公爵の傷
ユアン視点です。
目の前できらきらと瞳を輝かせるエミリーを見下ろしながら、熱の集まる顔を少しでも隠そうと口元を手で覆う。
――こんな戯言、ただ俺を恐れて世辞を言ったに過ぎない。
そう思っているのに、それでも幼き過去、こんなに手放しにこの仄暗く疎ましい髪や瞳を褒められたことはなかったから。だから、ユアンがエミリーの言葉にたじろぐのも、信じられない思いと裏腹に照れてしまうのも、仕方のないことだった。
「……怖くないのか」
ユアンの声は、自分でも分かるくらいに震えていた。一般的に暗い色の髪色は忌み嫌われる。同じ色をした瞳だって、過去散々と詰られた。生まれてすぐから畏怖の目で見られ続けた傷は、そう簡単に癒えはしない。特に貴族というものは、自分の考えが全て正しいと思っている生き物であることをユアンは重々承知している。
今も尚、本や家具に触れたときのように恍惚とした表情を浮かべるエミリーだって、間違いなく貴族――伯爵令嬢なのだ。
「怖い…とは、なにに対してですの?」
「この髪と瞳だ。お前だって知っているだろう、暗い色がどう思われているか」
「――ああ!勿論、怖いですわ」
エミリーは、ぽん、と笑顔で両手を叩いた。
ユアンは表情に翳を落とす。そうだ、この世界に生まれ落ちた者ならば知っている筈だ。そうして、恐れる筈だ。この髪と瞳は、
「ちょうど考えていたところでしたの!どうして、暗い色が嫌われるようになったのか――って。始めは過去残虐の限りを尽くした独裁者の色だったからだとは存じておりますけれども、たった一回のことで今日まで嫌われるなんて、果たしてどんな色なのかと思っておりましたのよ。けれども、公爵様の御髪を見て漸く分かりましたわ!」
「……そうだろうな、この色は一目見ただけで」
「美しすぎるからです!」
ユアンの言葉を遮るようにして発されたエミリーの確信めいた言葉に、ユアンは再び目を見開いた。ついでに口もぽっかりと開いている。
今この女はなんと言ったのか。耳を疑う言葉に、ユアンは次に発言すべきことが思い浮かばない。そんなユアンを置いて、エミリーは構わず話を続ける。
「昔から、人間が手にすべきではないと思われる程の美しいものは皆から恐れられるものですもの。天から与えられたあまりに綺麗なものというのは、どことなく近寄りがたいのですわ。私だって、このような夜に溶けてしまいそうな澄んだ色は初めて見ましたもの。それこそ、この世のものではないかと思った程ですわ!感激のあまりときめく胸が抑えられず、私の身体が私のものではないようで怖いのです!」
「……お前は何を言っているんだ…」
正直なところ、ユアンにはエミリーが話すことの十分の一も理解はできなかった。けれども、エミリーの言葉には自分に害を与えようとする気持ちは微塵もないことだけは、流石に伝わってきた。
この世のものではない、怖い――幼い頃幾度となく投げつけられてきた言葉であるが、今この瞬間に耳にした言葉はそれらとは全く違った意味を持っている。
「先程から、お顔がずっと真っ赤ですわね。…はっ!も、もしかして、怒ってらっしゃる!?私、気に障るようなことを言ってしまいましたわね!?申し訳ございません、昔から気分が昂ると思っていることを全て話してしまうものですから…」
しゅん、と効果音が付きそうな程に一気に鎮火したエミリーは、緩々と頭を下げた。立派な伯爵家の令嬢である筈なのに、一般の貴族令嬢のような傲慢さが一切見当たらないその姿は、単純だと思いながらもユアンの警戒心を少しずつ解いていく。
(――チッ。少し褒められたくらいで、なんだと……)
誤魔化されないようにと心の中で悪態を吐きながらも、自身の一等醜いところを受け入れられたという出来事は、ユアンの中であたたかく根を張った。
エミリー・ファグリナは、今まで出会った貴族とは違う。その事実を、ユアンは漸く自分の中に落とし込んだ。
「…別に、怒ってなどいない」
「あ……よかった…」
安堵の表情を浮かべたエミリーは、再び、ユアンに髪を触っても良いか尋ねた。ユアンは一瞬躊躇ってから、良い、と返す。
エミリーの柔らかな指が、そっとユアンの髪に触れた。先程触れたのとはまた違い、優しく撫でるような手つきに、ユアンは半ば無意識に瞳を閉じた。
――撫でられたのは、いつぶりだろう。
ユアンの中で最も貴族らしい母親は、一度だってこのように慈しむような触れ方はしなかった。生まれ墜ちた瞬間からこの色を携えていた子供のことを、母親は心底疎ましがった。
出産のときから彼女自身が死ぬときまで、少しも自分の子供に触れようとはしなかったし、育てる気も更々なかったようだ。それでもここまで生きてこれたのは、父が擁護してくれたから。
実の母である筈の女は、子供を産んだのは自分だと主張するばかりで世話などはせず、宝飾品などを強請ってばかり。少しでも思い通りにならなければヒステリックに叫んで、そして権利ばかりを盾にした。ユアンのことはただ公爵を強請るための道具としか思っていなかった。
(…嫌なことを思い出した)
目を開く。いつの間にか、ユアンを撫でていた手は既にエミリーの腹付近まで下ろされていた。
エミリーの金色に近い茶色の瞳がきらきらと輝いている様を見ると、先程まで頭を占めていた忌々しい記憶が少し薄れるような心地がする。不思議な感覚に、ユアンは小さく首を傾げた。それに倣って、深い藍色がさらりと揺れる。
髪の行く先を目で追っていたエミリーは、ふう、と深く息を吐いた。
「勿体ないですわ。こんな綺麗で素敵な髪を隠してしまうなんて」
「…そんなことを言うのはお前だけだ」
「本当ですか?信じられませんわ、こんなに美しいのに……。そうだ、もしお嫌でなかったら、せめて私との食事の時はあの外套を外して頂けませんか?二人きりですし、……これっきり見られないなんて寂しいですわ」
エミリーの瞳が、ユアンを窺うようにして覗き見る。不安げに揺れる金色に、ユアンは溜め息をついた。
「――考えておく」
翌朝、朝餉の席では再びエミリーの熱のある視線がユアンへと注がれることとなった。