞いただけで相手のファミリー・ネームと出身地までわかる能力でもあるのか?」
「まさか。超能力者じゃあるまいし」
「じゃあファルガーさん、どうしてヴェインのこと知ってたの?」
だんだんと剣呑になってきた俺たちの空気を読んでか無意識か、口をはさんだシルスの方に一瞬だけ視線をやって、ファルガーはまた真っ直ぐに俺を見た。俺のきつい紅眼と数秒間、ぶれることなく向き合って、それから視線が少し上にずれる。俺の髪色は奴みたいにくすんでいないが、色素の薄さは少し似ているのだということに、ふと気づいた。
「別に。その理由をお前らに言う気は無い。それよりお前らこそ、どうして地上なんかにいるんだ。まさか天上から落ちたとかいう訳じゃねぇだろう?」
「んな訳あるか。仕事だよ、右も左もわからず放り出されたのに変わりはねぇけどな」
きっとファルガーは、俺の問いに対してこれ以上何かを答えることはないだろう。それが何となくわかってしまって、俺は乱暴に足を組み直した。話を逸らされたのは気に食わないが、他にも知りたいことが山ほどあるのは事実だ。
「――俺らの女王陛下は、地上に着いたらまずあんたを探せと言った。あんたは俺を知ってるみたいだが、こっちに協力してくれる気はあるのか?」
「女王? お前ら、まさか女王に言われて地上へ?」
「あぁ、これでも直属の騎士団員なんでな。あんたが天上のことをどれほど知ってるのか知らねぇが」
言いながら、騎士団の紋章が刻まれた指輪を外して机の上に放り出す。生真面目な副長にでも見られたら叱られそうな扱いだが、ファルガーもまた、ぞんざいな手つきでそれを取りふぅんと気の無い声をあげた。
「これ持ってるってことはお前、団長か。そりゃたいしたもんだ」
言ってる割にその口調は感嘆には程遠いが。とりあえずこの男、天上の事情にはずいぶんと詳しいらしい。
放り返された指輪をはめ直して、ファルガーに視線を合わせる。胡散臭い男だが、協力者を得られるかどうかは俺たちにとって死活問題だ。“力になってくれるはず”という陛下のお墨付きを疑う気はないが、こればかりは、はぐらかされる訳にはいかない。
「騎士団長様自ら地上界くんだりまで、何のために来た?」
「もちろん、任務のためだ」
「どんな?」
「あんたの協力を取り付けるのに、詳細説明が必要なのか?」
「そりゃ、“協力”の程度によるな」
こちらに判断を委ねるような言い様だ。先ほどのことといい、こちらの質問を受けては流す、掴みどころのない柳のような男だと思った。
どこまで踏み込むべきか、思案しながら心持ち体を乗り出す。玄関の扉が音を立てたのは、その時だった。
「ただいまー」
女の声。ファルガーの言っていた姪のステラだろうか。
話は途切れたまま、俺たち三人が見つめる中、こちらの部屋へ向かって軽やかな足音が近付いてきた。廊下とリビングをつないでいる扉が開く。
「遅くなってごめんなさい、隣のおばさんと話しこんじゃって……」
そう言いながら入ってきたのは、大きな買い物袋を抱えた蜂蜜色の髪の少女だった。