夜の始まりを告げる鐘―1
ゆるやかな黄昏の中を
私は留まること無く歩き続ける
過ぎてきた世界を見送りながら
天と地のはじまりを回顧する
輝く蒼穹を包む力を
手にし天へと去る者を見届ける
地に残された得ざる者を探しながら
失われた世界を懐古する
光降る夜を心に願う
疲れたこの身に安らかなる眠りが訪れるよう
地平の果てに優しき陽が消える
私の旅は終わること無く
追憶の向こうに霞んだ日々が嘆かぬよう
今ひと時の憩いに瞳を閉じる
窓から差し込む夕日ばかりを光源としたこの薄暗い場所で、なお闇に融けない色素の薄い金の髪を、あいた片手でかきあげる。すぐまた視界に落ちてくる前髪の隙間から、手元の本につづられた掠れた文字を見た。今にも崩れ落ちそうなほど古ぼけた本は、一つのソネットののち、白紙のページばかりが続いて終わるという奇妙なものだ。鼻をつく、けれど不快ではない古書の匂いに包まれながら詩を読むでもなくページを眺めていると、馴染んだ気配が近付いてくるのに気がついた。
「こんな暗闇で読むと、目が悪くなるぞ」
抑揚のない低音。聞きなれた声。ゆるりと顔を上げると、影に落ちるような黒い姿が目に入った。
「読んじゃいねぇよ。なんとなく、見てただけだ」
「そうか」
適当な返事にも、あまり感情の篭もらない相槌ひとつだけが返る。黒い髪と、ダークトーンの服に身を包んだ友人はその静かな立ち姿とあいまって、この夕闇に沈みかけた静謐な場所と同化しそうな印象を受けた。
天井近くまでそびえる高い本棚が無数にならび、本を傷めないよう、その隙間を縫うように丸窓からわずかばかりの陽が差し込む。人気の無いこの場所は王宮図書館というよりただの書庫に近く、ろうそくの火すら入れられていない今、ここはまるで外界から断絶されたような場所だろう。
手の中の本を閉じ、もとあった本棚のわずかな隙間に戻す。その本の背表紙には、何も書かれていなかった。
「――詩は、予言へと続く。なあクライド、お前どう思う?」
黙って傍に立つ友人に問いかける。今さら深い他意など無い、戯れのような言葉だった。
「俺たちのすべきことがあるとすれば、世界の行く先を注意深く見ていることだろう」
それでも答えは返る。クライドのほうに向き直るとそこにあるのはいつもの無表情で、俺の不意の言葉に驚くことも戸惑うこともないただ冷静な反応に、なんとなく笑みがこぼれた。
「変化なんて、無ければそれでいいんだけどな。今が続けばそれ以上は望まない」
「……そうだな」
俺の言葉にクライドが相槌を打ったのを見て、図書館の入り口へと向かう。音の無い空間に、外からの訪問者の足音はよく響いていた。
扉を開ける瞬間、窓の外から届いた荘厳な音に耳を澄ます。夕刻の終わりと、夜の始まりを告げるカリヨンベルが打ち鳴らされていた。音が止むと、澄んだ鐘の音に聞き入る俺を待つように黙ったまま敬礼だけしていた使いが口を開く。
「ヴェイン様、女王陛下がお呼びです。執務室へお越し下さい」
鐘の余韻が、耳の奥で今も鳴り響いている。
暁のカリヨン
夜の始まりを告げる鐘―1
折り重なった木々の隙間から僅かにこぼれる陽光は金色に輝いていて、光に透ける空気がとても綺麗なことがわかる。あたりに人の気配は無く、神聖な気すらする静まり返った空間は、あの王宮図書館に少し似ていると思った。それが世界の全てであるとさえ錯覚してしまいそうなほど、長く深く続く木々の群れは、この森が非常に広大であることを告げている。背後に高い岩壁を備えたこの場所はおそらくその最奥で、きっと本当ならば、人が踏み込んでいい場所ではないのだろう。
そうやって自分のいる場所を一通り認識すると、俺はやわらかい土を踏みしめ、澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んで、とりあえず。
周囲の木に八つ当たった。ふざけんな! なんでこんな訳のわからない所に落とされなきゃならないんだチクショウ。
無言で近くの木を殴りつけると頭上からはらはらと葉っぱが落ちてきて、その一枚が頭の上に乗る。今の俺はそんなことさえムカついて、それを乱暴に取り上げ地面に叩きつけようとするが、当然薄っぺらい葉は空気抵抗にあって情けなく宙を舞うだけだった。ようやく地についたその葉を腹いせに右足で踏みつけたところで、すぐ傍から無言の悲鳴のようなものを感じ取る。ギギギ、とベタな効果音が付けられそうな気分で首をそちらに巡らすと、本当はわざわざ確認するまでもない、この状況の俺と同じ目にあった相棒がいた。
「あの、ヴェイン? 落ち着こう、ね?」
相棒もといシルスは、俺の表情を見て引きつった笑みを浮かべながらこちらを見ている。血の色を透かしたような俺の真紅の目は、少し睨みをきかせればかなりキツく見えることくらい承知の上だ。シルスが今さらそんなことを本気で恐れたりしないことは、それ以上に知っているので気にしやしないが。
俺が無言で寄っていくのにシルスはその場で硬直していたが、つい先ほどまで地面に転がっていたせいで頭にまでついている土や葉をやや乱暴に払ってやると、へらりと笑った。こんな状況なのに案外余裕だな、お前。
こんな状況、とはつまりこんな森の奥深くにたった二人放り出されていることだが、そもそもこの事態をつくり出した張本人は、我が敬愛すべき女王陛下だ。事は俺が彼女に呼び出されたところまで遡る。
「クラース騎士団団長ヴェイン・イーディス、入ります」
言いながら扉を叩く。中から返事が聞こえ扉を開くと、女王は執務机の向こうで優雅に脚を組んで座っていた。行儀が悪いと叱られそうな姿勢だが、部屋の中にそれを指摘する他人はいない。
「こんな時間にごめんなさいね」
「いえ。何の御用です?」
女王は、唇に艶やかな笑みを乗せて真っ直ぐにこちらを見ている。
王としては比較的まだ若く、その上まず実際の歳以上に見られることのない外見は、美しいと言うに差し支えないだろう。国を率いるその手腕は本物で、先代の王が亡くなったときは見事に国をまとめてみせた。だから彼女を慕う者は多いし、俺もその実力は認めている。ただ、なまじ付き合いが長いだけに、この人が表では出さない余計な一面も知ってしまっているというだけだ。
女王に手招かれるまま、俺は机を挟んで彼女の正面に立つ。赤い口紅に彩られた唇が優雅な弧を描くのに、今すぐ部屋を出て行きたい衝動に駆られたのは間違いではなかった。
「あなたに新しい任務よ。重要な仕事だから、心して聞いてね」
「……はい」
一応、任務と言われてしまっては嫌な顔をすることはできない。女王の指示を受けて各地を飛び回るのが、俺たち騎士団の仕事だ。それにしたって最近はその忙しさが尋常ではないので、休みくらいくれと文句を言いたいのが本音だが。特に女王がこんな顔をして笑っているときは、ろくなことがない。経験上。
「ねえヴェイン。あなた今のこの世界の状況、どう思っていて?」
「は?」
仕方ないので腹をくくろう――そんな風に自分に言い聞かせていたら降ってきた突拍子も無い質問に、思わず間抜けな声を返してしまった。
「この世界の状況?」
「最近の事態と言い換えてもいいわ」
「……魔獣の増加、ですか」
途端思い当たってつぶやいた言葉に、女王は頷いた。
騎士団の仕事は、各地にはびこる魔獣の討伐が主だ。そのため団員は魔獣出没の報が入るたび各地に派遣されていて、本部であるこの王宮に全員が揃っていることはほとんど無い。その上ここ数ヶ月というもの、その魔獣の出没数が急激に跳ね上がっている。休みが無くなっているのも正にそのせいなのだが、女王もこの件、ついに本腰入れて動き出すつもりらしい。
「現在はまだ騎士団の方で抑えきれていますが、このまま数が増え続けるようであれば、いずれそれも難しくなるでしょう。民衆も不安がっている。根本的な原因を突き止めるなど、なんらかの対策が必要かと」
「その通りよ。私もそう思って、独自に調査を続けていた。そこでね、ヴェイン。あなたにやってほしいことがあるの」
「それが今回の任務ですか」
「ええ」
そこで俺は、最初に感じた嫌な予感が自分の勘違いなどではなかったことを知る。
「ちょっと、地上界まで行ってきてちょうだい」
頭が真っ白になった。
地上界地上界地上界。聞きなれた単語でありながら、あまりに自分から遠いと思っていた言葉が頭の中に渦巻いている。
遠い遠い昔、一つだった世界は二つにわかれてしまった。俺たちの住む天上界と、それから地上界。仲の悪かった両界は互いに行き来する道を閉ざし、背を向け合って相容れない世界として存在してきた。
それは小さい子供が母親から聞かされる寝物語のような話で、誰でも知っているが、誰も信じていないおとぎ話だったはずだ。だって地上界を見たことがある人間なんて存在しないから。俺たちが住む場所は確かに天上界と呼ばれているが、それは古くからの慣習であって、別に空の上に浮いているわけではないし、天に対して地の世界があるなんて本気で考えたこともない。なのに女王は、あっさりそこに行けとのたまった。
「魔獣増加の原因が地上界にあるかもしれない、か」
「突然そんなこと言われてもさ、はいそうですかって言えるかよ」
さっそく一連の事態を騎士団の詰め所に戻っていたクライドに話してみたが、こいつはやっぱり冷静だった。地上界とか言われて何で顔色一つ変えないんだ。
「だが陛下は、何らかの確信を持っているからこそお前を派遣すると決めたのだろう?」
「確信があるからこそ団長自ら、ってか? それにしたって突然すぎる。あるかどうかも分からない所へ調査に行けって言われてもなぁ、だいたいあの人、無茶苦茶なんだよ」
「陛下に文句を言ったところで、今さら決定が覆りはしないだろう」
「……そりゃ確かに」
我が道を行く女王の性格を考えれば、そんなこと有り得ないことくらい嫌でもわかる。クライド、口元が笑ってんの自分で気付いてるんだろうな? 馬鹿にされている訳ではないとわかっているので、怒る気はしないが。
それにしたって、とため息をついたとき、遠くから半泣きで俺たちの名前を呼ぶ声が聞こえた。
「シルス」
もともと半開きになっていた詰め所の扉をはね開け、駆け寄ってくる友人を、クライドが相変わらずの無感動に聞こえる声で迎える。その内こいつも合流してくるだろうと読んでいたのは、俺もクライドも同じだったろう。なにせ女王直々の指名を受けてしまった、今回の任務の相棒だ。
夏の葉を思い出させるような鮮やかな翠の髪が、俺たちの目線の少し下で息を切らしている。小柄なうえ年齢の割に童顔なシルスは、さらにその外見通り気が強いほうではない。髪と同色の瞳がこちらを向くと、案の定泣きそうだった。
「ヴェイン、聞いた?」
「あぁ、ついさっき」
シルスの顔を情けなく歪ませている原因が、女王の任務通告であることは明らかだ。泣きたくなる気持ちはわかる気がするが、だからって本当に泣くなと髪をかき回すと不満げなうなり声が返ってきた。
「出発はいつなんだ?」
「明日」
「……早いな」
「まったくだ。かなり長期になりそうだってのに」
シルスがパニックに陥っているおかげで逆にこちらは落ち着くというある意味典型的な状況で、それを後押しするように、開いた窓から冷えた夜風が通り過ぎていった。
出発は明日の朝、それほど時間は無い。任務で何日も出ることは慣れているし、たいした荷物もないので荷造りの心配は無いが、先行き不安すぎる今回の任務前に挨拶していけるのがクライドだけというのは少し残念だ。出払っている他の騎士団員たちがこの王都へ戻ってくるのは、まだ数日先だろう。
「ねえヴェイン、荷物ってどうするべきだと思う? 何か特別なものとかいるかな?」
少し気を取り直したらしいシルスが、俺にぐしゃぐしゃにされた髪を撫でつけならがこちらを見上げる。
「いつも通りでいいだろ。予測つけようが無い分、むしろ身軽に動けるぐらいの方がいい」
「そっか。まあヴェインがいるんだし、何とかなるよね」
「お前、人に丸投げすんなよな」
「だってヴェイン、団長なんだから僕の上司じゃん」
「こんな時だけ都合のいい」
軽く頭をはたくとシルスが不満げな声を上げて、高さが丁度いいんだと言うとさらにブーイングが返る。悔しかったら俺の身長超えてみやがれと言えばシルスがクライドに泣きついて、クライドが苦笑いしながらやっぱり頭を撫でる。たぶんクライドのあれは無意識で、悪気はないんだろう。それにまたシルスが怒って、いつもの光景だ。きっと、しばらくの間は見れなくなってしまうんだろうけど。
二人のやりとりを横目に空を見上げると、月の位置で夜もずいぶん更けてきたことがわかる。地上界の夜も同じような夜空が見えるのだろうかと、ふと思った。少なくとも、天上界に響くあのカリヨンベルは聞こえないに違いない。
「シルス、明日からはキツくなるかもしれないんだ。そろそろ休んどけ」
「あ、うん。そうだね、わかった」
素直に帰って行くシルスを見送って、俺も後に続こうとする。その背後から、クライドの静かな声がかかった。
「ヴェイン、お前は、地上界の存在に薄々感付いていたんだろう?」
疑問の形をとっていても、俺が否定するとは考えていないだろう声音。思わず振り返っても、クライドの表情から何かを読み取ることはできそうにない。ただ頭をよぎるのは、つい先ほどまで目にしていた奇妙な本のソネット。
地上界など、あるはずがない。それでよかったんだ、だって俺には必要の無い世界だったから。どうだっていいと思っていた。俺の役目は、今あるこの場所を守ることだけ。
「どうだかな。俺には関係ない場所だと思っていたのは確かだけど」
肩をすくめてみせると、クライドもこれ以上この話題を続ける気は無いようだった。
「……気をつけてな」
「あぁ。俺たちが無事に帰ってこられるよう祈っててくれ」
ひらりと手を振ると、俺はクライドのもとを後にした。
これから何が起こるとしても、俺は必ずこの場所に帰る。声にならない誓いを一つ、馴染んだ場所と自分の胸に立てながら。